レイト・メロウ

端庫菜わか

湖底のグラス・レディ

湖底のグラス・レディ、1

「僕の亭主になりなさい」

 大地の器に釉薬が溜まった月夜の湖畔。銀色の波に制服を濡らしながらすっかり冷え切った指をそっと握られ、人魚からの求婚を正面に受ける。

 それは大変名誉な事であった。


 九沈くじん湖の主として伝わる、美しい人魚。湖のレディ。螺鈿のように淡く月明かりを反射する鱗に、女性の腰から魚のそれになっていくシルエット。絵画から抜け出したような尾鰭が意志を持って水面を揺らめく。伝承上では畏敬すべき存在として神秘を担う美しい妖精であるが実際にその姿を見れば随分とネクロティックというか。

 こういうのをトランスルーセントと言ったか。半ば透明な尾鰭の鱗とガラスの皮膚の中、蒼白い脊椎の骨が浮かび上がって見えているせいであろう。人魚が少し唇を持ち上げると、小さな口の中に人間と比べてちょっと尖った前歯がちらりと光った。人間世界の常にはないその姿が、伝承では描写されなかった仄暗い怪物の一面を物語っている。

 齢十七の少年はしかし磁器の人形ビスク・ドールのような冷淡な無表情を崩すことなく、微笑む彼女を見つめ返す。

「はあ……」

「はあ、じゃ返事にならないだろ」

 どうやら人が溺れているのと勘違いして、水面にたゆたっていた人魚を岸辺に上げてしまったらしい。狭い砂浜に座り込んで茫然とする彼は自分の手を紳士よろしく握った人魚に見つめられて、そのまま留め置かれていた。気まぐれの正義感ほど無駄なものはない。

 端麗な少女の面立ちをした人魚は返答を期待してか己を引っ張り上げた少年をじっと見つめる。優雅で緩慢な所作と反して、今にも目の前に立つ人間の命など容易く断ち切ってしまえそうな獰猛なオーラを纏っている。湖の底の危険に満ち満ちて、張り詰めた美しさ。他の者がこの姿と対面すれば人魚が亭主と口にするより先に逃げ出しているだろう。

「こわいかい。ああ。緊張するのも無理ないさ、僕のような高貴なレディから直々に求婚されたんだ、畏れ多いと思ってしまっても仕方がない」

 人間にとってのプロポーズはそのほとんどが一世一代、相手の答えに己の人生を委ねる大勝負。

「心配はいらないよ、八十科影斐やそしなえい。お前がこの申し出を受諾してくれれば僕たちは完全に対等な夫婦になるんだから。身分違いであるからといって、遠慮することはないのだよ」

 けれど人魚は釣れない態度にも怯む様子もなく。むしろ相手の言葉を遮る勢いで滔々とお喋りを続けていた。

 彼女の言葉がおよそ見当違いなこととか名乗った覚えはないこととか、そういうのは一旦飲み込んで少年は身震いした。うっすらと水かきのついた彼女の手のひらは湖そのもの。指先から温度を吸い取られていくような冷たさであった。

「聞いてくれるか若者よ、僕は今ちょっと困ってるんだ。人間の勝手な所業に」

 見た目は幼い、影斐とそう変わらない年頃に見えるのに彼女は年寄りのように切り出した。

「何に困っているのか訊いてくれる?」

「あの、今すぐ帰りたいんですが……」

 キラリと光る瞳孔に見据えられて、影斐は素直に聞き直した。

「……どうかされたのですか」

「湖の底にはいつか誰かが沈めたがらくたが未だ転がっているだろう――」

 湖や山、自然に不法投棄されたゴミが問題になるなんてよくある話。観光地でもないこの少し特殊な住宅地にオーバーツーリズム問題があるわけでもなし。

 ならば人魚が指す『がらくた』とは何か。

 九沈に住んでいる者にとっては有名な話だ。

「ガラス作品群のことですね。時間こそかかりましたがそれは近く撤去の計画が持ち上がっていますし、そのうちに……」

「それ、」

 影斐が話すのを遮って、人魚は人差し指を少年の目の前に突きつける。


「その撤去作業をやめてもらいたいんだ」


 思わず瞬きをして、返事も質問も数拍遅れた。

 とあるガラス工芸家が生前に制作した、千を超える大シリーズ『クララ・モン・シェール』。未発表品や日の目を見なかった没作品なども含めた大量の作品が湖のど真ん中に投棄され、それ何十年も放置されたままだ。不法投棄の苦情にしては確かに随分と今更なことではあったが、まさかその逆を要求してくるとは。人工物は水の澱みを招く、水棲の生き物にとっては取り除くべき異物のはずだ。

「少し前に調査機が潜ってきてさ、びっくりしてつい壊してしまった。わざわざ綺麗にしてくれようというのに悪いんだけど僕にとっては迷惑なことなんだよ」

 軽快に肩をすくめる人魚。

「……それがどうして私との婚姻につながるんです?」

「お前が必要だからさ。」

 淀みないシンプルな答え。いや、答えにすらなっていない。要領を得ない説明に閉口して思わず影斐が黙り込むと、その態度を乗り気でないと見受けたらしい。

「お前がその気にならぬなら僕にも考えがある。例えばそうだな……」

 人魚は顎に手をやって、夜空と湖の中間をぽけっと見つめる。思案するには隙だらけといったところ。ややあって、彼女は左手の人差し指を立てた。

「――ペットを名乗ってお前の家に上がり込む、この姿のまま」

「やめろ」

 仮に我が家の庭のちょっとした池をすいすい泳いでいるのを想像して、影斐は真顔ながら微かに頬を引き攣らせた。人魚なんて大きなもの愛玩用に家に置くなんて流石に邪魔だし、一部分は人間に酷似しているわけだから倫理観を疑われる。浴槽に詰め込むにしても大きなアクアリウムを用意するにしても他者に見つかった時点でろくな結果にならないことは目に見えている。

 湖に棲まう人魚のくせして、なかなかに人の嫌がるツボを心得ているらしい。

「ご自身が人間に飼われることについてはよろしいんですか?」

「あ、そうだね。じゃあ今のはナシだ」

 行き当たりばったりの脅しがすんなり下げられる。もしかしてこのヒト、言いくるめたら丁重に湖へ押し返せるんじゃないだろうか。こっそり溜め息を逃がして。

「……まあいいですよ」

「え、」

「構いませんよ、貴女の夫になりましょう」

 淡白な言葉が軽い相槌かのように承諾を伝える。次の脅迫を考えていた人魚は肩透かしを食った顔で少年を見つめた。

「いいの?」

「初めから駄目とは言ってません。脅し損ですね」

「…………」

 寄せ返す波の音が一回、二回。少しの間ぽかんとしていた口が三日月のようににやりと歪む。

「……言ったね?」

 月明かりにキラキラと照らされた、勝ち誇ったような不敵な笑み。恋が実ったというよりも獲物が罠にかかったと伝えた方が正しく伝わるであろう。少女としては妖しいが、人魚としては息を飲むほど美しい。

「お前、見かけによらず後先考えないタイプだろ。まさか僕に一目で心を奪われてしまったか?」

「べつに。個人的な打算です」

 すっぱり一蹴すると既に濡れている顔に向かってひと掬いとは言えない量の水がもろに襲う。乙女の面子を立てなかった相応の水である。

「まあいい。それにしても妙齢の人間はすでに恋人や想いを寄せる女子がいたりするんじゃないかと思ったよ」

「そういうのも特にありません」

 物騒に光った宝石のような人魚の瞳が、しかし少年の返答でころっと表情が元に戻った。「なぜ?」

「別にいらないので……」

 影斐は自由な方の左手で目元に滴る水を拭う。「人間にしろ人魚にしろ、そういう観点で興味を持ったこともないですから」

「人魚なんて名で僕を呼ぶな。キメラみたいで気持ち悪いだろう」

 む、と唇を尖らせる表情はすっかり天真爛漫な少女のそれで、彼女が腕を組むのにずっと握られていた手が解放される。これ幸いと座り直す影斐に人魚は面白くなさそうに顎をつんと上げて。

「ていうか、暗にそれは僕にも興味がないと言ってるよね? 僕の求婚を承諾したのと同じ舌とは思えないな」

「…………」

 そういう貴女も私に興味がないのは同じでしょう、と言いかけたところで自分のくしゃみに遮られた。

 人魚は満足げにぱっと手を広げる。

「さ、思いの外あっさりと交渉は成立した。帰ろうか。お前の家に」

「もしかして私の家で暮らすつもりでいます? その姿で?」

「もちろん。お前にも家くらいあるだろ」

「学生なので親の家ですよ。それに、私はで暮らすこともやぶさかでは——」

「おいっ」

 言いながら立ち上がった影斐は、予告もなくざぶざぶと湖の中心に向かって歩き出して。

 湖の中は彼を拒むように冷たくて、当たり前だけれどいつも通り息のできない暗闇だった。

 あまりに躊躇のない足取りに今度は顔を蒼くした人魚が影斐の腰を抱え込んで冷たい水から引きずり上げる番だった。

「ば、馬鹿! なにしてるんだ」

「ゲホ、こっちの方が貴女も楽なんではないかと思ったんですが」

「そんなことしたらさっきまでの話が全部水の泡じゃないか。まさか水底にお前の暮らせる場所があると思ったのか、死ぬに決まってるだろ」

 さっと人魚の体はいつの間にか一糸纏わぬ少女になっていて。鱗もなく人間らしい血色のいい肌に、不思議に光っていた気がする寒色の髪も綺麗なただの黒に変わっていた。少女は恥じらうでもなく仁王立ちで、叱るような眼差しを少年に向ける。

 影斐は影斐で、それを真正面に見上げても動揺したり赤面したりすることもない。再びびしょ濡れになった前髪を横にどかして、ぼそりと呟いた。

「なんだそっちか……」

「なんだこの人間は、そのがっかりした顔! お前がオッケーしたんだから今更撤回はなしだぞ」

 ぱ、と手のひらを影斐に差し出して、その手を取れば力強く立たされる。勢いに少しふらつきながら浅瀬に水飛沫をあげて。満月のようにキラリと光る瞳孔が、人魚の面影に名残を残している。

「僕の名は『クララ・モン・シェール』。」

 その名は偶然なんかではない。

 それは宿命あるいは描かれていた図面の一枚だった。

 後悔すべきだったのか望むところと笑みを浮かべるべきだったのか、彼の頭はそれを選びきれずに途方に暮れる。


 彼女が名乗ったのは正に一字一句違わず、湖底に眠るガラス作品群と同じであったのだ。

 付け足して彼女は言う。

「呼びづらければルルでもいいよ」

「クララの影も形も砕け散ったが」

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