第12話
月明かりの下で、カイルの落とした根付を見つめるユキの脳裏に、辛い思い出がまた駆け抜けた。
カイが死んだ日、父が持って帰ってきた片方の草履。
草履の鼻緒は、ユキが買った三色の布地で作られたものだった。
その布地が、いま目の前にある。
根付の貝に貼り付けられた布地は、あの日の草履のそれと、あまりにも酷似していたのだ。
ユキは先程落とした印鑑をひっ掴んで立ち上がると、養育院へ向かって駆け出した。
(あり得ない……いえ、違うわ。むしろこっちの仮説の方が自然だもの。どうしてあたしも皆も、
既に無人の炊事場を抜け、東棟に入る。
雑に履き物を脱いで下駄箱へ押し込み、廊下を駆け出ようと足を踏み出したところで、畳んだ手拭いを何枚も抱えた母がユキを呼び止めた。
「あ、ユキお帰り。なに難しい顔してんの?魔道士様達はもう寝所にお入りになったわよ。サナ達がいま湯浴み場にいるから、あんたもさっさと湯浴みしてらっしゃい。父さんと母さんはあとで入るから」
「え!?あ、ええ……そうする」
呑気な母の様子になんとなく拍子抜けしてしまって、ユキはそのまま壁に背中をつけた。
「ふぅ。ね、母さん」
「なあに?」
「昔ここにいた……カイって男の子、覚えてる?」
「カイ?なによ、当たり前じゃない。あんただけが悲しいって訳じゃないのよ。あたしも父さんも、あの子が死んでどんな思いだったか……」
ユキの母は、遠い目をした。
「そ、そうよね。ねえ、母さんはさ、カイル様……魔聖さまとカイ、どこか似てると思わない?」
「魔聖さまと?いや……母さんはそんな事、考えたこともないわ。そりゃいま思えばおんなじ”色”だなとは思うけど。でも赤の”色持ち”自体は他にも何人かいるらしいじゃない」
「そう……」
母はなんとも言えない表情でユキをまじまじと見つめた。
ユキは相手が何を言わんとしているのかピンときた。味噌をもらいに行ったときのタツキと同じ目だったからだ。
「ユキ、」
「あ、早く湯浴み行かなきゃね。その手拭い、もしかして湯浴み場に補充するやつ?あたしついでに持ってくわ」
「え、ええ。よろしく……」
また余計な事を突っ込まれてはかなわない。
ユキは半ば奪うように手拭いの束を受けとると、そさくさと湯浴み場へ向かって行った。
――――
気もそぞろに烏の行水を済ませ、自室へ走ったユキは、文机に件の根付を置いた。
かなり明るくなった手元で、ユキは再度根付をしげしげと眺めた。
小ぶりな
しかもこの黒の綸子織は……
(やっぱり、あたしが染めたものだわ)
ユキがカイの草履の鼻緒を
試行錯誤の末、赤い布地を半分に切った片方を、素人ながら裏山で拾った材料でなんとか黒く染めたのだった。
立ち上がったユキは、背伸びして箪笥の上をまさぐった。奥の方から引っ張りだしたそれは、あの日父が見つけた片方の草履だった。
積もった埃を丁寧に払い、鼻緒の布地と根付の布地とを照らし合わせた。やはり、地紋の小花模様まで一致している。
「……信じられない」
根付と草履を放り、ユキは後ろに手をついて天井を仰いだ。
間違いなく、カイルの根付はあの草履から作られたものだ。
問題は、なぜカイルがそれを持っているか。
答えはひとつしかない。
――魔聖さまは、カイだ。
それで、初対面での奇行も謎めいた発言も、一気に説明がつく気がした。
出自について隠しているのは、身分的にきっとはかりしれない事情なんかがあるのだろう。
でも、
(あたしには、あたしにだけは教えてくれてもいいじゃない……)
カイが生きていた。その事実は心から嬉しい。
初めて”魔聖さま”と対面したあの時、ユキの頭に浮かんだのは(もしカイが生きていたら、きっと今頃このくらい大きくなっていたんだろうな)という思いだった。
それから幾度も、彼にカイの面影を重ねた。
この人がカイだったならいいのにと思った瞬間もあった。
その不義理な考えに、何度も自己嫌悪に陥った。
もし、あの土手で正体を明かしてくれたなら、あんなに苦しむこともなかったのに。
(許さない)
ユキは宙を睨み、ギリ……と奥歯をかみしめた。
今すぐあの男の所にすっ飛んで行って、一発かましてやらなければ気が済まない。
完全に物騒な目付きをしたユキは、頭の中で襲撃計画を立て始めた。
両手を組み合わせ、ポキポキと指を鳴らす。
ユキの計画がいよいよ煮詰まり、カイを拳で殴るか平手で打つかで悩みだした時、部屋の障子の外から、切羽詰まったような囁き声が聞こえた。
「ユキ先生、ユキ先生」
「うーん、グーか、パーか……」
「ユキ先生……!」
「へ?誰?あ、その声は……ジュン?」
やっと気づいたユキは慌てて立ち上がり、障子を開ける。
すると、真っ青な顔をしたジュンが、膝をついてこちらを見上げていた。
「どうしたの?ひとりで来たの?もうとっくに日が暮れてるわよ」
ユキの小言には耳もくれず、ジュンは必死な顔でユキの裾を引っ張った。
「姉様が!魔聖さまに……どうしよう、僕、姉様にもしも」
「うん?姉様て、メイよね?メイとカイ……ル様に何かあったの?ゆっくり話しましょ。さ、これ飲んで落ち着いて」
ユキが文机から白湯の入った水差しを取って来て渡すと、ジュンは少しだけ口をつけ、すぐ返した。
「うん、ごめんね先生……ありがとう。えっと、僕さっきまで魔道士さまたちの寝所で
「うんうん」
「そしたら家の前で、姉様とすれ違ったんだ。姉様ね、みたことない服着てた。肩とか脚とか丸出しで、ヒラヒラしてて、すごい格好」
話しながら光景を思い出したのか、ジュンは眉間に皺を寄せた。
「姉様に、どこに行くのって聞いたら、アンタに関係ないでしょって言われてさ。姉様ってさ、他の人には
「ええ、ええ。実は村中が知ってるわ。あの子は相当なブラコンよ」
ユキは深く頷いた。
「家に入ったら、父様が酒飲んで笑ってたんだ。ずっと大事にしてた、とっても高い酒をあけてるのが見えた。姉様はどうしたのって聞いたら、父様はニヤニヤしながら言ったんだ。『姉さんは大事な仕事に行ったんだ。魔聖さまをお慰めする仕事にな』って」
ジュンは言葉をつまらせた。ユキは息を呑んだ。
「父様が言うには、魔聖さまの御使いの人が、ウチに来たんだって。魔聖さまがよ、……夜の、お相手をお望みだから、姉様を寄越すように言いに来たって……」
ジュンはもはや半分ベソをかいていた。
「ね、先生。姉様は絶対嫌がってるよ。先生も知ってるでしょ。姉様はずっとタツキ兄ちゃんの事が好きだったんだ。だから家の前ですれ違ったとき、余裕がなくて僕にあんな言い方しちゃったんだ」
そこまで言いきると、ジュンはわっと嗚咽をあげて泣き出した。その背中を優しくさすりながら、ユキは言った。
「それで、いてもたってもいられなくて、ここまで走ってきたのね。分かったわ、ジュン。後はわたしにまかせなさい」
「グスッ……え?」
ジュンはポカンとユキの顔を見上げた。
「決めたわ。グーよ。一発じゃ足りないわね。二発必要だわ」
そう言って、ユキは笑った。
とてもきれいな笑顔なのに、ジュンはゾッと背中に悪寒が走るのを感じた。
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