第3話

 次の朝。

 養育院の中庭の畑に朝日が斜めに射し込む様子を横目で見ながら、ユキは院の正門で名簿を片手に子どもたちを出迎えていた。

  

 「せんせー!おはよー!」

 「はいはい、おはよう」


 元気いっぱい、大手を振りながら門をくぐる子どもたちの名前をすべてチェックし終えると、門をとじて閂をかけ、ユキは中庭を挟んで反対側の長屋へ足を向けた。

 長屋の中央の部屋は柘榴組、つまり赤ん坊達の部屋だ。一歳以下の子を持つ母親達が集まり、自分の子も他人の子もなくすべての赤子の育児を皆で分担して行っている。

 部屋の前で履き物を脱いで縁側に腰掛けると、通風のため大きめに設計された欄間から赤ん坊の泣き声やら母親達の世間話やらがはっきり聞こえた。ユキは騒がしい障子の向こうへ、負けじと声を張り上げた。

 

「母さん!あたしよ!名簿もってきたの。入るわよ」

「あ、待って!はいはい、ちょっと待ってね。みんな、開けるわよ。いいわね」


 縁側の隅には蚊遣りが焚かれている。煙が細く昇る様子を眺めながら待つと、しばらくして母が障子を開けユキを中に招いた。ユキはすぐに手元の名簿を差し出したが、母は名簿が目に入らない様子で、頬に手を当て困ったように言った。


「お待たせ。この時期はどうしてもお尻がかぶれる子が多いわね……カンライさんにもっと軟膏を仕入れてもらうよう言っといてくれる?」


 ユキの母は傍でオムツ替え中の母子を顎でしゃくった。不機嫌そうな赤子の尻に、赤い斑点がいくつも散らばっている。

 

「あらぁ、痒そう……お尻の軟膏ね。わかった、後で酒場のオヤジに伝えとくわ」

「あと、お味噌が少なくなってきたわ。次の仕入れまで持つかどうか……二貫くらい分けてもらえないか頼んでおいて」

「了解。軟膏と味噌二貫ね」

「あとオムツやら赤ん坊の着替えやらの洗濯が溜まってるの。あんた午前は授業が無いでしょ?こっちは手が足らないから、洗ってくれたら助かるんだけど……それから今度の視察のお迎え、」

「はいはい、洗濯もやっとく。それより母さん、そろそろ名簿受け取ってよ。腕が疲れたわ」


 母の両手にぐいと名簿を押し付けると、ユキはこれ以上用を言いつけられないようにパッと立ち上がった。ユキの母はまだ何か言いたげに口を開いたが、赤子の泣き声に呼ばれ慌ただしげに部屋の奥へ引っ込んでいった。


「ユキちゃんも大変ねぇ」


 斜め下から話し掛けられ、ユキが視線を下げると、先程オムツ替えをしていた母親だった。


「ええ本当に、人手が全然足りなくて……あ」


 眠くなったのか、トロンとした顔の赤子を抱くその女性を見て、ユキは突然思い出した。そうだ、この人はジロの母親だ。


「あの、ジロの事なんですけど」

「え?ジロ?まさか、あの子また何か……」

「いえ、違うの。昨日、急に泣き出しちゃって……」


 ジロの母が厳しい目付きになるのを見て、ユキは慌てたように手を振り、昨日の授業の様子を一通り話した。


「ああ!それね、何でもないのよ。魔聖さまについての噂を気にしてるの」


 ジロの母は、合点がいったような顔で頷いた。


「魔聖さまの噂?」

「誰かが酒場の行商人から聞いたとかって、根も葉もない噂よ。今度、魔聖さまが視察でいらっしゃるでしょ?」

「ええ、そのせいで養育院もお迎えの準備で更に忙しくなってるわ」


 ユキはチラリと部屋の奥にいる自身の母親を確認した。愚図る赤子を抱き、赤子の母親に何事か説明しながら立ってゆらゆらと寝かしつけている。

 

「本当に大変よねぇ。あ、違う違う、噂の話ね。魔聖さまは視察のついでに弟子を探してるんですって」

「弟子?」


 何となく雲行きを掴めた気がしながら、ユキは相づちで話を促した。


「そう。村の子達をひとりずつ試して、見込みのある子を弟子として都へ連れてっちゃうんですって」

「それで、ジロは魔聖さまの弟子になりたくて今から魔法を覚えたがった……って事でしょうか」

「うーん、それもあるけど……うちの隣に、チイルって男の子いるでしょう?チイルは魔法が得意みたいだから、どうもあの子が連れてかれると思い込んで、それで焦ってるみたい」

「チイルを……ジロが」


 目を開いたユキを見て、ジロの母はくすくすと笑った。

 

「意外でしょう?いつも言い合いばっかしてても、いなくなるかもしれないって思ったら寂しくなっちゃったのね……あ」

 

 急にジロの母が目配せした。視線の先を追うと、ユキの母親が寝入った様子の赤子を布団に下ろしている。


「あ、やば、また何か言われる前に洗濯に行かなくちゃ。お話聞かせてくれてありがとうございます。しばらくジロの様子をみておきますね」


 大丈夫よ、と微笑むジロの母に挨拶して、ユキは足早にその場から退散した。

  

 

 柘榴組の隣は炊事場になっている。そこに立て掛けてあった大小の木桶とムクロジの皮を数個手に取り、勝手口を開けるとユキは養育院の裏手へ抜けた。 

 柘榴組のちょうど裏側へまわると、軽く濯いだだけの汚れ物がむしろの上にこんもりと二山ふたやま積み上がっている。いちど深くため息をついたユキは、気分を切り換えるように両手をぱん、と叩き、手早くたすきをかけ袖をたくしあげた。 

 大きい方の木桶へムクロジの皮を入れ、魔法で水を注ぎバシャバシャとかき回す。もこもこと泡が立った水面へ、おむつの山から洗い物をポンポン投げ入れた。

 それからユキは、周囲に誰もいないのを確認し着物の裾をまくりあげると、素足を木桶につっこみ、ざぶざぶと踏み洗いを始めた。

 無心に踏み続け充分洗えた頃合いに、木桶から引き上げたユキは小さい桶にも水を張り、ざっと自分の足を流した。

 濡れた素足にすっと涼やかな風が当たるのを感じ、その心地よさにユキは目を細めた。

 (いい風ね。このまま午後まで吹き続けて洗濯物を早く乾かしてくれるといいんだけど)

 魔法で乾かすこともできるのだが、これだけの量を一気に乾かすとなると、かなりの魔力を消耗してしまう。何でもかんでも魔法で解決しないで、自然のエネルギーに任せることも大事なことなのだ。

 チラッと頭上に目を向け、雲ひとつ無い空の様子に満足げに頷いたユキはそのまま木桶の前でしゃがみこんだ。

 目立つ汚れのもみ洗いをしようと腕を突っ込んだその時、養育院の向かい側、酒場の裏扉が大きな音を立てて開いた。


 何事かと顔をあげると、そこには村長の娘――メイが立っていた。黄色の華やかなワンピースを着ている。服の明るさに反して、本人は眉間に皺を寄せ、ひどく機嫌を損ねているように見えた。

 その思い詰めたような表情に、ユキが声をかけようか迷っている内に(彼女の機嫌が良い時だって、少し会話するだけでも嫌味の2つや3つ食らわない日はないのだ)、メイは深くうつむいたまま、あまり周りが見えていない様子でずかずかとこちらへ向かって歩いてきた。

 危ない、とユキが声をかける前にメイは木桶の端に思い切り足を踏み込み、盛大にひっくり返して汚れた水と洗い物をあたりに撒き散らした。


「痛っ、ねえ!何よこれ!最悪!」


 全身ずぶ濡れのメイが、ワナワナと怒りにうち震えながらユキを睨み付けた。


「何って……自分で突っ込んできたんじゃない。文句言いたいのはこっちの方なんだけど」

 

 あたりは水浸し、木桶もおむつも泥の上に転がっている。この後の骨折り作業を思うとユキはげんなりした。

 この状況に、流石に分が悪いと思ったのか、なにも言い返せないままメイの顔が耳まで真っ赤に染め上がった。


「でも、私が気付いてすぐに声をかけてたらこうはならなかったかも……ごめん、その服はなんとか綺麗にして返すわ。院の服があるから着替えましょ」


 ユキがそう言いながらメイの手を取ると、メイは火が付いたように飛び上がって手を振り払い、再び怒りを顕にしてユキに食って掛かった。

 

「あ……あんたが、あんたなんかに……!」


 と、その時、軋むような音と共に、また酒場の裏扉が開いた。

 2人の娘は同時に振り返り、メイがひゅっと息を呑んだ。

 

「おい、何してんだ」


 腰を屈め戸をくぐるように出てきたのは、酒場の息子、タツキだった。

 

「タ、タツ……」

 

 口を閉じたり開いたりしながら、何を言うべきか迷った様子のメイを見て、ユキはタツキの視線から庇うように前に出た。


「見てわからない?わたしがウッカリ水ひっかけちゃったの。ずぶ濡れの女の子をジロジロみてんじゃないわよスケベ」

「はあ!?スケ……っ、俺はお前らが」

「スケベ野郎はほっといて、メイは早く着替えた方がいいわ。この勝手口を抜けて右側の部屋にあたしの母さんがいるから、事情を話して替えの服をもらってね。今ならまだ清拭のお湯が残ってるかもしれないわよ。じゃあね」


 早口で言いきらないうちに、ユキはメイの背をぐいぐいと押して養育院の方へ追い立てた。

 ユキは内心、また逆上するのではとヒヤヒヤしていたが、タツキという乱入者によって気が削がれたのか、意外にもメイは大人しく従い、勝手口の向こうへ消えていった。


「おい、これ、桶の方も一度洗った方がいいのか」


 ユキの背後からタツキが声をかけた。


「え?あ、そうね。手伝ってくれるの?」

「そりゃ……俺のせいでもあるからな」

 

 振り返り、驚いたように聞くユキに、タツキはばつが悪そうに答えた。


「はじめに俺がアイツを怒らせたっつーか、なんというか……つまり飛び出してったのは俺のせいなんだよ。すげー音がしたと思って慌てて出てきたらこの状況でさ。どうせアイツがどんくさく躓いたとかだろ?すまねぇな」


 タツキが支えた大きな木桶に、先程の足を洗った桶で水をかけ、泥を綺麗に落とす。

 再び魔法で水を張りながら、ユキは少し考えてからタツキに言った。

 

「別にいいわよ。本人にも言ったけど、わたしが声を掛けるのが遅かったせいもあるし。それよりも、何があってあの子を怒らせたか知らないし聞く気もないけど……どんくさいとか、その言い方は良くないんじゃないの。だから相手を怒らせるのよ」

「おお怖、先生のお説教食らっちまったな」 

「ちょっと、真面目にききなさいよ」


 手元にあった小さい桶をユキが振り上げると、タツキは飛び退いて肩を竦めた。

 

「おい、それを振り回すなよ。あぶねぇな」 

 

 散らばっていたおむつを拾い集め、ユキのそばにまとめて置いたタツキは、ユキがおむつをひとつずつ濯いでいくのを眺めながら呟いた。

  

「そういや、うちの親父からおまえの親父に伝言。明日には魔聖さまが到着されるってよ」

「明日!?」


 ユキは手に持ったおむつを取り落とした。

 落ちたおむつをユキに手渡しながら、タツキはぼやいた。

  

「あーあ、また汚れちまって。ほいよ。正確には明日の昼過ぎだったかな。全く、うちもてんやわんやだぜ」

「あーあじゃないわよ!それ、早く言いなさいよ!」


 魔聖さまが来るとひとことに言っても、もちろんお一人でいらっしゃるわけではない。魔聖さま本人は、普段から宿を兼ねている酒場に滞在される予定だが、人数の関係でお付きの魔道士達の食事や寝る場所、馬たちの世話は養育院ですべて面倒をみなければならないのだ。

 ただでさえ、村長が勝手に言い出した"歓迎式"の準備とやらで足りない人手をかっさらわれているのに、今から魔聖さま一行が泊まる準備を始めて間に合うかどうか……

 

 イラつきが抑えられないまま、おむつをびしゃりとタツキに投げつけると、父と母に一刻も早く知らせるため、ユキは鼻息荒く院の勝手口へと飛び込んでいった。


「おいユキ!まじかよ、これ、俺がやるのか……?」


 後に残されたタツキは、ひとり呆然と呟いた。

 

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