第6話
例のアイツ――ユキが、魔聖さまから結婚の申し出をされたとき、あたしの心は醜い嫉妬でいっぱいになった。
別に、自分が魔聖さまの目に止まりたいと思ったわけじゃない。魔聖さまの顔はとても美しいと思うけど、あの血のような瞳が不吉に見えて、あたしには美しさよりも恐ろしさの方が際立って見えたから。
ただ、村どころか国中の羨望の的である魔聖さまに見初められる栄誉だとか、魔聖さまと一緒になった後の豪華な暮らしぶりを想像して、純粋にうらやましいと思ったのだ。
そして不遜にもユキが申し出を断ったあの瞬間、頭の中で何かがプツン、と切れる音がしたのだった。
(人がどれだけ努力しても手に入れられないものをあっさり手に入れておいて、
他の魔道士に何やら指示をして、ユキを追っていった魔聖さまを眺めながら、あたしの頭の中では、あの頃の思い出が鮮明に蘇っていた。
――――――
村長を父に持つあたしは、小さい頃からそれはそれはちやほやと大切にされて育てられてきた。椿の柄が大きく入ったかわいいお着物も、蒔絵の入った漆塗りのきれいな鏡台も、みんなあたしのもの。世界は自分の思い通りだと思っていたし、実際
そんなあたしも、ただの脇役に過ぎないのだと思い知らされたのは、8歳の頃。同い年の酒場の息子、タツキへの想いを自覚した時だった。
当時あたしがタツキを四六時中見つめていたのと同じく、タツキもひとりの女の子をずっと目で追っている事に気付いたのだった。……そう、ユキだ。
気のせいだと自分に言い聞かせた。気にしないよう努めていた。タツキが事あるごとにユキにちょっかいをかけ、ユキの側にいるカイに冷たく当たるのは単に二人が気に入らないからだと、そう思い込もうとした。
そんなある日、タツキがユキから平手打ちを食らう場面を目撃した。タツキはいつものように、ユキの衣服の貧相さやらカイの境遇やらをからかったのだろう。遠くから見守っていたあたしですら怯むような危険な目付きでタツキを睨み付けたユキは、胸ぐらをつかみ上げると渾身の一発を相手にお見舞いしたのだった。
もう一発、と手を振りかぶったところでカイがユキを止め、二人は茫然自失のタツキを残してどこかへ歩いていった。
あたしは慌てて近くの家に飛び込んで、汲み置きの水に手拭いを浸して絞り、タツキのもとへ走った。
その時、あたしの頭の中では都合の良い物語が作られていた。頬を痛めたタツキに手拭いを渡すあたし。あたしの優しさに心を打たれるタツキ。ユキを嫌いになって、あたしの事が好きになるタツキ……
しかし、それはただの夢想にすぎなかった。片方の頬を赤く腫らしたタツキに「大丈夫?」と手拭いを差し出すと、あたしは「うるせぇ、ブス!あっちいけ!」と眉をつり上げたタツキに手で追い払われたのだった。
タツキの拒絶は、頭を岩で殴られたような衝撃だった。気が遠くなりそうになるのを必死で堪えて、あたしは走った。ひたすら走って、走って、自分の家に着いた頃には涙だか鼻水だか区別もつかないような液体で顔中べちゃべちゃにして、心配そうな顔をした女中を押し退けて自分の部屋に閉じ籠った。
お気に入りの鏡台にちらりとうつった自分の顔は、タツキに言われた通りブスに見えた。あたしは思わず鏡台に手拭いを投げつけた。
カイが死んだのは、そのすぐ後だったと思う。
普段からカイを不気味な子供だと毛嫌いしていた父様が、ひどく取り乱していたのが印象的だった。あたしもカイを気味の悪いヤツだと思っていたので、カイが死んだことには何の感情も沸かなかった。
ただ、ユキはきっと落ち込むだろう。タツキはどうするのかな、きっとユキを慰めるんだろうな。とぼんやり考えて、どうしようもない思いに押し潰されそうになったりしていた。
実際、カイが死んだ後のタツキはユキに対してムカつくほど丁寧に接するようになった。ユキだけじゃなく、周りの誰に対しても親切になり、まるで人が変わったようだと皆が囁いた。
人が変わってしまったのは父様も同じだ。すっかり博打にのめり込み、あたし達家族だけには優しかった父様も、やたらイライラする時間が増えて、あたしや弟に暴言を吐くようになり、母様には時折手を上げることがあった。
女中を解雇し、母様は何日も家を空ける事が多くなった。食事も質素になり、あたし達の欲しいものは何も買ってくれなくなった。
お家のお金がなくなったんだと、子供ながらにピンときた。「あの赤髪のガキをさっさとあの養育院に売り付けていたら、そうしたら今頃は大金が手に入るはずだったんだ」とある日酔っ払った父様が溢していた。
そこまで貧窮していても、父様は見栄っ張りなので身なりだけは整えなくてはいけなかった。父様の博打代、酒代にくわえてかさむ着物代で、生活はどんどん苦しくなった。
そんな暮らしが2年ほど続いたある日、いつものようにタツキを物陰から眺めていると、背後からぽん、と誰かがあたしの肩をたたいた。
驚くやら後ろめたいやら、ブルブル震えながら振り返ると、そこには父様がいた。
「メイは酒場の小僧が好きか?」
父様の目が、ギラギラと光っている。あたしは肯定も否定もできずにその場に立ち尽くした。
「違うのか……?いいや、俺には分かっている。お前はあの小僧に惚れている。そうに違いない。な、そうだろ。そうだって言え、おい」
あたしが物を言えないままでいると、父様はだんだんイライラしてきた様子だった。とうとう殴られるんじゃないかと思って、あたしは慌ててぎこちなく頷いた。
途端にニターッと歯を見せて笑った父様は機嫌良く続けた。
「そうだろう。な、いいか、メイ。あの小僧をうまくたらしこむんだ。機会は俺が作ってやる。11の歳になったら酒場の配膳娘になれるよう手を回してやろう。そんで年頃になるまでにはどうにか結婚まで漕ぎ着けるんだ。そしたらお前は好きな男と一緒になれるし、俺の方は結納金がっぽりよ。勘定方に潜り込んで横流ししてくれても構わねぇ。大丈夫、どこの村も酒場の亭主は余るほど金を持ってるって決まってるもんだ」
タツキと酒場で働ける!どんなに幸せなことだろう。……向こうがあたしを嫌ってさえいなければ。それに、働くとなると、もう養育院には通えなくなる。あたしには、どうしても叶えたい夢がもうひとつあった。
「で、でも、父様……あたし、まだ養育院に通いたいの。15になるまで通って、そして」
父様は、うるさい虫を払うようにブンブンと腕を振り、あたしの話を遮った。
「養育院だと!女が無駄に知識なんかつけて何になる。女は男を喜ばせる事だけ考えてりゃいいんだよ。その証拠にお前の母さんを見てみろ。文字ひとつまともに書けねぇ馬鹿女でも、今じゃ領主様の大のお気に入りだ」
「母様が、領主様の……なに?」
「なんだ、知らなかったのか?お前達が着ている立派なおべべはな、母さんが領主様に夜な夜な可愛がってもらったおこぼれで手に入れたものだよ」
そこまで言うと、父様は下品に笑った。
「そんな、なんてこと……!」
当時のあたしは10歳そこそこだったけど、父様の言う事の意味は何となく理解していた。
自分の着物がとても穢らわしいものに見えて寒気がし、いままで何でもない風に装っていた母様の気持ちを思うと胸が痛んだ。
あまりの事に絶句したあたしを見て、父様はニヤニヤしながら続けた。
「だがあいつはもう何年かしたら期限切れになる。金持ちは細かいシワやらたるんだ肌やらが嫌いなんだ。いいか、もし酒場に嫁入りできなかった時は、母さんの役目はお前に引き継ぐことになる。それが嫌なら、全力であの小僧を引っ掛けるんだ。分かったか」
――――――
あれから何年も、あたしはタツキの気を惹こうと努力した。お化粧も、着るものも、髪型も、都の流行を必死で取り入れて、髪や肌の手入れだって毎日念入りに行った。タツキの前では笑顔を絶やさないよう気をつけて、積極的に一緒にいようとした。
だが、タツキのあたしに対する態度は良くも悪くも他の女の子と大差なかった。失礼にならない程度にぞんざいで、好意を感じさせない程度には丁寧だったのだ。
(挙げ句の果てに、昨日のアレよ)
昨日の朝、酒場の掃除をしていたあたしは、厨房の奥からタツキとその友達のマサトの話し声がして、咄嗟に手近な台の裏にしゃがんで隠れた。タツキはともかく、マサ卜の方はあたしに会うたび気持ち悪い視線でジロジロ見てくるので極力顔を会わせたくなかったからだ。
「それで、どうなんだよ、タツキ」
「なにが?」
「とぼけんなよ。メイだよメイ。あいつどう見てもお前狙いだろうが」
「おい、お前朝っぱらから呑んでんじゃねえよ、仕事しろ」
「いいだろ別に。はぐらかすなって。どこまでいったんだ?え?」
「いい加減にしろよ!」
バン、と何かを叩きつける音がして、あたしはビクッと身を竦ませた。
「怒んなって、まさか、あの噂って本当なのか?お前とメイが親同士の約束で婚約してるとかって。あいつの事が好きなのか?」
「そんな訳ないだろ……あり得ない」
その時、あたしは真っ白になるほど握りしめていた手をそっと離した。立ち上がると少しふらついて、ごとりと物音をたててしまった。
二人が様子を見に来る足音が聞こえて、慌てて店の裏口から飛び出し、そこでユキの使っていた桶をひっくり返したのだった――
怒りのまま考え込みながら歩いていたら、がくん、と軽い衝撃と共に体が一段下がった気がした。足元を確認すると、靴のヒールが折れている。
「ああ、もう!」
靴を脱いで腹立ち紛れに地面に叩きつけると、気持ちが晴れるどころか、もっとモヤモヤと黒いものが心を覆うような気がした。
どこかへはね跳んだ靴を探しに行く気にもなれず、その場にしゃがんで頬杖をつきふて腐れていると、あたしの頭上に影がさした。
「どうしました、お嬢さん」
知らないおじさんの声だ。関わってもろくなことがない。
「ほっといて」
「まあそう言わずに。かわいい靴、直しておきましたよ」
目の前に、先程ヒールが折れたはずの靴が新品同様の顔で差し出されていた。
「なによ、あたしだって魔法つかえるんだから、それくらいひとりで直せたわ。おせっかいはやめてちょうだい」
ほぼでまかせだった。魔法はそんなに得意じゃない。ただ、こういうのに借りをつくると面倒になる事は、酒場勤めでよく理解していた。
「恋の悩みですね、感情的になる気持ちはよく分かります。家族のお悩みもありそうですね。当たりですか?どうでしょう、あなたのお悩みを解決するのに役立つ、いいものがあるんですが」
思わず見上げると、帝国風の装いをした、見慣れない紳士がこちらを見て微笑んでいた。
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