蜃気楼

 目的の場所へと着いた時、既に空は夜という名の黒が支配していた。本部と呼ばれるその場所は、傍から見れば何の変哲もない五階建てのビルだった。街の中に溶け込んだ灰色は、事前にあの貼り紙を見ていても尚ここが本当に狂気の蔓延した施設なのかと疑ってしまう。

 入口は誰が居るわけでもなく、容易に這入ることが出来た。間違えた場所へと這入ってしまったのかと疑うほど伽藍とした中で、僕は進んで行く。歩くことすらも苦痛な中でも上るうえで階段を選んだのは、誰かに遭遇したとしても階段の方が逃げやすいという理由だった。

 深々とした沈黙の中に、僕が階段を上がる音だけが響く。痛みを紛らわすようにして、手すりを掴みながら、確実に進んで行く。

 目的となる場所は、カガリ様と呼ばれる人間の場所だった。これだけ広い場所で当てもなく香深を探すことは難しい。ならば、香深の居場所を知っている可能性のありそうな、一番上の人間の方がずっと探しやすいだろう。

 階段を上がっても、人の影は見えない。箱舟へと行くための場所は、ここではないのかという不安が頭の中で膨張していく。それでも、僕は上っていくしかない。

 目の前に広がる階段は、絞首台への道に似ているように思えた。この先に、縄はない。けれど、終わりが待っていることだけは確かだった。

 静謐の中で、自らを保つために人さし指の爪で親指を強く引っ掻く。切ることを忘れて伸びた爪は皮膚を裂き、血が流れる。痛みは、冬に吐く白い息のように、生きていることを実感させる。僕もまた、血の通った一人の人間であるということを証明する。飽和した全身を侵す痛みの中で、新しく浮かび上がった鋭い鮮明な痛みは僕が生きているという事実を何よりも証明しているように思えた。

 踊場へと辿り着き、そして再び次の階を目指すために階段を上がっていく。その繰り返しの時間は引き延ばされて、永遠のようにすら感じる。

 いつか本で読んだ、シーシュポスが岩を押し上げていく姿が頭を過った。もしも僕が彼と重なるなら、押し上げた岩はやがて転がり落ちていくのだろうか。静寂が増幅させた不安は再現なく暴走する。

 しかし、嵐のような暗闇の中を、それでも僕は歩く。一歩進むごとに覚える痛みを足跡として、進んでいることを確信しながら、彼女を求めて。

 三階に辿り着いたところで、誰かが叫んだ声が聞こえた。それは悲惨さを象徴するものというよりは、歓喜に満ち溢れた喜びの声で、だからこそ不気味さを覚える。広漠とした廃墟のようなビルに、その声はあまりにも似つかわしくなかったから。

 その直後、何かが叩きつけられるような鈍い音が世界に響いた。

 何が起きたのか。咄嗟に、音の聞こえた方へと視線をやる。そして、廊下に備え付けられていた窓の外を、幾つもの影が通り過ぎて行った。

 重力に従い、落下していく人々と目が合う。それは、僕の勘違いだったのかもしれない。けれど、僕は確かに見てしまったのだ。狂信の末、これから死んでいく人間の表情を。

 再び、死の音が響いた。どこからか悲鳴が聞こえる。吐き気が、脳の中を支配したことが分かった。骸を見たわけではない。けれど、生々しい人間の死と直面したという事実には、変わりがなかった。

 最低の気分だった。そして、だからこそ傷だらけの身体を引き摺って走り出す。もしも、この狂気が信仰の末路だというのなら。そこに香深が巻き込まれようとしているのなら。急がなければいけない。香深由良が世界から、僕の元から、完全に失われてしまう前に。

 身体を接続する部品が解け、ばらばらになってしまうかもしれないと思った。痛みは、最早慣れてしまったけれど、肉体の不安定さに対して本能が警鐘を鳴らしている。これ以上無理をしようと思えば、お前の身体は壊れ、砕けてしまうのだと血肉が叫んでいる。

 そんなことはどうでも良かった。僕の身体なんて、どうなっても良い。間に合わないくらいなら、全身がぶっ壊れた方がましだ。後悔するくらいなら、死んだ方がましだ。ぶちぶちとした音が、内側から聞こえたことが分かった。それでも、身体が止まることはない。衝動的に、本能的に、肢体は突き動かされる。

 そうしている間にも、人が死んでいく音は響き続ける。このまま、世界が壊れるんじゃないかと思った。不可逆的にものが失われていく音は、そのまま世界に罅を入れて、崩れていってしまうんじゃないかと、そう錯覚する。

 誰かが叫んでいた。それが、自分の口から漏れた声にもならない声だということに気が付く。何に捧げる声なのか、自分でも分からない。傷だらけの身体を無理にでも引き摺るための鼓舞なのか、醜悪な選択をした宗教に対する怨嗟なのか、間に合ってくれという祈りなのか。あるいは、その全てなのかもしれないし、複雑な考えは何もない、意味のない咆哮かもしれない。

 五階に辿り着く。しかし、屋上への階段は別のところにあるようで、廊下へと転がるように走り出る。どこにあるのかも分からない屋上へと通じる階段を、僕は必死に探す。蹌踉けながら、何度も転ばないように壁に手を付きながら、現れた道をひたすらに進んでいく。

 焦燥が脳の裏側を焼き付けていることが分かる。早く、早く行かなければいけない。誤った道へと進む度に、血が藍色に染められていくような感覚がする。こうしている間にも、手遅れになってしまうのではないかという恐怖が縫い付けられる。

 けれど足を止めることはなかった。それしか、僕に出来ることはないのだから。ただ、目の前にあることを真っ当するだけだ。

 迷宮を彷徨っているような永遠の中で、ようやく屋上へと繋がるドアを見つける。より正確に言えば、それは既に開け放たれていた。夜空という名前で呼ばれる世界の限界が、階段の下から見える。

 溺れた人間が空気を求めて水面を目指すように、僕は走り出す。その時、僕の心と世界を切り裂くような少女の悲鳴が耳を劈いた。それは、暗闇の中、無力感に打ちひしがれながら聞いた美しいほどに哀しい声だった。

「香深!」

 屋上へと出ると、世界は一気に広がった。近付いたせいか、夜空に浮かぶ星々はやけに輝いて見える。月は、物言わぬまま僕たちを見下ろしている。

 幾つもの人間が絡み合ったその影は、一匹の魔物に見える。幾人もの人間が一人の少女を抑え込み、今にも屋上から突き落とそうという光景は、世界中の悪意を詰め込んだようなグロテスクなものだった。

 香深を掴んでいた人々が、僕の方を見た。タイミングは、ここしかなかった。僕は、懐に仕舞っていた唯一の武器を取り出す。躊躇いなく、それを彼らに向け、引き金を引いた。

 轟音が響き、右腕に抑え切ることが出来ないほどの反動が訪れる。拳銃を撃ったのは、これが初めてのことだった。

 死ぬのが、怖かった。父のように、不条理な暴力によって命を落とすことに、怯えていた。ならば、自分自身がその暴力を手にすればいい。殺される前に、殺せばいい。そうして、僕は武器商人を名乗る男から、拳銃を買った。

 使うことになるとは思わなかった。あくまでも、気を落ち着けるためだけのものとして、一度も放つことはなく世界は終わるのだと信じていた。けれど、現実は非情に僕を嘲笑う。

 皮肉なことに、僕が最後に頼ったものは、僕が最も恐れていた暴力だったのだ。最も恐れていた、軽蔑をしていた者に僕はなっている。躊躇なく、暴力により他人の命を奪う殺戮者へと変わり果て、内臓が腐っていっていることが分かる。

 放たれた銃弾は、誰にも当たることなく夜闇へと溶けて消えていく。それが良いことなのか、悪いことなのかは分からなかった。

「香深から、離れろ。あんたたちだって、箱舟に乗る前に死にたくないだろ」

 彼らの動きが鈍くなったことが分かる。彼らの望みは、箱舟に乗り、新世界へと向かうことなのだ。死を恐れないわけではなく、むしろ死を恐れたからこそ飛び降りる。だからこそ、銃口を向けられれば怯えることになる。

「蓮見君!」

 痛切な声に、再び男は強く、身動きが出来ぬように香深を掴む。頭がかあっと熱を帯びたことが分かる。躊躇いは、なかった。再度、照準を合わせて引き金を引く。覚悟をすることが出来ていたお陰で、一撃目と比べて反動は幾分か抑え込むことが出来た。

 今度こそ、銃弾は香深の傍に居た男の一人に当たり、血が流れる。当たったのは腕だったが、経験したことない痛みに驚き、男は蹲る。僕の言葉が脅しではないことをようやく知ったのか、男たちの動きは再び固まる。

 僕は銃を構えたままで一歩、近付いて行く。他人を撃った。当たり所が悪ければ、死んでいたかもしれない。けれど、目に映った鮮やかな血はむしろ僕の頭をやけに冷静にさせていた。僕は誰かを殺すことが出来るのだと、確信を抱く。

 僕が歩みを進める度に、香深を囲った人々は逃げるように少しずつ身を退いて行く。その中でも動かなかったのは香深の母親と、一人の痩身の男だけだった。

「……退いてくれないか。僕は、あんたを殺したいわけじゃない」

「退きませんよ。一人でも多くの人を、私は救わなければなりませんから」

 言葉から察するに、彼こそがカガリ様と呼ばれる人物なのだろう。この狂った思想の元凶。

 意外だったのは、彼がどこにでもいるような、普通の人間にしか見えないことだった。特異な身体的特徴があるわけでもなく、宗教的な装束を身に纏っているというわけでもない。小綺麗なスーツは、今この空間においては異質に見えるが、それでも異常と呼べるようなものではなかった。

「戯言はもう、十分だろ。自分が吐いた妄言と心中でもするつもりか」

「君からすれば、妄言に聞こえるんでしょうね。理解をされたいとは思いません。貴方が信じないのなら、私はそれでいい」

「なら、香深を――信じてない人間を巻き込むなよ。救いがあるっていうなら勝手に飛び降りて勝手に死ねばいいだろ」

「信じる、信じないという思想は別として、この先には救いがあるという事実は存在しているんです。だからこそ、私はより多くの人を救わなければならない。例え厭われ、憎まれたとしても」

 男の目は、凪いだように落ち着いていた。檄を飛ばすわけでも、レトリックを用いるわけでもない。彼はただ、事実を並べているだけなのだ。

 薄気味の悪い感覚を覚えた。彼は、本当に救済を信じているのだ。金のためでも名誉のためでもなく、ただ純粋に人々を救うために、行動をしているのだと分かる。僕が他人を撃ってでも、殺してでも香深を助けようとするように、この男もまた何を犠牲にしてでも他人を助けようとしているのだ。

 ここに正しさはなかった。僕も、彼も、どこまでも歪んでいる。歪なエゴが二つ、あるだけだ。

「ここで僕が引き金を引けば、あんたは死ぬし、あんたが何をしてでも救おうとした香深は救われないまま僕が連れ帰る。それでも、退く気はないのか」

「死ぬからといって怯えて逃げるのは、裏切りですよ」

「誰に対する?」

「神と、私自身と、今まで私について来た者たちに対して」

 神は存在しない。そのついて来た者たちは、今このビルの下で重力に拉げた死体に変わり果てている。僕から見れば、彼は後に引けなくなった愚者にしか見えない。けれど、自分の信じたもののために命を捨てることが出来るほど徹底した愚者を、僕は嘲ることが出来なかった。

 彼は確かに、誰かにとっての救世主であり、英雄だったのだ。かつて、空っぽの僕が憧れた、意義のある生を背負った人間だったのだ。

 けれど、僕が望むものは既に変わっていた。大義を掲げる必要はない。誰かのためでもない。僕は、僕自身のために生きようと、そう決めたのだ。そしてだからこそ、この人は強いのだと思う。僕は、僕のためにしか生きる意味を見出せなかったけれど、他人のために死ぬことは、生きることは、誰しもが出来ることではないのだから。

「本当に、いいんだな」

「ええ」

 世界が終わらなければ、彼は在りもしない救済に縋ることがなかったのだろうか。その正しさを、狂信の中ではなく確かな形あるものの中に還すことが出来たのだろうか。そんな、意味のないことを考えた。

 僕に力があれば。拳銃なんかに頼らずとも香深を救い出すことが出来れば。こんな結末にはならなかったかもしれない。犠牲なく、望むものを手に入れることが出来たかもしれない。それでも僕は弱いから、こうするしかなかった。他に選択肢はなかった。

 せめてもう少し、時間があれば、結末は変わったのだろうか。そう思いながら、引き金に指をかける。

「待って!」という声がした。香深は、泣きそうな顔をしていた。

 彼女にとって、この結末は望んだことではないのかもしれない。自分のために誰かが死んでいく姿を見ることは、彼女の中に癒えない傷を残してしまうのだろう。

 恋する人を、僕はこれから傷付けるのだ。多分、恋の本質とはこういうものなのだろうと思う。自分のために、相手を傷付ける好意。そうしたエゴの堆積を美しく言い換えた言葉こそが、恋なのだ。

 たったひとつ、僕に残された道は破滅に向かうための悪路でしかなかった。それでも、そこしか道がないのだから、進むしかない。彼女を道連れにすれば、そうした道も進むことが出来るのだろうから。

「さようなら」と僕は言った。今から殺す人に対して、それは悪趣味な言葉なのかもしれない。けれど、自らの信仰の中に殉ずる者に対する、手向けの言葉を告げずに、ただ殺すことだけは出来なかった。

「さようなら」と彼は言った。

 そして、僕は死の温度を纏った引き金を引く。銃弾は世界を切り裂くように放たれ、男の胸部を撃ち抜いた。

 男の身体から、生命が失われていくことを象徴するように赤が漏れ出て行く。最後まで泣くことも怯えることも怒ることもなく、男はただ直面した現実を受け入れるように冷たい屋上の地面へと倒れていった。

 彼は動かない。一撃で死んだのか、死なずとも動けないのか、動く気がないのかは分からなかった。うつ伏せに倒れたせいで、表情を見ることも出来ない。

 彼が死んでも尚、信者は残っている。むしろ、彼が死んだことで逆上をするように襲ってくるかもしれない。そう考え、拳銃を下ろさぬままでいたけれど、誰一人として復讐をするような者は居なかった。打ちひしがれたように、屍を見つめるだけだった。

「……どうしてくれたんだよ」とそのうちの一人が呟くように言う。

「これから、どうすれば良いんだよ」

 あの男を殺しただけではない。僕は、彼らもまた殺してしまったのかもしれない。けれど、最早その事実に感傷を抱くことはなかった。

 僕の知ったことではない。身を投げ出したいなら、身を投げ出せば良い。本当に箱舟があるなら、救いが存在するなら。カガリ様なんて存在が居なくても新世界に飛び立てるのだろうから。

 ゆっくりと、香深の方へと歩みを進める。彼女の眼は藍色の哀しみを携えて、僕を見つめる。

「……ごめん」

「どうして謝るんだよ。これは、僕がしたくてしたことだ。僕が、望んだことだ」

「でも、私が居なければ君はこんなことに巻き込まれなかった! 私が君の下を訪れなければ、君は人を殺さずに済んだ!」

 縋るように、香深は僕に寄り掛かる。彼女の体温と存在による重みは、冬の夜空の下ではっきりと感じることが出来た。

 馬鹿馬鹿しいことかもしれないけれど、僕はこのためにここまで来たのだ。人を傷付け、殺したのだ。身体の中にあるのは、悔悛ではなく充足だけだった。

「この場所に来たことも、人を殺したことも、全部僕の選択だ。その選択の責任を奪うのは、君でも出来ないし、許さない」

 殺人の感触は、光景は、世界が終わるまで僕の身体から染み付いて離れることはないのだろう。しかしそれは他人の命を奪ってしまった人間の、責務だ。罪は贖われるものでも償うものでもなく、背負い生きていくほかにない。他の何のために他者に寄り掛かってもこれだけは、僕が抱え続けなければいけないことなのだ。

 例えそれが直視し難い醜悪な罪であったとしても、僕は僕を否定してはいけない。そうしなければ、僕の中に唯一残った自分すらも、見捨てることになってしまうのだろうから。

「……それに、僕は君が居なければ、何もなかったんだ。こんなに傷だらけになることはなかったかもしれない。人を殺すこともなかったんだろう。でも、それでもこれで良かったんだと僕は言える。君と居られることが他にはない、幸せだったんだ」

 どこまでも個人的で小規模な、それこそが僕の生きる意味だったのだ。

 縋るように、彼女は僕を抱き締めた。僕も、彼女を抱き締める。拳銃を持った手で、罪という名の返り血がべったりと付いた手で、彼女を支える。

 このまま世界が終わってしまえばいいと思った。何もかもが終わる中で、ひとつの影になった僕たちが化石のように残ってしまえばどれほど良いだろうかと願った。

 永遠のような時の中で、僕は彼女の体温を感じている。人間は、どこまでいっても他人を理解することは出来ない。ゆえに、拒絶をすることは用意で、その存在すらも疑うことが出来る。

 しかし、僕の腕の中にあるこの温度は何よりも確かなものだった。誰に奪われることもない、僕が望んでいたものだった。

 何者かの足音を聞いて、まだ世界が続いていることを思い出す。僕たちは二人になり、その足音の方向へと向いた。離れないように、手だけは繋いだままで。

 屋上の縁。死の際に、香深の母親は立っていた。その目は憎悪と寂しさで満ち溢れた、射殺すように鋭いものだった。

「どうして――どうして、貴方たちは救いを拒むの。死にたくなんてないでしょう」

「死にたくないよ」

 自らの母親を見つめながら、目を逸らさず彼女は言う。

 日曜日の動物園を思い出した。あの時彼女は、死ぬことが出来ないでいるだけなのだと言っていた。死を迎合しない代わりに、死を厭うこともなかった。だからこそ、呪いのように纏わりついていた死への決別を口にした彼女の言葉は冬の陽射しのような温かさを僕の心の中に差し込ませる。

「だから、私は飛び降りない。単純で簡単な結論でしょ」

「あなたはっ!」

 荒げた声は痛々しく響く。それは強さがゆえの叫びではなく、脆さがゆえの悲鳴だった。

「何も分かってない! このままいけば、世界は終わるのよ! みんな死ぬのよ! だから新世界に行くの! そうすれば、生き延びることが出来るんだから!」

 ヒステリックな声が夜空に反響する。彼女は対照的に静かにその言葉を受け取った。

「新世界はあるのかもしれない。そこから飛び降りれば、世界の終わりから逃れられるかもしれない」

「なら――」

「でも、ここに居る私が死ぬことは確かなことでしょ。コンクリートに打ち付けられて、精神も肉体も、死んで、失われてしまう。私は、この世界が好きなんだ。ありふれた日々があって、蓮見君が隣に居る。それだけの日常を、私は幸福だと言える。愛することが出来る。例え世界が終わるとしても、私はこの場所に居続けたい。愛したものの終わりを、見届けたいよ」

 手を握る強さが強くなる。僕はその手を、強く握り返す。互いの存在を証明するように。何があっても離れないように。

 それを聞いて彼女の母が浮かべた表情は、子供がサンタクロースの正体を知ってしまったような、あまりにもあどけない裏切られた者の表情だった。

「そう、そうなのね。あなたも、私を見捨てるんだ」

 おぼつかない足取りで、彼女は柵を乗り越える。咄嗟に駆けだそうとしたところで、香深の手が僕を引き留めた。

 どうして、という問いが生まれるのと殆ど同時に、引き裂くような哄笑が聞こえる。そうして、香深の母親は生きたままでいる僕たちを惨めだと嘲笑うようにして、飛び降りていった。新世界へと、飛び立っていった。

 何かが破裂するような、階下から聞こえる。それは、ひとつの命がどうしようもなく失われてしまった、哀しい音だった。

「いいの」と香深は思い出すように呟く。

「それがあの人の幸せなら、私に止める権利はない。最後くらい、自由にさせてあげるべきだったんだ」

 乾いた言葉を吐いた彼女の手は、しかし微かに震えていた。どれほど裏切られていたとしても、吐き捨てるような言葉をかけられたとしても。長らく時間を共有し続けた不可分的な人が死んでいく姿に何も思わないほど、人は強くない。

「……大丈夫か?」

「どうなんだろう。よく、分からないんだ。しがらみがなくなったような気もするし、呪いをかけられたような気もする。多分、これからゆっくりと時間をかけて、整理されていくことなんだと思う」

 その時間は、果たしてあるのだろうか。振り切ってでも、止めるべきだったのではなかったのだろうか。

 そう思っていると、香深は冬の陽、空に掛かった薄明のように笑う。

「これは、私が背負うべきことなんだよ。こうするよりほかになかったから、死ぬまで背負いながら生きていくことなんだ。だから、大丈夫」

 確信を持った言い方を、僕は否定をすることは出来ない。それが彼女の選択ならば、僕が踏み躙るべきではないのだ。

 全てが終わった場所を、僕たちは後にするために歩き始める。手を繋いだまま、何も言わずに。それは話すことが出来ないからではなく、話す必要がないからこそ表出した沈黙だった。この場所で行うべきことは、語るべきことは、もう何も残っていないのだろうから。

 信仰の残党は、ある者は打ちひしがれ、ある者は香深の母に続くように身を投げる。背後からは命が壊れていく音がまばらに聞こえ、遠くからはサイレンの音がする。

 ひとつの死体と歪んだ救いの残骸を背にして、僕たちは屋上を出た。あれほど長く、永遠に思えた階段は終わってしまえば短く感じる。落ち着いたせいか、じくじくとした痛みがその存在を主張し始め、自分の身体がどれほど酷い扱いを受けていたのかが分かる。よくもここまで辿り着くことが出来たものだ。

 ここまで来ることが出来れば。香深を救うことが出来れば、それで終わってしまってもいいのだと思っていた。ばらばらになって、死んでしまっても、それこそが僕にとっての納得のいく終わり方なのだと思うことが出来た。

 けれど、望みは海水に似ている。一度口にしてしまえば、渇くことはなく次を求めてしまう。僕は、今手にある温度を手放したくない。世界が終わるまで、彼女の隣に居ていたい。

 だから、すぐそこにある終わりまででいい。頼むから、このままでいてくれ。どれほどの痛みが積み重なってもいいから、僕は彼女と共に世界の最後を見ていたいのだ。

 幾つもの足音が、一階の方から聞こえてくる。サイレンが聞こえたところからするに、警察か救急の人間だろう。どうするべきだろうか。残り僅かな時間を、最早意味のない事務的なやり取りのために浪費したくない。

 その音が僕たちへと接触をするよりも先に香深が手を引いて、階段から離れていく。廊下を進んだ先には非常階段があり、その先はひと気のないビルの裏手へと繋がっていた。今にも崩れ落ちそうな、腐りかけの階段を僕たちは下っていく。古びたそれはあらゆる物事に疲弊した人間の吐く溜め息のような、軋んだ音を立てた。

「これから、どうするの?」

 香深が尋ねる。その問いは、つまりこれからも僕と共に居てくれることを証明しているようで、恥ずかしいくらいにどうしようもなく嬉しかった。

 僕はやはり、恋をしているのだろうと自覚する。だからこそ、彼女の言葉の意味は、僕が勝手に見出しただけの自惚れに過ぎないのではないかと恐れる。僕の言葉を無下にされてしまえば、どうしようかと言葉に歯止めがかかる。

 あの頃の僕が好きだと言えなかったのは、今と同じ感情がゆえだったのだろうかと考える。無意味さを嫌厭した末の諦観ではなくて、足掻いた末に壊されてしまうことを恐れた、臆病さだったのかもしれない。

 今でも、その感情は変わらない。拒絶をされることは恐ろしいままで、一歩踏み出してしまえばどうしようもなく壊れてしまうかもしれない。最後に掴みかけたそれを、永遠の中に失ってしまうかもしれない。ならば、いっそ何もせずに、思い出の中の写真立てに美しいまま飾っておくことは、悪いことではないのだろう。

 けれど。失ってしまうかもしれなくても、僕は手を伸ばす。そうしなければ、僕の中の恋は失われることすらも出来ないのだから。今度こそ、終わらせるために。

 三階と二階を繋ぐ踊り場で、僕は立ち止まった。彼女は静かに僕の言葉を待つ。口の中の乾きと全身を巡る痛みを誤魔化すように、彼女と繋いでいない方の手を握った。

「僕は君が、好きだ。だから、世界が終わるまで一緒に居てくれないか」

 他人に真っすぐと向けた好きだと告げたことは、初めてだった。

 もっと気の利いた言い回しがあったのかもしれない。好きだという言葉が伝えられることには限界があって、僕が本当に抱いている感情の全てを表すことは出来なかった。単純な言葉に想いを込めてしまうことは、幾多もの想いを削ぎ、殺してしまうことと相違ない。

 それでも、僕には好きだとしか言うことが出来なかった。どれほどの言葉を尽くしても僕の本当の気持ちを表すことは出来ないのだから、ならばと僕は必要以上の言葉を弄することを止めた。きっと、それは僕の仕草や、目線や、今まで積み上げて来た僕たちの過去が表しているのだろうから。

 目が合う。答えを待つまでのこの時間は苦しみであるとともに、僕たちが今までの形で居ることの出来る最後の時間で、終わらないでくれと思う。そんな願いに意味がないことも、それが本当に僕の望んでいることではないことも、分かっているけれど。

「昨日の夜、攫われてから。真っ暗な車に揺られる中で、何もない部屋に閉じ込められている中で、ずっと考えていたんだ。もし君が死んじゃっていたら、もう会うことが出来なかったらって」

 彼女は自らの気持ちを解くようにゆっくりと語り始める。昨日の夜のことを思い出す。絶望の底に沈められた、あの出来事はやけに古い出来事のように感じられた。

「心の中に小さな穴が開いた気がしたんだ。それは段々見つめるほどに暗くて深いことが分かって、気が付いたら埋めることも出来ないほどに大きくなってた」

 だから、と彼女は言う。苦し気に、ずっと彼女の中で蟠っていたものをゆっくりと解いていくように。

「君はこんな場所に来るべきじゃなかったのに、屋上のドアを開けた君を見て、どうしようもなく嬉しかったの。誰かが助けに来てくれたことじゃなくて、君が来てくれたことが本当に、本当に嬉しかったんだ」

 彼女の頬を、雪が落ちるように静かに涙が伝った。それは僕が見た中で最も美しい感情の発露だった。

「私も、君と居たい。君と、離れたくないよ」

 彼女の指が、僕の指と絡まる。温かな疼痛が心に走る。

 恋の勝ち負けは、納得が出来たか否かで決まるのだろう。それでも、恋が叶うほどに嬉しいことがないこともまた事実だった。

 絡まった手で何かを祈るように、彼女は絞り出すように口を開く。

「ねえ、蓮見君。この感情を、恋って呼んでもいいのかな」

 その言葉を聞いて、ようやく分かった気がした。彼女が恋をすることが出来なかったのは、人間的欠陥のせいではない。感情らしいものがなかったからではない。

 彼女は、清廉過ぎたのだ。言葉がどれほど暴力的なものであるかを知っていて、ゆえに自らの内側にある形のないものに名前を付けることが出来なかったのだ。

「……分からないよ。僕は、君じゃない。君の感情をどう呼べばいいのかは、僕が分かることでも、決められることでもない」

 簡単にそれが恋なのだと言うことは、出来なかった。彼女の清廉な懊悩は多くの人間が倦怠の末に捨て去ってしまったものだ。それを抱えていることは苦しいことだろうけれど、でも美しいことでもある。僕のエゴで、彼女の考えを否定したくはなかった。

 しかし、突き放すような言葉は拒絶を意味したかったのではなかった。僕は彼女の感情を大切にしたかったのだ。言語によって粉飾された彼女ではなく、ありのままの彼女と向き合いたかったのだ。

「でも、名前なんて、どうでもいいんじゃないか。嬉しい時に笑うように、哀しい時に泣くように。その感情のままに動けばいいんだよ。それが、僕たちのあるべき形なんだろうから。僕たちは、僕たちにしかない感情を交換して、僕たちにしかない関係を作ればいいんだ」

 剥き出しの感情を認め、愛すること。それこそが、きっと。

 ドアが開いた音がした。上の階にある、非常階段へと繋がるドアが開かれたようだった。どうするべきかという逡巡を、僕の手を引っ張る彼女が掻き消す。

「逃げようよ、出来るだけ遠くまで」

 この世界に逃げ場はないことを、彼女は知っている。世界の終わりはもうすぐそこまで来ていて、僕たちは世界とともに死んでいくほかに道はない。

 それでも、彼女は逃げようと言ったのだ。一緒に行き詰るために。最後まで、隣に居るために。

 引かれた手を追い越して、僕たちは並んで階段を降りていく。上から、誰かの声が聞こえた。それを振り切るように加速して、一気に地面へと駆けていく。

 傷だらけの身体を引き摺ったせいで、転びそうになる。その度に彼女は僕を支えながら、進んで行く。逃げていく。

 どこまでも行ける気がした。月までも、新世界までも、僕たちなら到達することが出来る気がした。けれど、僕たちが愛した世界はこの場所だから、地に足を付けて走る。

 手の中にある確かな温度を感じながら。星と月の浮かぶ夜空を見上げながら。僕の世界は、終わりへと近付くごとに美しさを増しているようだと、そう思った。

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