湖底のグラス・レディ、3

 溜め息でも吐きたい新学期だ。最後の学年、もう少し静かに過ごす予定だったのに。いや、人魚を真夜中の湖から引き上げた時点でそんな構想は狂っていたのだろう。


「井藤さんと八十科やそしなくんはお知り合いなの?」

 好奇心旺盛な女生徒の期待と人魚から送られる挑戦的な視線で幕を開ける朝。

「うん。夫婦だからね」

「婚約者です」

 丁寧に訂正しつつ、クラスメイトに答えて二人は別のことを言った。

 この説明が訂正前の方で広まってしまったらしく、いつの間にか影斐とルルの夫婦関係が学校中に行き渡っていたのだ。

 周囲に関心が薄い影斐がそれを知ったのはルルと共に生徒会室に呼び出されてからだった。

「……いいわ。事実確認は済んだし、あなたたちが双方の同意あって結婚の約束をしたことも分かった。だけどそれを誇張して言いふらすのは少し短慮だったんじゃないかと思うのよ」

 来客用の一人掛けソファにそれぞれ座らされ、膝に手を置いて部屋の主の説教を大人しく傾聴する。生徒会役員の腕章を着け、生徒会長の重厚的な机に寄りかかった栗色の髪を下ろした少女。小葉こばほたるはゆるく腕を組んで、ホットミルクのような落ち着いた声で二人に言い聞かせて続けた。

「まだ学生だし、しかも結婚が許された年齢でもないのよ。あなたたちまだ十七でしょう。うちの生徒がそういう浮ついたことじゃいけないわ。影斐、あなたは副会長としてそのようなことはちゃんと弁えていると思っていたのだけれど」

 影斐は視線を投げられ、責を問われても顔色ひとつ変えずに言った。

「噂になるのは予想してたことだ。直接の影響も今のところないし」

「こっちには皺寄せが来てるわよ、もう」

 生徒への注意が、右腕の飄々とした態度で思わず嘆くような口調に変わる。落とした肩を伸ばして切り替えながら、今度は彼女の瞳が影斐の隣に移る。

「噂はこれだけじゃないわ、井藤ルルさん。あなたが『湖のレディ』なんじゃないか、という噂も流れているわ。ご存じかしら」

「うん」ルルは叱られている自覚があるのかないのか名を呼ばれてふてぶてしい返事。「ま、事実そんなようなものだしね。僕は湖の底から来たんだ。こんな姿をしていても神秘性は溢れ出すのだからそりゃ注目も浴びてしまうよ」

 取り繕うことすらしない編入生の言葉に、整った前髪の下で微かに眉が動いたのを影斐は見る。それから会長は結んでいた口を開いて、またゆっくり話し始めた。

「正直なところ、うちの生徒……特に女の子はなんだか夢見がちな子が多いわ。メルヘンが好きで憧れるの自体は年頃だし一過性のものだと思うから構わないけど、それに人を巻き込むなら話は別よ。お蔭でちょっと校内が必要以上に浮き足立っているの。貴女に尾鰭はないし。今後は慎んでくれる?」

「わ、わかった」

 ルルは妙に素直に生徒会長の言うことに頷いた。

 それを見ると生徒会長も穏やかに頷いて、己の腰を抱くように組んでいた腕をようやく解くと影斐たちの正面にある一人掛けソファに自分も座った。

「まあ一旦いいわ。生徒会長としていうことはこれで終わり。影斐、フィアンセを紹介してくれる?」

 影斐は頼みに従って、指先でルルを示した。

「ほたる。こちらは私の婚約者の井藤ルル。井藤さん、こちらは我が校の生徒会長の小葉ほたる。私のいとこで……上司のような感じです」

「よろしくね」

 柔らかく微笑んで会釈するほたるに、ルルも「ンッ」と不可思議な声で気さくに答えた。口調や姿勢は大きくは変わらないけれど場所を変えたことでいくらか柔和な印象になる。小葉ほたるはこういった自分の使い分けに長けていた。切り替え、と言ったらいいか。

「厳しいことばかり言ってごめんなさい。これが仕事だから。それで、なんて呼んだらいいかしら」

「ルルでいいよ」

 少し萎縮していた人魚もほたるの本来の人懐っこい笑顔にほぐされて、出されていたティーカップに手を伸ばす。

「わたしのことも下の名前で呼んでくれていいわ。わたしはこの近所に住んでいるの。ルルは他のところから来たのでしょう、今はどこからここに通っているの?」

「ああ、最近はこいつの家に住んでるんだ」

 隣を指してルルが言うのとほぼ同時に咽せる音が被さった。

「げほげほ、……影斐?」

 影斐はただ黙って首肯する。

「それと僕もこの九沈で生まれた。ここから出たことはないし、今後もそうなんだろう」

「でも編入生でしょ。他の高校はここから通うには遠いわよ」

「だから湖の底だってば」

「…………」

 補足を求める、あるいは訂正を期待してほたるが影斐に目配せする。けれど生徒会長のいとこがいくらその意図を汲めども、答えは変えられない。

「ほたる。彼女の話は本当だ」

 訪れたのは重い静寂。

 がん、と目の前の低いテーブルが揺れる。

「いるわけないのよ、湖のレディなんて! ふたりして寝ぼけたこと言わないで」

「ど、どうした」

 発作的に立ち上がった彼女にちょっと面食らう。ほたるは大袈裟に頭を掻いて、せっかくいつも丁寧に整えている髪が指にかき回された。

「みんなしてレディ、レディって、そういうの興味ないの、ついてけないの! 忙しいのこっちは!」

「ひょえ……」

 ほたるに詰められるとルルは気押されて何も言わなくなる。

 彼女が思わず袖を捲ってさするので鳥肌立った肌が見えた。……そういえばこいつ、この手の乙女趣味みたいな空想だったり非現実的な存在の話を嫌がっていたな、と思い当たる。ちなみに怖い話の類も一切受け付けない。影斐は憚らずに溜め息を吐いた。

 なんだろう。心配して損した。

「落ち着けよ」ほたるの肩を慌てて押さえるも振り払われた。

「しかも影斐まで、なんなのもうっ」

 無意識に普段の本音まで口にしたが、早々に言うことがなくなったほたるはぜえぜえと息を切らす。そしてその場で突然座り込んで。

 静まり返った生徒会室で、指の隙間から漏れ出たのは悲鳴のような謝罪。

「……本、当にごめんなさい。初対面の方に見せるものじゃなかったわ」

 本当にな、と思いながらルルを見ると目を丸くして固まっていて。無理もない。

「悪いんだけど頭冷やすから、今日は帰って。ごめんなさい」

 顔を覆った生徒会長から深めに謝罪され、勢いのままふたりは廊下に放り出された。

「すごい剣幕だったあ……」

 ルルと影斐はさながら叱られ終わった子供のように扉の前で背伸びをして、早々に話し始める。

「いつものふてぶてしさをどこへやったんです」

「いや、彼女、美少女すぎて怒られるとちょっと緊張するって」

「何言ってるんですか」

 ここ最近はクラスメイトたちとも打ち解けてきていたルルも、生徒会長の緊張感には抗えなかったようだ。人魚らしくない俗っぽい台詞が口から飛び出してくる。

 静まり返った廊下に響いてきた鐘の音は用事のない生徒に帰宅を促すもの。

「帰りましょう」

「帰るよ」

 つんと顎を上げて先に歩き出したルルの背中をこっそり窺って、ゆっくり追いかけた。


 それから翌日、生徒会の用でほたるが影斐を尋ねればルルが後ろから話しかけてきたり。

「小葉さん、あのさ」

「ルル! この間はごめんなさい。用事あるから今度ゆっくり話しましょうね」

 するとほたるは洗練された笑顔で手を振って消えていく。

 次に昼休憩、食堂をうろうろしたと思えば学舎に戻り、ほたるのクラスを覗いてみたり。結局ほたるはいなかった。

 いつもは先に帰るのに放課後の役員会議をわざわざ待って、再度アタックしてみたり。ほたるはルルの声を聞く間も与えず、「大丈夫、噂なんてそのうちおさまるわ。困ったことがあれば影斐に相談しなさい」そう伝えて去っていった。……書くまでもなかったな。惨敗である。

「今日は落ち着きませんね」

 帰りの道でずっと何をしていたんです、と黙りこくっている婚約者にようやく訊ねてみれば彼女はぽつりと口を開いて。

「……とりつく島もない……」

「は」

「おい、お前のいとこがひとの話を聞こうとしないぞ! どういう教育したんだ」

 一日中拒絶され続けたので嘆きとしては理解できる。しかし影斐は、はじめから放っておけばよいのにと思わずにはいられない。

「彼女、僕の言うこと全然信じないじゃないか。頑固なのか?」

「頑固ですよ、筋金入りの」

 かつて、数十年前までこの九沈くじん湖の土地は八十科家の言わば領地であった。今では親族である小葉家が執り仕切っていて、元領主家の末端である影斐や両親を何かと気遣っていてくれたのも小葉の当主だ。小葉当主は決定したことを最後まで遂行したがるたちで、今でも関係は続いている。仮に影斐が義理深くなくとも、家族ぐるみで受けた恩は深い。影斐はその娘であるほたるとも長い付き合いなのである。

 それにしても、知りつつも関係ないと思っていたいとこの弱点がこんなところでネックになるとは。当たり障りのない避け方をして、明らかに心を閉ざしている。

「普段はああじゃないんですが。おとぎ話が嫌いで、少し、拒否反応が出ているだけです」

「僕に!? なんで」

 まさか存在ごと嫌がられるとは思ってこなかったのだろう。憐れではあるが初めて彼女のショックを受けた顔を見る。

「あいつも別に貴女を嫌っているわけではありません。……なんというか、貴女が概念に当てはまってしまっただけで」

 ふうんと間延びした声。なんです、と訊けばルルはちょっと感心したように言う。

「えい君でも人を擁護したりするんだね」

 無自覚な皮肉を言われて微妙な気分になる。

「あれは現領主の娘で生徒会長ですし、本旨を達成したければ敵にはしない方がよろしいですよ」

「ん?」

 現在役所では九沈湖に沈むという千作品を超える『クララ・モン・シェール』作品群を撤去する計画が書類上で進んでいる。湖にいながら市民にも伝えられていない情報をどこから得たのか、なぜはるばる人間の姿になってまでそれを止めにきたのか。出会った夜以来お互いに言及をしないから、結局影斐は未だ何も知らないままであった。

「まさか忘れ……」

「お前ね、僕のこと阿呆だと思ってないか? べつにお前たちみたいな少年や少女を巻き込む気はないよ」

 人魚の声が不機嫌に低く這う。

「何にせよお前と縁の深い人間なら、僕もあの子と仲良くしておいた方がいいもんな」

「そういうことじゃなくて」

「……えい君ってさ、」

 ふとルルの方を見ると、彼女の瞳に嵌まった孔雀色の小さな小さな湖がじっと自分を覗き込んでいる。それから肩口をぽんぽんと叩いて。

「はは、気にしなくていい。僕はその件に関してお前やお友達に何をして欲しいとは言わないさ。約束も守る。鱗に誓って」

 ふっと笑う顔は柔さがあって、大人びた少女のなまいきな笑みだった。自信満々の言辞の割にはなんというか少し頼りない。

「なるほどその誓い、破った場合は剥いでもいいと」

「こ、言葉の綾ってあるだろ……」

 人魚は即座に廊下の端まで離れていって、自分の腕を庇うように抱きしめる。鱗取りとは冗談にならないくらい怖い行為らしい。なにもそんなに怯えなくとも、そんなむごいことはこちらもやりたくなんてないわけだが。

「ともかく小葉ほたるに湖のレディを信じさせればおのずと仲良くもなれるさ。この僕に任せなさい」

「そういうことじゃ……ああ好きにしてくれ」

 湧水のような自負心で話が進む。

 正直このふたりが攻防するのに巻き込まれたくはなかった。ルルの言う通り当人たちに任せて遠くから静観するのが吉である。触らぬ神に祟りなし……と言うと自分が引き起こした事態であるような気もするけれど。

 まさか自分が他人の仲を気にするようになるとは。

 人魚は不意に言った。

「えい君、雨が降るよ」

「え?」

 空を見ればポツポツと冷たい雫が肌にぶつかって、重そうな灰色の雲が山の向こう側から風に流れてきていた。空にさえからかわれているような気持ちになりつつ鞄の中をまさぐっていると、頭上でばさっと何か開く音がして。

 振り向くといつの間にか後ろから現れたルルの執事がふたり分の傘を差し掛けていた。なんというタイミングか。目が合うと無口な老執事はニコッと微笑んだ。

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