レイト・メロウ

端庫菜わか

湖底のグラス・レディ

湖底のグラス・レディ、1


「僕の亭主になりなさい」


 大地の器に釉薬が溜まった月夜の湖畔。すっかり冷え切った指をそっと握られ、うっすらと水かきのついた少女から求婚を受ける。

 それは大変光栄なことであった。

「はあ……」

 相手の男はしかし銀色の波に服を濡らしながら磁器の人形ビスク・ドールのような無表情を崩すこともなく、微笑む彼女をただ見つめ返していた。

 プロポーズとは往々にしてそのほとんどが一世一代、相手の答えに己が人生を委ねる大勝負。だけれど人魚は反応のない相手に戸惑う様子もない。


 九沈くじん湖の主として伝わる、美しい人魚。螺鈿のように淡く月明かりを反射する瞳に、女性の腰から魚のひれになっていくシルエット。絵画から抜け出したような尾びれが意思を持って水面を撫でる。

 伝承上では畏敬される存在、町を見守る存在として神秘を担う美しい妖精。だが、実際にその姿に目見えれば妖艶なイメージとはかけ離れたものだった。

 こういうのをトランスルーセントとか言ったか。半ば透明なガラスの尾びれの中、蒼白い脊椎の骨がぼんやり浮かび上がって見えている。鱗を失くした魚のように。

「はあ、じゃ返事にならないだろ」

 人魚は呆れ顔で肩をすくめた。

 淡麗な少女の面立ちをしているが、少し唇を持ち上げると淑やかな口の中にちょっと尖った前歯がちらりと光った。人間世界の常にはないその姿が、忘れられたほの暗い怪物の一面を静かに物語っている。優雅で緩慢な所作と反して、今にもこちらの命など噛み切ってしまえそうな、底冷えのする獰猛なオーラを纏っている。普通の者が彼女と対面すれば、彼女が「亭主」と口にするより先に逃げ出しているだろう。

「ああ、緊張するのも無理ないさ、僕のような高貴な女性から直々に求婚されたんだ。畏れ多いと思ってしまっても仕方がない——けれど心配はいらないよ、身分違いであるからと言って遠慮することはない。お前がここで、頷いてさえくれれば僕たちは対等な夫婦になるんだから」

 黙って眺めていると挫けずにとうとうと話しかけ続けてくる人魚。

「さ、どう?」

 どう、と言われても。 

 彼は凍りつきそうな唇をようやく持ち上げた。

「私はまだ学生ですし、結婚はちょっと……」

 彼——八十科やそしな影斐えいはというと母方の祖母の法事の帰り。片付けの手伝いまで済ませてやっと家のすぐ近くまで帰ってきたところで、暗い湖面に何かが浮かんでいるのに気付いて、カバンを放り捨て救助にあたったのだ。しかし気まぐれの正義感ほど厄介ごとを招くものだ。どうやら人が溺れているのと勘違いして、水面にたゆたっていた人魚を岸辺にあげてしまったらしい。

 彼女は空いている方の手を自分の頬に添える。

「がくせいってのは、なんか、ものを習う子どものことだろ。それが人魚と結婚するとまずいのかな」

「ええ。学生は学業に専念しなければ」

 少しなら問答が可能な相手であるらしい。そう思った矢先、彼女はとんでもないことを口にする。

「つまり、お前が学生でなくなれば結婚してくれるということ? 先生を食べちゃおうか」

「…………」

「ジョークだ。生きた肉なんかたべないもの」

 アハハと喉を揺らして笑う人魚のいっそう深いみどりの瞳が胸をざわつかせる。

「でもそれ、いつまでもそうじゃないだろ。雛も飛び方を学べばひとり飛び立つのだし。そういうのって待ってれば終わるものか?」

「それは、」

 時節は春だが夜風はまだ冷たい。ぐっしょり濡れた高校の制服に湖の吐息がすり抜けてきて、影斐は身震いした。影斐をつかまえたままの彼女の手は夜露そのもの。指先から温度を吸い取られていくようだった。

「……なんかこう歯切れが悪いな。僕はこの湖で最も尊い存在だよ。まさか知らないわけないだろ?」

「まあ、はい。人魚は九沈のシンボル、姫神のようなものだと散々教えられて育ちました」

「ならもうちょっとこう涙を浮かべて喜んだりするべきじゃないのかな」

「本来であればそうですが」

「じゃ、待ってあげよう。あとどのくらいかかるんだ、五年? 十年? そしたら夫になってくれるね」

 人魚はにっこり笑って、影斐の手を両手で包み込む。

 これは、困った。彼女は本気らしい。

「どうしてそこまでして人間との結婚にこだわるのですか? 随分と眠っていらしたのに、気まぐれにしても突然ですね」

「気まぐれ?」

 首を傾げる仕草で人魚の髪がゆらりと揺れる。こちらを見つめる瞳が月の光に反射して妙に明るく見えて、目がチカチカした。

 少女は歯を見せて短く笑った。

「最近まで湖の底にはがらくたが転がっていたんだ。キラキラとたくさんのね」

 人魚の指先が九沈湖の中央へ向けられる。

 海岸や山など自然を訪れた人間が捨てるゴミについては、各地で挙げられている環境問題の一つである。特に観光地などはマナーを守らない観光客の心ない行為がよく取り上げられているし、今日日よくある話ではあるが、ここ九沈の町に至ってはその例に当てはまらない。別荘地はあるもののとりわけ観光業に重きを置いておらず、取り柄といえばこの美しい湖であるがそれをわざわざ見に訪れるツーリストも稀である。そんな住宅地にそんなオーバーツーリズム問題の一端が発生するわけでもなし。

 ならば人魚が指す『がらくた』とは何か。影斐には心当たりがあった。

「十八年前に不法投棄されたガラス作品群のことですね」

 とあるガラス工芸職人が生前に制作したガラスタペストリー作品群『クララ・モン・シェール』。透明な絵画とも呼ばれたガラスの薄板は公開されたものだけでも千を超える大シリーズ。まさに作家人生を丸ごと使った連作だった。

 それが十八年前、生み出した当人の手でこの湖に捨てられた。彼女の手元にあった中でも未発表だった作品や没になった制作途中の作品も含めた膨大な量のガラスが、湖の波に削られ続けてきた。

「諸事情で時間こそかかりましたがあれは先日の水中作業でほぼ全て回収されたはずです。もとより人間の出したごみでしたから。何か問題が?」

「ごみ?」

 彼女は眉を顰めて、影斐の発した言葉を繰り返す。

 職人が没した今になってようやくの回収となったが、何百という遺品がすでに役所から町外れの美術館へ運び込まれている。湖という自然の中で人工物は取り除く異物のはずだ。しかし人魚の不服ポイントはそこではないらしい。

「問題も問題だよ、許可も得ずを勝手に持ち出してしまうんだから。全く誰がごみだなんて言ったんだ」

「……はあ」

 数拍、思わず瞬きをして。

 浜に揺らぐ波がふいに強く押し寄せて、影斐は少しよろけた。

「それをお返しすれば大人しく湖に戻ってくれるんですね」

「なんでお前は僕を湖に帰したがるんだ」

 それで満足してもらえるなら穏便に済んでいたものだったろう。しかし雑に追い返そうとすれば勘付かれる。

「ではどうすれば?」

「だから言ってるだろ。誠意が足りないよ、人間は。何かをもらうときは、代わりに何かを差し出す必要があるよな?」

 影斐は反射的に左手を引き抜こうとする。しかし逃すまいとぎゅっと掴まれて、指が抜けそうな感覚を味わうだけだった。

「……つまり宝を奪った代わりに私を生贄に差し出せ、ということですか」

「そこまでは言ってないけど」

 と、瞼を伏せて微笑む少女の息は白く冷たい。

 やはり彼女は本物の人魚でこの湖の主であると……目の前にいる影斐にしか実感できないことではあるが、氷が肌を撫でていくように身体が震える。これは生き物としての危機察知の本能なのか、それとも、九沈の人間ゆえに人魚には萎縮してしまうのか。

「それが私でなくてはいけない理由はないでしょう。ガラスを回収したのは町の公務員ですし」

「別に、深く考える必要はないだろ? 高貴で美しい僕の夫になるなんて光栄なことだ」

「血筋や家柄で結婚を決めるなんて現代的じゃありませんよ」

「なんだって?」

「確かにこの湖畔の町に限っては貴女に選ばれることは誉とされるかもしれません。」

 しかしそれは、影斐にとっては望まない恩寵だった。

「それを抜きにして私に利点はあるのですか?」

「リテン? お前に?」

「貴女の宝を奪ったのは私ではないのに人間というだけで身を差し出さねばならないのは公平性に欠けてませんか」

 そう問うと人魚は瞳を大きく揺らした。それから出てこない言葉を探すようにさまよって。

「ないんですね。それでは」

「待て! 損得で考えるなよ。愛があればそんなの大して気にならないことじゃないか」

 しゃあしゃあと言ってくれるが、お互いその愛すらない場合のことを彼女は考えただろうか。

「そもそも伝説上の人魚が現れて人を夫にしようだなんて、それこそ古ぼけた約束だ。私には身に余る……っ」

 肩をぐわっと回され、浅瀬に水飛沫をあげた。キラリと光る二つの満月が夜空より近くで見下ろして。

「ああ、ぐちゃぐちゃうるさい」


 ひびが入る。

 自ら築いてきたガラスの窓に。

 囚人のような日常に。


「ごたくはいいよ。僕を妻にするか、それとも一緒に泡になるか。選ばせてあげてるうちに決めなさい」

 耳元で寄せ返す波の音が一回、二回。呆然として、ぽかんと開けた口をようやく動かした。

「……はい……」

 すると背中の下を揺らめいていた水の冷たさがふっと和らいだような気がして。目の前には月明かりにキラキラと照らされた、勝ち誇ったような不敵な笑み。恋が実ったというよりも獲物が罠にかかったと伝えた方が正しく伝わるであろう。少女としてはあまりに妖しいが、人魚としては息を呑むほど美しい。

「それでいい」

 満足げに言ったのは少女だった。

 血色のない皮膚は温かい肌色に、不思議に光っていた寒色の髪は綺麗なただの黒髪に変わって。

 影斐に覆い被さっていたのは白く薄いワンピースを着た少女。

 人魚のひれは細い脚となっていた。

「僕の名はクララ・モン・シェール……」

 それは深海に揉まれた魚のため息が永い時を経て砂浜に運ばれてくるように、巡り来る定めだったのか。

 人魚の名がくだんの作品群と全くの一緒とは。

「粋な冗談ですね」

「名乗るのに冗談なんてあるものか。よろしく僕の旦那さん」

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