第2話
――――今からおよそ20年前の事です。
我がマルマ国の北西の海岸に、とてつもなく大きな船が流れ着きました。船の中から現れた人々は、不思議な言語を話し、そろって奇妙な服装をしていました。
その場に偶然居合わせた青年は、その人々がなんとも恐ろしく、すぐに背を向け逃げようとしましたが、青年を呼び止めた相手の穏やかな態度に心動かされ、その場にとどまりました。
そして身振り手振りで互いの言語を教えあった結果、その奇妙な人々が広大な海の向こうからやってきた、別の大陸の人間ということが分かったのです。
この海の向こうにも陸地があり、さまざまな人種が暮らしている……というのは今ではもう広く知られたことですが、当時のマルマ国にとってはとてつもなく重大な発見でした。
世界はこの大陸と小さな島々のみ、あとは海獣ひしめく恐ろしい海で終わっていると思われていた千年余りの歴史が、一気にひっくり返ったのです――――
そこまで読みあげたユキは、指導書を机に置き、養育院の院児たちを見渡した。
湿気の季節も過ぎ、どんどん陽射しの強くなる時期がやってきた。汗ばむ額を手巾でおさえ、水差しを手に取り喉を潤す。開け放たれた窓からは元気一杯な蝉の鳴き声と、外壁に掛けた網いっぱいに広がる朝顔の蔦の隙間を縫って、生ぬるい風が吹き込んでいた。
真剣な顔で話の続きを待つ子や、視線を窓の外に向けてそわそわと落ち着きのない子に混じって、頭を前に傾げたままピクリとも身動きをしない女の子がいた。どうやら居眠りをしているようだ。
ユキの視線を辿って居眠りに気付いた他の院児たちは、押し殺すようにくすくすと笑った。
隣の席の子が起こそうと手を伸ばしたのを目配せで制すと、ユキは彼女の席に近付きできるだけ静かに声をかけた。
「サナ、サナ」
「ふぁい!?」
呼ばれたサナはびくりと体を揺らすと、瞼を半分閉じたままあたりを見回した。
周囲から、弾けるような笑い声が起こった。
「あれ、あ……ご、ごめんなさい。ユキ先生」
遅れて状況を把握したサナは顔を真っ赤にして、小さな声で謝罪の言葉を述べた。
「気にしないで。今は82ページね、そう、そこ。…………じゃあサナ、20年前に初めて海の向こうの人々がこの国へ足を踏み入れたのだけど、その人たちはどこの国から来たか知ってる?」
「えっと、ラ、ロ、ロ…………ローダ帝国」
迷いながら答えたサナの頭をそっと撫で、ユキはにこりと微笑んで見せた。
「そう、ローダ帝国。ちゃんと予習できているのね」
教室内で小さな拍手が起こる。耳を赤く染めたサナは、照れくさそうに頷いた。
「その後、マルマ国にとって初となる他国との交流、すなわち外交がはじまりました。そのとき友好の証として、我が国からローダ王へある生き物が贈られましたが、その生き物とは……」
どの子に質問を投げようか迷う視線を、生真面目な眼差しがとらえた。
「自信満々って顔ね、ルイ。ローダ王へどんな生き物が贈られましたか?」
「ネコです」
淡々と答えたルイは、何かを期待するようにユキを見上げた。正解、とその賢い頭を撫でられると、再度起きた拍手の中で満足そうに口角を少し上げてみせた。なかなか可愛いやつだ。
「長い歴史上、1度も他の大陸と交わることのなかったマルマ国は、諸外国にとって、独自の文化や未発見の動植物の宝庫だったようです。その辺にゴロゴロ転がってるネコですら、他国の人にとってはかなり珍しい生き物だったみたいですね」
話を続けながら教卓へ戻り、指導書をめくる。
「無類の動物好きであるローダ王はネコをそれはもう大変気に入ったようで手放しに可愛がり、お礼にこの国の手厚い保護を約束してくれました。そのうえ、誠意に溢れた
ここで一旦話を区切ると、ユキは窓辺に移動した。
昼下がりのこの時間、当然のように萎れている朝顔を一輪手折ると教卓へ戻り皆の前で掲げた。
「みんなも知っていますね、魔法の事です」
皆が息を詰めて見守る中、意識を手の中の朝顔に向ける。
すると、萎んでいた朝顔がみるみるうちにハリを取り戻し、息をふきかえしたように元気に花弁を開いた。
ちび達がおお……と揃って感嘆の声をもらすのを心地よくもくすぐったく思いながら、意識をさらに集中させると花弁が開いたり閉じたりしながら宙でくるくると回りだした。
そのままひらひらと教室中を跳ね回らせると、キャッキャと楽しそうな声があちこちから上がった。
「これまでのマルマ国にも、一応、魔法に準ずる概念は存在しました。しかし、諸外国のようにきちんと研究をされることはなく、得体の知れない異質な現象として”凶術”と蔑まれ忌避されていたのです。ローダ帝国から正しい魔法の知識が伝えられ、その便利さを民が理解するにつれ、そういった差別や誤解は次第に訂正されてゆきました」
教室を飛び回る朝顔が薄紅に染まった。
「差別というと……マルマ国ではごく稀に、変わった色素を持つ子が産まれます。両親や親族には全くその要素がないにも関わらず、赤い髪や緑の目を持つ子どもが産まれることがあるのです。"色持ち"と呼ばれるこの現象は、特別な能力を持った人間に現れる特徴ですが、大発見以前のマルマ国では異質なものとして、常に迫害の対象でした。……酷いことです」
ユキの表情に、一瞬暗い影がよぎる。
薄紅色の朝顔は最後にくるりと一回りしてみせ、ユキの手のひらに舞い戻った。
「さて、そんな偏見も消え去った現代では、"色持ち"には優秀な人物が多い事が広く知られています。我が国の第四王女様も万物を見通す金の瞳の”色持ち”として有名ですね。あとは……もう一人、有名な"色持ち"がいます。誰か言える人は?」
この質問は簡単すぎると言わんばかりに、教室中の手が挙がった。
一際元気よく、天井を突きかねない勢いで挙手している少年を目に止めると、ユキはニッコリ笑って指名した。
「ジロ、どうぞ」
「魔聖さま!」
「はい正解。まあ、皆知っているわね。もうすぐこの村にも視察にいらっしゃるし」
魔聖さまとは、おととし邪悪な龍から国を救ったとされる国の英雄だ。都の公家の出身である彼は、幼い頃から魔法の才能を遺憾なく発揮し、最年少魔道士として出世街道をかけ登る。龍退治によって国中の敬慕と支持を集めたが、当時は魔道士より上の役職が無かったのでそれ以上出世のしようがなかった。しかしあまりの人気ぶりだったので、国王は"魔聖"という新たな地位を作り、彼を抜擢したのだ。
弱冠20歳ながら魔道士の頂点に君臨したその活躍ぶりは国内外に知れ渡っており、もちろんこの村でも知らない人はないほど有名である。
「魔聖さまは赤い御髪と赤い瞳を持つと言われています。魔法の力が桁外れに強い人間に多いとされる特徴で、この色を持つ人間は多くが魔道士として活躍し―――」
突如、先程のジロが、我慢できないという風に叫んだ。
「先生、僕も早く魔法が使いたいよ」
「ジロ、」
ルイが隣の席からたしなめるような声を出す。
「だって、だって、チイルはここんとこ毎日葉っぱやら木の実やらを浮かして見せびらかしてくるんだよ、アイツにできるんだったら僕だって……」
「そ、そうなのね……」
チイルはジロの家のお隣に住む少年だ。歳の近いこの2人は会うたびになぜか対抗心を燃やして、度々小さないさかいを起こしている。ジロのあまりにも切実な言い様に、ユキは笑みがこぼれそうになるのを抑えた。ここで笑ってしまったらきっとジロは拗ねてしまう。
「チイルっていったら、いま九歳だった?瑠璃組ね。ジロがいるこの教室は何組?」
「……真珠」
マルマ国では、初代の王様の施策により、ある程度の規模の村や街には必ず1つずつ、養育院という施設が設置されている。
産まれたばかりの赤ん坊から10の歳になるまで子を預けることが許されていて、本人や親の意思次第では最長15の歳になるまで在席することが可能だ。
この大陸を統一した初代王が立った当時は長い戦乱の世を終えたばかり。行き場のない孤児や家を無くした者たちに共同の田畑と住居を与え、監督者を付けて自立と土地の再興を促す目的で設立されたらしいが、孤児もほとんどいない今となっては託児や教育施設としての側面の方が強く残っている。
乳児は柘榴組、二歳から珊瑚組、四歳から翡翠組……と年齢毎に階級が分けられ、朝早くに預けられた子供たちは組ごとに下の子達の世話や畑仕事、勉強を交代で行う。
10歳までの基礎過程を終えた子ども達は、家業を継ぐか、院の紹介先への就職か、専門課程への進学を選択する。
進学を選択した者は学びたい分野の専門授業を受けることができ(といっても田舎の養育院には限界があるので大抵は希望の専門分野に突出した養育院へ移籍することになるが)、さらにその課程を終えたものは専門職に就くか、養育院に残り教員や生活監督者として働くことが許される。
養育院長の娘であるユキは、万年教員不足な養育院を見かね、三年前に教員になったところだった。
「魔法を教わるのはどの階級からか覚えてる?ジロ」
「瑠璃組……だけど」
「ジロはいま七歳になったばかりだから、来年には習えるわよ。待ちきれない?」
口をへの字に曲げたジロは、こくんと頷いた。
これは説得に時間がかかりそうだ、と考えたユキが周りを見回すと、教室中が興味津々という風にこちらをうかがっていた。みんな、授業の中断は大歓迎なのだ。見かねたルイが咳払いをした。
「ジロ、授業中だぞ。先生が困ってるじゃないか」
「でも、でも……」
顔を歪ませ、とうとう涙を流してしまったジロを見て、ユキもルイもびっくりして目を見開いた。
「ど、どうしたのジロ」
ルイが手を伸ばしてジロの背中をぽんぽんと叩く。
騒然とした教室の真ん中で黙りこくったまま、ポロポロと涙を落とすジロの様子を見ながら、ユキは慎重に言葉を選んだ。
「では、少し先取りして、魔法の仕組みの話をしましょう。話をするだけよ、ジロ。ごめんね。……まず、私たちには、魔腑と呼ばれている器官が存在します。食べ物や空気から体に取り込まれた微弱な魔力を蓄える器官です。産まれた瞬間から少しずつ魔力を蓄えて成長を続け、だいたい八歳の誕生日を迎える頃にやっと、いっぱしの魔力器官として成熟します」
ジロの充血した目が、こちらを見上げた。
「魔腑が成熟していない子どもが魔法を使うとね、うーんと、あまりよくないの。具体的にどうなるっていうのは定まっていないんだけど……都の有名な例だと、鼻血が止まらなくなったり、呼吸がうまくできなくなったり、精神がおかしくなってしまったり……死んでしまった子も何人かいるわ」
教室のあちこちで、息を呑む気配がした。
ジロの眉が下がっているのを見て、ユキは彼が既に諦めているのを感じた。
「あなたが焦っている理由は分からないけど……魔法を使う年齢を制限している事に、きちんと理由があることは理解してくれると嬉しいわ」
ジロが難しい顔をしたまま、かすかに頷くのと同時に、授業の終わりを知らせる鐘が鳴り響いた――――
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