第5話



 広場から逃げ出したユキは、あてもなくフラフラと村の外れへと足を向けていた。

 

 (どうしよう……どうしよう……)


 魔聖さま直々の申し入れを断ってしまった。本人を置いて逃げてしまった。魔聖さまは敵に容赦ない人だと聞いている。自分には何か罰が下るのだろうか。きっと下るに違いない。


 (でも、初対面同士で結婚の打診なんて、魔聖さまも非常識だわ)


 しかもあんな公衆の面前で。

 何も悪いことはしていないはずなのに、気分はもはや大罪人だった。このまま村から逃げてしまおうか。でもそうしたら父や母はどうなるだろう?養育院は……


 ぐるぐると考えを巡らせながら歩いていると、不意に水の匂いが鼻についた。その瞬間、閉じていた五感が開けたように、涼しい風の感触が伝わり、さわさわとこずえの擦れ合う音や川のせせらぎが聴こえ、青い空に澄んだ川が目に入った。


「ここは……」


 ユキの脳裏に数日前の夢の光景が浮かんだ。そうだ。ここは土手だ。

 どこか夢心地で、ユキは土手に座り込んだ。側にはまばらに雑草が生えている。あの時と同じだ。

 なんだかおかしくなって、ユキは雑草を引き抜いてぽいと投げた。


「どうしたの、ユキ。機嫌悪いの?」


 背後からかけられた言葉に、ユキはその場に凍りついた。心臓が引き絞られるような気がした。

 

 (そんな、まさか……)

 

 自分はまた夢を見ているのだろうか?あり得ない期待が胸を占める。

 ユキは深く息を吸って、それから振り返った。


 赤い髪がきらきらと風になびいている。赤い瞳がこちらを気遣わしげに見つめている。こないだの夢と一緒だ。違うのは……


「魔聖、さま」

 

 きっと自分の顔には失望の色が浮かんでいることだろう。失礼なことだ。それなのに、さっき広場でこの人を間近に見て思った事が、再度頭に浮かんで離れない。


「横に座っても?」


 低く柔らかな、優しい声だ。

 ユキは思わず頷いた。カイルまで抜け出してきては、広場は大変な大騒ぎだろう。本当は早くお戻りいただかなければいけないのに、カイルの声を聴くと、なぜか離れがたい気持ちの方が大きくなった。 


「さっきは、申し訳ない事をしました。つい、想いが溢れてしまい……いきなりあんなことを言われて、怖かったでしょう。恥ずかしながら、部下に小言を言われやっと気付きました」


 カイルは心から悔いている様子だった。ユキは慌てて首を振った。

 

「いえそんな!あた、私こそ、急に逃げ出したりして……魔聖さまにも面目がおありでしょうに。大変失礼をいたしました」


 言いながらユキは、カイルと目を合わせた。カイルの瞳が、何か大きな感情を抑えるようにかすかに揺れた。

 

「それに、私なんかに丁寧な話し方をされなくても結構ですわ。身分の高い方にそのように話し掛けられては、とても落ち着きません」


「ユキ。私は……」


 カイルは何かを言おうとして、躊躇うような仕草をした。ユキがまっすぐ見つめていると、カイルはやがて目を伏せ、諦めたように呟いた。


「そうだな、ユキが負担に思うのなら、そうしよう。その代わり、というわけじゃないけれど……」

「何でしょう」

「私のことは魔聖さま、ではなく名前で呼んで欲しい」

「名前……カイル様?」

「そう、そうだ」


 カイルは嬉しそうに頷いた。


「その方が親しげだろう?いっそカイルでなく、愛称なんかで、カイ、とか」

「それは……」


 ユキの顔が一気に曇ったのを見て、カイルは慌てた。


「あ、すまない。調子にのってしまったな。どうも君の前では気持ちが浮わついてしまっていけない」


 カイルは恥じ入るように頭を掻いた。その様子を見て、ユキはつい横を向いて吹き出してしまった。

 

「んふふっ……あ、申し訳ありません。聞いていたカイル様の評判とは全然違っていたので」

「血も涙もない冷血漢だと?」

「いえ!そこまでは……」


 カイルの気分を害してしまっただろうか、とユキは不安げに相手の顔をチラッと確認する。そんなユキを見て、カイルは目を細めて微笑んだ。


「昔の私は、とても余裕がなかった。とある約束を果たすために、必死で生きようともがいて、利用できるものは何でも利用して……ここに来るのを目標に、ずっと耐えてきた。ユキ、未練がましいと思われても構わない、私はまだ君を妻にすることを諦めてはいないんだよ」


 ふと、ユキの頭のなかに、ある疑問が浮かんだ。カイルに結婚の申し込みをされてからずっと抱いていた疑問だ。


「カイル様は、どうして私なんかを妻に望むのですか。私のような女子はどこにでもいるでしょう。ましてや、今日初めてお会いした仲ではないですか」


 カイルはひどく驚いた顔をした。そんな質問をされるとは微塵も予想していなかったとでも言いたげな顔だ。


「ユキ。ああ、なんて。とんでもない、ユキはとても魅力的だ。それに実は……これは内緒の話なんだけど、初対面ではない。今日よりずっと、ずうっと昔から君を知っていた」


 カイルは穏やかな目でユキを見据えた。

  

「なぜ私は今日、都合良く青い簪をもっていたのだろうね。どうしてこの土手に君がいるって分かったのだろう。私からは全てを言えない。忌々しい誓約、もはや呪いのようなものだ。たとえ言えたとしても、あの力によって全て無かったことになるだろう」


「それって……」


 カイルの謎かけのような物言いに、訳が分からなくなったユキは首をかしげた。 

 カイルは大きく伸びをすると、立ち上がって服についた草を払い、ユキに向かって手を伸ばした。

 

「さあ、ユキ。皆が待ってる。そろそろ広場に戻ろう」

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