「     」

 既に運行を止めたらしい電車の走っていた線路沿いを、僕たちは歩く。潮風の香りがして、果てがそこまで近付いていることを知る。

 世界が終わるまで、あとどれほど残っているのだろうか。黒板に記された指標を目にしていないせいで、答えは分からない。白墨で記されたあの数字は、今も減り続けているのだろうか。もう、彼女も学校へは行っていないのかもしれない。ゼロに到達する前に止まってしまったまま変わらない、誤ったままの数字を想像すると、いやに寂しくなった。

 痛みは日に増していくばかりで、収まる気配がない。時とともに慣れるのは痛みではなく痛みとの付き合い方だけで、毎夜眠りが浅くなったことを自覚するばかりだ。せめてもの幸いは、痛くない振りをすることが上手くなったことかもしれない。

 遠くに目が明くような光が見えて、その正体が海なのだと気付く。

「海だよ、廉君」

 彼女がその名前を呼ぶ度に、森の中で首筋に葉が触れたようなこそばゆさを感じる。何度呼ばれたとしても、未だに慣れないその響きは、世界が終わるまで慣れないままなのだろうと思う。始まりも、そうだった。理由もなく名前を呼んだ彼女に、僕が分かりやすくたじろぐと、彼女はそれから僕のことを名前で呼び始めて、僕に名前で呼ぶようにと一方的に約束を取り付けた。横暴だと抗議をしたし、今でもそう思っていることに変わりはないけれど、甘酸っぱいそのこそばゆさは心地よいものでもあって、このままで居ることが僕は好きだった。

「随分と、遠くまで来たんだな」

「うん、そうだね」

 今まで僕は海を見たことがなかった。彼女は、僕から離れていた先の街で海を見ていたらしい。

 本当に、遠くまで来たのだと思う。幾つもの電車を乗り継いで、幾つもの街を歩いた。その度に実感をしたのは、終わりが近付くにつれて街から人の気配が消えていったことだった。日常も、終末が引き連れて来た異常も消えて、何もなくなった街はまるで終末を先取りしたようで、二人きりの中歩いていくのはやけに楽しかった。

 既に人々は、終わりを迎えるべき場所を見つけているのだろう。居るべき、帰るべき場所でただ待っているのだ。終わりが訪れることを。

 その場所を、人は家と呼ぶのかもしれない。故郷と呼ぶのかもしれない。僕たちは最後までそこを見つけることが出来なかった。破壊され尽くした僕の住んでいた家も、彼女がかつて居たという遠い地の家も、僕たちが自然に眠ることが出来る場所ではない。

 もしも、その場所を定まった空間の中ではなく移ろっていく相の中に見出せるのだとすれば、僕たちにとってのそこは、互いの隣だった。

 僕たちの逃避行は、終わるべき場所を探していたのではない。電車の中だったとしても、名前のついていない道を歩いている中でも、僕たちは終わることを受け入れられたのだろうと思う。ここまで来ることが出来た動機は、どこまでも無邪気なただ旅にゆきたいという衝動的で単純なものだったのだから。

 車の通っていない道路の、信号すらない場所を横断して、僕たちは海へと近付いて行く。寂寞とした世界の限界へと。

 砂浜には誰も存在していなかった。石階段を降りて新雪のように真っ新な場所へと足を踏み入れる。僕たちの足跡が、海辺に刻まれていく。

 海から吹く風に彼女の髪が靡いた。黒く艶やかな髪は完成されたものであるかのように綺麗で、思わず見惚れてしまう。以前であれば、気恥ずかしくて逸らしていた視線も、ようやく逃げることなく見つめることが出来るようになってきた。

 視線に気が付いたのか彼女は振り返り、僕の方を見る。彼女ははにかんで、僕は誤魔化すように海の方へと視線を向ける。多分、どれほど時間があってもこうして微笑まれることには慣れないんだろう。

「誰も、海になんて来ないんだな」

「このまま最後まで、誰も来ないんじゃないかな。ただ綺麗な場所に来ても、哀しくなるだけだから」

 確かにそうかもしれないと思う。目の前に広がる冬の海は綺麗なはずなのに、何故だか虚しく、寂しく感じてしまった。風は強く、一人ではとても耐えられそうにない。

 砂浜は一歩進む度に体重分沈んでいき、足を取られる。とてもじゃないけれど歩きやすい場所ではなくて、僕たちは逃げるように波打ち際へと歩いて行った。波に晒されたそこは、砂浜よりもずっと歩きやすい。

 並んで、海と陸の境界線上を進んで行く。目的地は既になく、ただ目の前にある道を歩くためにずっと、ずっと歩いて行く。彼女が決まったテンポで歩いて行く姿は、どこかダンスを踊っているように見えた。僕もまた、上手く踊れているのだろうか。そうであればいいと思う。

 世界の終わりが近付く中で知ることが出来た事実のひとつは、人間という動物の本性は案外捨てたものではないということなのだろうと思う。

 人間は所詮動物であり、獣であり、理性なんていう薄っぺらいものを剥がしてしまえば惨めで醜悪な姿が露呈することになるのだという言説を、幾つも聞いたことがあった。そして、そのうち半分は本当なのだろうと思う。人間は所詮動物であり、誇るほど他の動物よりも優れているわけではない。その本性は、文化や理性で着飾ったものとはかけ離れたものなのだろう。

 それでも、静謐が溢れる街の中で、その本性とやらは僕たちが悲観しているほど酷いものではないのだと思った。終末が訪れるという宣告が為され、人間的虚飾が剥がれてから失われてしまったものは多い。数えきれないほどに、とても。けれど、絶望するほど大きくて取り返しのつかないものかと言われれば、そうでもないのだろうと思う。もしも隕石が突如として消え去り、終末がなかったことになったとすれば、人々は終末なんてなかったような顔をしてかつて存在していた日常を当たり前のように取り戻していくのだろう。数十年後の教科書の一頁に載って、それで終わりだ。人間とは、社会とは、それほどの耐久性を持っている。

 あるいは、それは動物ではなくやはり人間らしさがゆえの強さなのかもしれないと思う。

 信じるという機構は、人間にだけ備わったものだ。在りもしないものの存在を認め、縋る。芸術が動物の世界にないように、信じるということもまた、動物にはない不合理さなのだろう。

 その不合理さは、僕たちを深く傷付けた。そうして出来た痛みを、傷痕をなかったことにしたいとは思わない。けれど、そんな不安定なものが僕たちを繋いでいることもまた確かなのだろうと思う。言葉がなくても、関係や感情を定義をすることが出来なくても、こうして歩き続けているのは僕たちが互いを信じ合っているからだ。こうした小規模な信仰の堆積が、人間らしさなのかもしれないと思う。

「……私さ、世界が終わることなんて怖くなかったんだ」

 彼女は遠く海を見つめながら言う。空には海猫が飛んでいて、潮騒の中にその鳴き声が聞こえる。

「それは私が強かったからじゃなくて、実感が湧いてなかっただけなんだろうけど、本当に怖くなかったんだ」

 僕もまた、そうだった。漠然とした不安が迫っていることを理解しつつも、それ以上の何かを覚えることが出来なかった。時が進み、終末が近付く中でもその考えは変わらないままで、このまま終わっていくのだろうと、そう思っていた。

 けれど、変わった。変わってしまったのだ。

 彼女は立ち止まって、僕の方を見た。そして、笑う。泣きそうな顔で、助けを求めるように。

「でも、最近怖いんだ。夜眠る前に、このまま起きることが出来なかったらどうしようって考えることが増えた。一人きりになった時、このままもう会うことが出来なかったらと考えるようになった。一人じゃ、立てなくなっちゃったんだよ」

 何かを手にしてしまえば、必然それを失う未来が生まれる。これ以上ないという幸福を手にしてしまえば、あとは放物線を描いて落ちていくことしか出来なくなる。

 僕たちは、何も持っていなかった。その状態は不幸と呼ばれるものだったかもしれないけれど、だからこそ終わりを恐れる必要もなかった。実感の湧いていない死のほかに、僕たちが直面するものはなかったのだから。

 しかし、僕たちは得てしまった。知ってしまった。かけがえのないものを。

 世界の終わりは無慈悲に、平等に、それを奪っていく。失われていく。それは、実感のない生の停止よりもずっと、恐ろしいことのように思えた。

「好きだと言えたことは、大切な人の隣に居られることは、本当に嬉しいんだ。それなのに、本当にこれで良かったのかなって思う時があるの。何も知らなければ、こんなに怖くなることもなかったんじゃないかって。何もしない方が、良かったんじゃないかって、そう考えてしまうんだ」

 彼女は恐怖から身を守るように、自らの手首を握る。その苦しみは、いやというほど分かってしまった。僕もまた、同じ感情を抱いていたから。

 悔悛を拭うように、今度こそ彼女に好きだと言うことが出来たことは、幸福だった。後悔に終止符を打ち、納得をした結末を迎えることが出来るようになった。けれど、彼女が再び僕の元を訪れるようなことがなければ、これほど終わりに怯え、哀しみを抱くようなこともなくなっていたのではないだろうか。

 けれど、それは今ある幸福を否定することになる。それだけは、違う。終わりが訪れるのだから、失われてしまうのだからなければ良かったとは、思えない。

「花発けば風雨多く、人生別離足るって言うだろ」

 彼女は小さく頷く。それは昔、彼女が貸してくれた本に書かれていた言葉だった。花が開いても風雨により散ってしまうように、人生に別れは付き物だという、さよならを覚悟するための言葉。

「世界の終わりなんてなくてもさ、会ってしまったなら僕たちは別れるしかなかったんだよ。それだけは、確かなことなんだ」

 かつての終わりのまま、二度と会うこともなく終わってしまったかもしれない。あるいは、偶然により再会をすることがあったとしても、今のように寄り添うことが出来たとしても、いずれ死が訪れることに変わりはない。生き別れるか、死に別れるか。出会ってしまった時点で、そうした終わりがあることは、何よりも確かなことなのだ。

 そうした別れが必然であることは分かっていても、覚悟をすることが出来ていたとしても、哀しいことには変わりがない。どうしたって、残された者の中には虚が空き、寂寥は身体を蝕んでいく。

「だからこそ」と僕は言う。

「世界の終わりは、これ以上ない終わり方なんじゃないかな。大切な人を残すことも、大切な人に残されることもなく、同時に終わることが出来ることは、終わりという可能性の中でも最も幸福で、ロマンチックなものなんだろうからさ」

 終わりは、迎合するべきものではない。どう解釈をしてもそこに虚しさと寂しさは存在していて、誰だってそれを避けることが出来るならそうあって欲しいと願う。

 けれど、それが訪れてしまうのだとすれば。逃れられないのだとすれば。人は良い終わり方を探す。どうすれば、せめて後悔なく終わることが出来るのかを考える。そして、僕たちはそれを既に見つけることが出来ていた。ならば、悲観することはないのではないのだろうか。

 由良は、僕の言葉を聞いて笑った。涙を捨てて、霧の中を抜けたように晴れやかに。

「そうだね、ロマンチックかも」

 ロマンチックという響きが可笑しかったのか、彼女はくすくすと笑った。笑われた後で、自分らしくない言葉だったと思う。

 それでも、他に言いようがなかったのだから仕方がない。僕たちは、ロマンチックな終わりを迎える。陳腐で不格好な言い方だけれども、それが素晴らしい結末であることには違いがない。

 僕は由良の手を取って、歩き始める。行先は分からないままで、ただその果てに終わりがあることだけが分かっている。

 世界はもうすぐ終わる。喜びも哀しみも希望も絶望も、波に攫われて消えていく足跡のように消えていく。後に残るものは、何もない。

 それでも、僕たちは生きていく。日常の中を、二人で。やがて消えゆく無意味さの中にある温かなものは、エニグマのように僕たちだけにしか分からない、世界から隠した秘密だった。

 空が青い。肌を撫でる潮風の中で、また明日が来ればいいと、そう思った。

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もくしろくでこいをして しがない @Johnsmithee

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