湖底のグラス・レディ、2

 湖に住む人魚と婚約という名の安請け合いを交わしたのが昨晩のこと。

 身体中びしょ濡れのまま帰路についたせいで体調を崩さないかという心配は不要だったようで、案外しぶとい己に嘆息する。ベッドから身を起こし、服だけ着替えて誰もいない妙に広い屋敷を歩いて、昨夜案内した部屋をノックしても返事がないから人魚はすでに居間の方にいるのだろうか。

 そしてこれがその翌朝。

「おはよう」

 和様式の古い屋敷だったものは親以前の代ですでに色々と改築が加えられていて、至る所に西洋様式が組み込まれている。彼女は庭に増築された洋式のテラスに座っていた。東屋風のひさしの下を昇ったばかりの日光が潜り抜けて視界を白く染める。

 すでに我が家の棚で埃をかぶっていた器やカトラリーが完全に磨かれた状態で美しくセッティングされ、二人分の朝食まで用意されていた。昨日と引き続き人間の姿をした少女はすっかり身支度も済ませており、こちらに気付くとナイフを置いて微笑む。その席に料理を運ぶ白髪の老紳士を従えて。

「ちょ、あの、色々とすっ飛ばしてませんか」

「昨晩早まって入水しようとしたやつがよくいうよ。お前はもう少し自分を大事にした方がいい」

 それこそこのヒトに言われる筋合いはないのだが、一晩ほっておいたうちに人魚はすっかり家の中に馴染んでしまったようだ。足を組んでティーカップに口付ける優雅な姿はここ九沈湖湖畔の住宅街の女性たちに引けを取らない、完璧なお嬢様である。

 その正体にさえ気付かなければ。

「なんだよ、不満か? 尾鰭のまま暮らしたっていいんだぞ」

「……いいえ」

「よろしい。食べたまえ」

 促された近くの席を見るといつの間にか老紳士が椅子の背を引いていて、影斐が座るのを待ち構えている。

「この方は? ご家族ですか」

「僕ほどの者なら従者くらいいるものさ。使用人として使ってやってくれ、壊れない程度にね」

 いや、誰?

 椅子から見上げると静かに笑いかけてくる執事。外見は完全に人間の姿だけれど、彼女の供というのならそれは湖の底から来たものということになる。人数が増えるなんて聞いていないが下手につっついてもおそらく良い事はない。

 いつもなら雑に手掴みで胃に詰め込んでいるベーグルが洒落たモーニングサンドになっていて、それを一人で暮らすようになってからまともに使っていなかったナイフで切り分けながら食べる。豪勢だな、と感心していれば正面から不服そうな視線を受けていたことに気付く。

 どうしました、と訊ねると人魚はぴんと伸びていた姿勢をふにゃっと崩し、行儀悪くテーブルに肘をつき大袈裟に溜め息を吐いた。

「お前と話していると空っぽの壺に話しかけている気分になるよ。昨日だって僕を部屋に押し込んだらさっさと眠ってしまって。人間ってのはこんなに薄情なの?」

 言っていることについては返す言葉もないのだが、空の壺にせよ葦の原に掘った穴にせよ、空白に向けているにしてはよくしゃべる方じゃないか。せめてもの反論が頭の中を巡って、わざわざ口に出すほどでもないと消えていく。

「私を選んでしまったのはそちらでしょう。人魚の存在を信じる者は他にもいますし、可愛がられたければ他の家に行くことをお勧めします」

「人魚って言うな。全くそろそろ名で呼んでくれても良いんじゃないか。『クララ・モン・シェール』の方が僕に相応しい」

 うっかりナイフの狙いが逸れて皿とぶつかる音が小さく響く。

「……短い方でいいでしょう」

「じゃあ呼んでくれよ、ルル、愛しのルルって」

 人差し指を立てて、悪戯いたずらっぽい笑み。この揶揄からかいに応える義理があるか否か。

 いや、ない。

「貴女のお名前はご両親が名付けられたのですか」

「ん? うん、そう、かな? お母様が……」クララ・モン・シェールを名乗る少女はフォークを口に持っていきつつ曖昧に肯く。今は執事が用意したモーニングサンドに夢中なのだ。「人間と違って僕は由来が難しいんだ。どうせ人間は湖の底に入っていけやしないんだし、お前が気にする事はないぞ」

「そうですか……」

「あ、食べ終わるのが早いよ。もう行くの? ちょっと待って」

 挨拶もなく空の皿を持って立ち上がろうとする影斐を見て何故か慌てるルル。それは今朝会った時から予感していたものの答えと言ってもいい。影斐は少女に対してようやくひとつ訊ねた。

「で、何故うちの学校の制服を着ているんです?」

「それはもちろん、僕も通うからさ」

「は?」

 もはや手づかみで朝食を頬張った人魚は影斐より一回り元気に立ち上がると、執事が持ってきた鞄を受け取り勇ましく肩に担いだ。藍色のセーラー服と学校指定のループタイに黒いローファー。胸元には本物の胸章が光る。

 紛うことなく私立ティリア高等学校の学生姿。

「さ、季節は春。青少年の待ち侘びた出会いの新学期だ。学校まで案内したまえ」

 

 威勢よく登校したのは良いが、昨日の今日ですでにこの饒舌な人魚を扱いあぐねている。

 身元不詳の執事といい何故か進級した当時より一枠分ねじ込まれている三年生の人数といい、どうにか人間社会に割り込もうという意思を感じる。浮世離れしてはいるが妙に人間の事情をわかっているところがあったし、無理に自分がフォローすることもないのかもしれないけれど。全校朝礼の後に戻ってきた教室ですでに級友と談笑している姿を傍目に見て、影斐はもうなんでもいいかと杞憂を打ち捨てた。

 浮世離れといえば本学校の生徒たちもそう言うところがあるし、案外溶け込めるのかもなと胸の内で勝手に頷いて。

「えい君。遅かったじゃないか」

「……役員は朝礼後の片付けがありますので」

「役員?」

八十科やそしなくんは生徒会の副会長なの」

 世話好きなのか自分の知っていることを話したいだけなのか、珍しい編入生に解説を入れてくれる級友。その後ろでも何人かの女生徒がこちらをそっとうかがっていて、影斐が気を揉まなくともとっくに教室でそれなりの地位を獲得しているようだ。

「ほほう、それでステージの脇に突っ立ってたのか」

 少女は合点がいったような顔で顎に指を添える。早くも学校生活を楽しんでいるようだし、わざわざこちらから構わなくともいいか。一限目の準備かあるからと席に戻る耳に、まだ女子たちの好奇心に満ちたお喋りが届いてくる。

「井藤さんはどこからいらっしゃったの」

「僕?」

 出席簿に井藤ルルという見慣れない名がねじ込まれていたのはやっぱり人魚の仕業であったらしい。よくこの学校に偽名を使って紛れ込めたものだ。ルルは級友の質問にさらりと答えた。

「湖の底だよ」

「え?」

「うわっ、どうした八十科くん、滑ったか?」

 手元から滑り落ちた教材を見下ろす。不覚。

「なんでも……」

「湖って、どこの?」

「もちろんここ、九沈湖だよ。お前たち人間には手出しのできない聖域だ」

 確かに正体を隠すかどうかは一切相談していないけれど、それにしてはあまりに迷いがない。

「湖の底に住んでいるなんて、湖のレディみたいね」

「ん?」

 ルルははて、と目を丸くした。馴染みのない言葉を自分の中で咀嚼したのか彼女は指を添えて顎をつんと上げて高らかに仰って。

「この九沈湖で最も尊い存在は僕だから、そういうことになるのかな! 尾鰭も鱗も、人の持たない宝石だ。それに僕は『クラ』——」

 彼女の話す声が途切れたのは教材を持ったままの影斐の手に遮られ、顔面に教科書の表紙を受けたからであった。ぎりぎりで滑り込んできた影斐は教科書越しにルルへ顔を寄せる。

「井藤ルルでしょう、貴女は」

 きゃああと何故か浮き足立った黄色い悲鳴が上がったので今言ったことがかき消されていないといいけれど。

「失礼、レディ。前髪に虫が」

「だとしたら僕の顔の上で潰そうとするな」

 奪われた教科書が今度は自分の顔に押し付けられる。

 二人の様子にクラスメイトがお淑やかにくすくす笑い声をこぼし、一言で場を締めてくれた。

「お茶目なのね、井藤さんって」

 少年少女のコミュニティ内での人間デビューとしては少し失敗のような気もするが、自慢げな編入生はその不可思議な言動を揶揄われたりすることもなく。ふんわりとした相槌におさめて笑ってくれた同級生たちは彼女のことをどう思ったことだろう。

 仰々しい鐘が鳴る。

「全く、まるで僕を痛い子みたいに扱ってくれたね」

「恥なら今回はご一緒したでしょう。痛み分けです」

 昼休憩、食堂の帰りに見つけた小さな水路。ルルはなんの予告もなく柵を飛び越えて、制服のまま透明な水の中に溶け込んでしまっていた。

「そういや湖のレディとか言ってたけど、なんだいあれは」

 ざばっと上がってくると水面の下で揺らいでいた頭の輪郭が鮮明になる。こうやって頭だけ出していると少女の姿でも人魚らしい。

「九沈湖に昔から伝わる伝説ですよ。異国由来の水神の姫君がこの地に九沈湖を作り、それ以来自らも湖底に眠っていらっしゃった」

 腰から上を人の身体、下半身に魚の尾を持つマーメイド。外国の神話に出てくる精霊のような姿はまさに、昨晩に出会ったあのガラスランプのような尾鰭の生き物。目の前にいる、人間のふりをして頬杖をつく少女。

「ふうん、ならようやくの目覚めなんだね。」

 けれど他人事のように彼女は呟いて、空を横切る水鳥をただ目で追っている。

「それが貴女ではないのですか?」

「よく分からないな、気付けば泡の間を漂っていたから。聞いた感じだとその特徴や品格には僕とシンパシーを感じるけれど……」

 冷たい金属の柵に身体を預ける。春先の昼下がり、建物の影に被さった人通りのほとんどない校舎裏は水を蹴る小さな音しか聞こえなくなる。

「風邪引きませんか」

「そんなやわに見える?」

 ふっと笑みをこぼし、彼女は言う。人間とは身体のつくりが違うのだから気にせずともいいのか。家に帰れば彼女の執事もいるし。

「それとも最初から、僕はその姫君を名乗った方が良かったかな」

 水路に隠すような小さな呟きが、ひとつ前の微笑を古びた金メッキのようにしてしまった。

「……お好きにどうぞ」

「徹底して無関心だなあ。婚約者のこと、もっと知りたいとか思わないの?」

 ルルの人差し指が影斐の方へと伸びて、おどけたようにくるくる動く。

「……レディ。貴女には分からないかもしれないが」

「よろしい、いうがいいよ」

 高貴な人魚、もといクララ・モン・シェール改めルルは寛容にも婚約者の話を促す。

「私は清純潔白を信条にこの半生を過ごしてきました。それを珍生物収集の趣味があるだとか魚の鰭が性癖だとか、ありもしない噂が立つと私の半生が水の泡になる」

「お前……よくそんな認識で婚約を引き受けたものだよね」

 ルルに対して常に慇懃であるのに度々飛び出す忌憚ない言葉選び。ルルはいよいよ呆れた様子で目を細めた。

「ですから貴女には周囲の信用を保って頂きたい。犯罪や非行に手を染めない、大きな音を立てない、影口を叩かない。右に倣えとは言いませんがクラスの令嬢を参考になさってください。よろしいですか?」

「湖で生まれた僕にもわかるぞ。とても基礎的なことだ」

「満十七年間続けてから言ってくださいね」

 楽勝とでも言いたげな口角に柵の向こうから市販の菓子でも詰め込みたくなる。

「ヘンテコなこだわりだなあ。好きに生きればいいものを」

 これがある程度好きに生きるための処世術なのだ。単調な人間は興味を持たれにくい。

「もし守ってくれたら他には何も言いません。私と貴女の関係は、恋や愛で縛るものではないですから」

 学校生活をエンジョイするのでも、目的を果たすでも、好きに暮らすといい。

 そう言うとふと沈黙が通り過ぎて。

「放任主義ってわけか。……結構脳天気なんだね。僕は実は怪物で、ほっといたら湖畔の人間みんな食べちゃうかもしれないのに」

「それは、」

 キン、と影斐のループタイが柵とぶつかった。胸ぐらを軽く引っ張られて柵越しに人魚の円い碧が強引にこちらを覗いてくる。


「お前はそれでもいいって言ったんだ」

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