湖底のグラス・レディ、2

 湖に棲む人魚と、婚約という安請け合いを交わしたのが昨晩のこと。


 身体中びしょ濡れのまま帰路についたので新学期早々体調を崩さないか心配だったのだが、案外しぶとい自分に嘆息する。ベッドから身を起こして身支度を整え、誰もいない廊下を歩いていく。ここまでは、飽きるでもなく散々繰り返すいつもの作業だった。


 そしてこれが、その翌朝。


 和様式の古屋敷は親より前の代ですでに色々と改築が加えられていて、至る所に西洋様式が組み込まれている。

 人魚は庭にある白いテラスのテーブル席に悠々と座っていた。

 東屋ふうのひさしの下を、昇ったばかりの日光が潜り抜けて視界を白く染めており、その中に人魚は溶けるように座っていた。その後ろには執事の様相をした人物が佇んでいる。彼女はこちらに気付くとナイフを置いて微笑んだ。

「おはよう。僕の夫よ」

「……夢ってわけには……」

「なんだ?」

 いかないか。

「いえ。その服、」

「これ? 僕のために用意してくれたんだろ。着てみればピッタリだった。さすがだね」

 一晩ほっておいたうちに人魚はすっかり家に馴染んでしまったようだ。彼女が身につけているのはブラウスにチャコールグレイのブレザーと、クリーム色の紐のループタイ。初対面から一晩しか経っていないというのに、どうして彼女に合わせて服なんて用意できようか。

「勝手に押し入れ開けましたね」

 身支度の整ったスカートの下には二本の足をぶらぶら揺らし、自慢げにティーカップに口付ける姿はどうみても朝を満喫するご機嫌なお嬢様である。

 その正体にさえ気付かなければ。

「どうした朝から、不満そうだな。尾びれのまま暮らしたって別にいいんだぞ」

「いいえ……」

「よろしい。食べたまえ」

 少女の後ろに控えていた老執事が椅子を引くので、誘われるままに座る。

「あの……この方は? ご家族ですか」

「ああ、使用人として使ってやってくれ。壊れないようにね」

 おろし立ての燕尾服を着こなした、少し猫背の老紳士。椅子から見上げると、寡黙らしい彼は何も言わず静かに笑いかけてくる。

「はあ」

 見た限りはただの人間だけれど、彼女の供というならば湖の底から来た何かということになる。身元のはっきりしない人を家に置くのはあまりに抵抗があるけれど、下手につついてもいいことはない。影斐えいは一旦飲み込むことにして、朝食に向き合った。

 このテーブルに並ぶものも、おそらくこの執事が用意したのだろう。すでに二人分の朝食が並び、棚で埃をかぶっていた器やカトラリーが綺麗に磨かれた状態でセッティングされていた。いつもなら雑に手掴みで胃に詰め込んでいるベーグルが洒落たモーニングサンドになっていて、それをナイフで切り分けながら食べる。

 豪勢だな、と感心していると正面から不服そうな視線を受けていることに気付いて。「どうしました」と訊ねると人魚は両手で頬杖をついた。

「お前と話していると空っぽの壺に話しかけている気分になるよ。昨日だって僕を部屋に押し込んだらさっさと眠ってしまって。人間の男ってのはこんなに薄情なの?」

「…………」

 空の壺にしろ葦の原に掘った穴にしろ、空白に向き合っているにしてはそちらもよく喋るじゃないか。……せめてもの反論が頭の中を巡っては、口に出すほどでもないと消えていく。正直返す言葉もない。

「私を選んでしまったのはそちらでしょう。こんな町ですから人魚を信じる人は割といますし、熱烈に可愛がられたければ他を訪ねることをお勧めします」

「おい、生意気は言えるんじゃないか」

 肩をすくめて彼女は言う。

「それとさ、僕を人魚って呼ぶなよ。なんかぐろいだろ、キメラみたいで」

怪物キメラ……」

『人魚』と言う言葉に対するそんな嫌悪は、影斐には馴染みのないものだった。人魚とはかつて、九沈の人間にとってはささやかな信仰の対象だったのだから。彼女にだって、その自覚があるようなのに。

「ですが実際、水の中に棲んでいて人間と魚の尾がくっついたのはどちらでもありませんし、そう言う名前がつくのは仕方のないことでは?」

「言うことも聞かないときた! 素直に名前で呼んでくれたらいいだろう。昨日名乗ったじゃないか、『クララ・モン・シェール』って」

 その名前を聞いて、うっかりナイフの狙いがベーグルから外れる。シルバーが皿とぶつかる音が小さく響いた。

「……その名前に何かこだわりでも?」

「こだわるも何も僕の名前だぞ。ま、呼びづらければあだ名で呼んでくれたって構わないけど。なにせ僕の旦那さんだし」

「…………」

 ふふんと上機嫌で少女は言う。対して影斐は、ため息をかみ殺しながらシルバーを置いて。


「そのことなんですが、レディ。私と貴女はまだ結婚していません」


「……なに?」

 すっと細められる目は昨晩の湖を思い出させる冷たさだった。

「お前は言ったよ。僕の夫になるって。あれはその場しのぎの嘘?」

 影斐は首を振って、言葉を繋ぐ。水に落ちないための、綱渡りの綱を編むように。

「言いました、確かに。もちろん嘘をついたつもりはありません。しかし私も昨日言ったように、学生は学業に専念しなければ。貴女もおっしゃいました。五年でも、十年でも待つと」

「むう……」

 そういえば、と人魚は小さくうなった。

「一年です。高校を卒業するまで、一年。婚約者として、待っていただけますね」

 人魚を相手にすればちょっと機嫌を損ねることだけでも命懸けだ。

 いつだったか両親のささいな喧嘩を覗き見たとき、あとから父が似たようなことを言っていたような気がする。奥さんって生き物はね、大事にしないと怖いよ、と苦笑いをしていた。

 今になってしようのないことを思い出す。

「分かった。一年な」

 彼女は眉間の皺をほどいて、やっと頷いた。

 人魚……影斐の婚約者は幸いにも納得してくれたようだった。


 ふ、と息を吐いて、影斐は椅子の脚を床と擦れ合わないようゆっくり引いた。

「あ、ちょっと、食べ終わるのが早いよ。どこへいくの」

 挨拶もなく立ち上がる影斐を見上げながらのんびりフォークを噛む人魚……いや、レディ。執事の用意したモーニングサンドに夢中なのはわかるが、影斐はこう言った。

「貴女も来ますか」

「どこに?」

 彼女は誘われるなんて思いもよらないといった顔をする。

 影斐は戸惑う彼女の襟をつまんで金色のブローチを刺し込みながら言った。

「学校です」

「え。いや、僕は学生じゃないだろ? いくら人間の見た目をしてても学生じゃない者は混ざれない。知ってるんだから」

「ではなぜ、貴女は今うちの学校の制服を着ているんでしょうか」

 自尊で自大な少女は、押し入れで見つけた服を自分のものだと信じ込み疑いもなく着てみたのだろう。もちろんその通り、彼女のための服だ。

 ブラウスにチャコールグレイのブレザーと、学校指定のループタイ。胸元には本物の胸章ブローチが光る。それは、紛うことなく影斐の母校、私立ティリア高等学校の学生姿。

「貴女も生徒ですよ。高校生として学校に通うんです。今日から」

「…………!?」

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