春の消息

 変貌した日常に、僕たちは順応していく。生活にはリズムが生まれ、香深由良が居るという状況はいつしか平静の中へと溶け込んでいく。

 しかし、恋をすることは出来ていないままだった。かつての関係に戻りつつはあるのだろう。三年の空白があろうとも、殆ど常に時間を共有しているという密度はそうした空白を埋めていく。

 だからこそ、分かってしまう。あの頃の繰り返しをしたところで意味なんてないのだということを。このまま、過去をなぞり続けるだけではまた同じように、限りなく近づいた平行線のようにしかなることは出来ない。

 新しく手にした安定は、必要なものなのだろうか。恋という激情を生むのであれば、緩やかな日常の繰り返しは残り少ない時間の浪費に過ぎないのではないだろうか。

 けれど、それは日常を手にしているからこそ考えることの出来た、角砂糖のように甘い思考なのだということを、僕は知る。全てが取り返しのつかないほど壊れてしまった後で。

 始まりは家の中に響いた無機質なコール音だった。

 最初、それがこの家に住まう人間を呼び立てるものであるということに気付くことが出来なかった。記憶にある限りでは父が死んでからは一度も、その鳴ることはなかったのだから。その音に不快感を覚えて、ようやくそれがこの家に付けられた固定電話のコール音であるということに思い至る。

「電話、大丈夫?」と香深が僕に聞いた。

「ああ、今から出る」

 連絡が来たのだから対応をする、という何となくの行動に従うがままそう言って立ち上がったけれど、この家に電話をかけて来るような人間を想像することは出来ないままでいた。最も可能性として考えることが出来そうなものは、父の知り合いだろうか。しかし、ならば何故、終末を知らされた時でも、父が死んだ時でもなく今更なのかが分からない。

 焦るなくゆっくりと向かっても尚、その音は執拗に鳴り続けた。その異質さを、僕は感じ取るべきだったのかもしれない。しかし、幸いなことに、あるいは不幸なことに、僕には危険に接触をしたことがなかった。そうして、僕は考えることもなく、受話器を取る。

「はい、蓮見です」

『突然の連絡申し訳ございません。私、香深由良の母なんですが』

 想像をすることなど出来るはずもなかった答えに、言葉が詰まる。香深の母親? 何の用で、電話をか掛けてきたのだろうか。僕は何とか声がおかしくならないよう保ちながら尋ねる。

「……それで、何の用ですか?」

 咄嗟に出た問いかけは間抜けなほど素朴だったけれど、余計なことを言わずに済んだとも捉えることが出来る。

『由良がそちらにお世話になってると聞いたんですが』

 この人は何かの間違いや偶然ではなく、彼女がこの家に居ることを知っている。どうして、ここに香深が居るということを知っているのだろうか。事前に親に伝えたうえで出掛けたのだろうか。しかし、考える間でもなく、「昔知り合いだった男の子に恋をするために出て行きます」なんて馬鹿げた宣誓を親にするはずがない。

 不気味さが背骨を走る。自分が今触れているものは危うい、不安定な何かなのだということを知る。

「さあ、知りません」

 咄嗟に出た言葉はシンプルな嘘だった。相手の意図が分からない以上、例え香深の血縁であったとしても本当のことを言うつもりにはなれない。彼女の人生は、血に支配されるようなものではない、個人的なものなのだから。

「三年くらい前、中学生の頃由良さんと親しくさせて貰っていたことは確かですけど、それから連絡を取ったようなことはないです」

 全てを嘘で誤魔化すことは不可能だから、真実を織り交ぜて話をする。どのようにこの家に香深が居るかもしれないという情報を手にしたかは分からないが、僕と香深がどのような関係だったかを知っているなら、全てを嘘で塗り固めて隠そうとするのは逆に悪手だ。

 受話器の向こうからは沈黙が響いた。否定をされると思っていなかったのか、何を言うべきか考えているのだろう。

『時間が、ないの』

 ようやく絞り出された声は、先に感じた不気味さとは対照的な切実なもので、思わず戸惑う。

「時間がないって、どういうことですか?」

『世界が終わる前に、早くしないといけない。だから、お願い。由良を返して』

 返してくださいとは、酷い言われようだ。そもそも、香深がここに居るのは彼女が望んだことで、むしろ押しかけられたような立場だというのに。

 しかし、僕には何が正しいのかを判断することが出来なかった。それには、あまりにも情報が足りていなさすぎる。何を問うべきか、何を話すべきかを考えていると、電話越しの女性は話を続ける。

『貴方、由良とはどういった関係なのかしら』

「どういったって――」

 上手く、言葉にすることが出来なかった。クラスメイトに質問をされた時のように、恋人であるとあっさりと言ってしまえれば良かったのかもしれないけれど、女性の質問に対してそう答えることは相応しくないような気がした。今聞かれているのはそうした形式的で表象的な関係ではなくて、もっと本質的なものなのだろうから。

 僕の沈黙をどう受け取ったのか、女性は急いで言葉を継ぐ。

『そうよ、由良だけじゃないわ。まだ間に合うのだから貴方も一緒に行けばいいのよ。定員は閉め切ってるかもしれないけど、そこは大丈夫。私たちが頼んでおいてあげるから。そうしましょう』

「行くって、どこにです」

『新世界によ』

 何かの通称か、それともそのような場所があるのか。定員とは何か、誰に何を頼むのか。思考をする以前に理解をすることが出来ていないままで、焦ったような言葉は続いていく。

『貴方だって、このまま死ぬのは嫌でしょう。隕石が地球に落ちてくることは、どうしようもないわ。どうやっても止めることなんて出来ない。でも、世界が終わるよりも先に、魂が滅びてしまうよりも先に新世界へと行けば助かることが出来るのよ』

「は? 魂?」

『聞いたことくらいはあるでしょう、霊魂不滅って。でも、どの魂も不滅というわけではないのよ。正しい道へと進まない限りには、甦ることなんて出来ない。だから、教示を受けて、新世界へと正しく飛び立つ方法を知らなければいけないの。もう箱舟の定員はいっぱいだとカガリ様は言っていたけれど、由良と貴方を入れることくらいはなんとか出来ると思う。だから――』

 それ以上聞いてしまえば僕の中身までもが腐敗してしまうような気がして、受話器を置いた。憂鬱と吐き気を逃がすように、溜息を漏らし、壁に寄り掛かる。殆ど聞いているばかりだったのに、倦怠が身体の中を充満しているような気がした。

 箱舟という言葉を見たことがあったような気がして記憶の中を掻きまわしていると、暫くした後で学校に貼られていた貼り紙を思い出した。箱舟による終末からの救済、なんていう聖書のエピゴーネンはどうやら思っていたよりも流行っているらしい。

 必要以上に彼女の過去に立ち入るべきではないと思っていた。

 日曜日の動物園の中で垣間見た彼女の中にあるものは気安く他人が立ち入るべきではないものだった。信頼をし合った関係であるならば、恋人であるならば、そうした部分にも踏み入るべきなのかもしれない。けれど、人間の中には例えどのような関係であったとしても決して他人を入れることが出来ないという領域が存在している。一度踏み入られてしまえば、知られてしまえば、不可逆的に大切なものがばらばらになってしまうような、禁足地がある。彼女自身にそれを伝える気がないのであれば、僕から掘り起こす必要はなかった。

 それに、どうせ三十日しかなかったのだ。目を逸らしたまま、やり過ごすことが出来ると思っていた。そう、思いたかった。けれど、現実はあまりにも速く、僕たちに追いつく。

 そもそも、あの女性は本当に香深の母親なのだろうか。あくまでも、名乗っただけで証明をすることは出来ていないままだ。けれど、そんな逃避に意味がないことは分かっている。そんな嘘を吐いて何になると言うのだ。新世界を目指すあの宗教者は、香深由良の母親なのだろう。

 中学生だった頃、僕たちの関係は二人だけで完結をしていた、極めて小さなものだった。だから、彼女が僕の両親を見たことがないように、僕も彼女の両親を見たことがなかった。どのような人々に育てられ、どのような環境に居たのか、知らなかった。あるいは、僕も彼女も無意識のうちにそうした話題になることを避けていたのかもしれない。必要以上に知ろうとすることは、安定した現状を壊すことに相違なかったのだから。

 言うべきなのだろうか、という懊悩が生まれる。このまま何も知らずに、新たな日常の中で世界の終わりを迎えるべきなのではないか。それこそが、香深由良という一人の少女のためになるのではないか。

 しかし、誤魔化すことは出来なかった。最後だからこそ、あらゆる選択は彼女の元に行われるべきだろう。目を逸らしても、逃げても良い。けれど、そうした結果に至るまでの選択は、他者がするべきではなく、彼女の中で行われるべきなのだ。

 リビングに戻ると、何も知らない香深は日常の中に僕を見た。その安寧を壊すことに、躊躇いを覚える。それでも、言わなければならない。

「誰からだったの?」

「君の母親からだったよ」

 その言葉を聞いて、香深の顔から、分かりやすく色彩が引いて行った。それが、全ての答えを示している。

 彼女は感情を無理に抑えつけるように、そして言うべき言葉を探すように口を結ぶ。視線はフローリングを見つめ、祈るように、手は握られた。その時間は、永遠のように感じられた。空気が濁り、重たくなったように錯覚する。それほどまでに、苦痛を噛み締める彼女の姿は痛々しいものだった。

「何で、ここに居るって分かったんだろう」

 静寂を破った言葉は呪詛や悔悛ではなく、あくまでも実務的な問いだった。香深らしいと安堵をすればいいのか、このような状況に至っても感情を吐露することが出来ないことを厭えばいいのか、分からない。

「君が何か、ここに繋がるものを残した、とか」

「有り得ない。蓮見君のことを話したことはないし、残したものだって何もないのに」

 香深の言葉の端には剥き出しの憎悪があった。哀切や厭世を見せたことはあっても、こうしたどす黒い感情を見せたことは今までなくて、親という存在が、宗教という概念が、どれほど彼女にとって深く根付いた呪いなのかということを如実に表していた。

 彼女は小さく「ごめん」と呟く。どうして謝られているのか分からないままで、その謝罪はむしろべったりとした嫌な感触を僕の中に縫い付ける。

「気持ち悪いこと言われたでしょ」

「気持ち悪いことって?」

「救いがどうとか、箱舟がどうとか。そういうこと」

「まあ、言われたよ」

 所在を聞かれただけだと誤魔化すことに意味はなかった。無為な他人を韜晦は傷付けるだけだ。

「気にしないでって言っても難しいだろうけど、せめて気に病まないで。おかしくなってるだけだからさ」

 軽蔑を吐き出すことに躊躇いの色は見えなかった。彼女は、どうしようもないくらい彼女の母親を突き放しているのだ。

 汚れた手を厭うように、香深は左の手首を握る。僕は少し考えた後で、彼女の正面の席に腰を下ろした。話をしなければならない。少しでも知ってしまったのならば、もう目を逸らすことは出来ないのだから。

「何があったんだ」

 その問いはあまりにも茫洋としていて、ぼやけたものだった。けれど、その一言で決壊をしたように、彼女は凪いだ目をした。その瞳は、屋上の縁に立った人間のような黒をしていた。

「……私が引っ越した理由って、話してたっけ」

「聞いてないな」

 本当は聞いていて、そのうえで忘れてしまったのかもしれない。しかし、今の僕の中にその記憶がないという結果は同じで、迂遠な説明は避ける。時として、誠実さは自己満足に過ぎず、時間を浪費するだけである場合がある。

「父と母が離婚して、母の実家に行くことになったんだ。それからだった。母がおかしくなり始めたのは。それとも、元からおかしかったのかな。だから、離婚したのかもしれない」

 リビングに満ちた藍色を嚥下するようにして、彼女は唾を飲み込む。気になっていなかった部屋の寒さが、いやに肌を刺した。

「不安定になってることが傍目にも分かった。ヒステリックになることが増えて、自棄的な生き方をするようになった。空っぽになったから、守るべきものがなくなったから、滅茶苦茶に生きるようになったんだと今になれば思う。でも、それだけだった。良くも悪くも空っぽだったからさ、何かにのめり込むようなこともなかったんだ。のめり込むようなものにすら関わることが出来なかったんだよ」

 空虚な人間の倦怠は、生々しく皮膚の下に再現される。何もないのは僕も同じだったから、香深が軽蔑している人間のことが、理解出来てしまう。何もない人間は、陰鬱の倦怠に身を蝕まれる。何かを得たいのだと希っても、手を伸ばすことすらも出来ない。何も、することが出来ない。

「私は、どうでも良かった。元から母とは仲が良かったわけでもないし、私は私の生活を続けることが出来たから。薄情だと思われるかもしれないけど、興味がなかったんだ。でも、それが変わったのは、終わったのは、世界が終わることが決まってからだった」

 世界の終わり。全てが変わった日。僕の見えない場所で、日常の裏側で、何もかもが凌辱され、殺戮された日。香深の母は、そして香深は、その日から変わることになってしまったのだ。

「ある時から箱舟の話をするようになったの。世界が終わる前にそれに乗り込めば、救われることが出来るって。普段は家に籠ってばかりだったのに、集会なんかにも行くようになって。私にも熱心に信仰を説き始めたんだ。魂とか新世界とか、そういう話されたでしょ?」

「ああ、されたな」

「元々、宗教なんて信じる人じゃなかったんだ。それなのにああやって嵌っていったのは、世界が終わるからだったんだろうね。今まで当たり前で、いつまでも続くと思ってたものが崩れ去ったから、信じることが出来るものが何もなくなったんだ。それでありもしないものに縋るなんて、馬鹿だけどさ」

 ありもしないものだから縋りたくなってしまったのかもしれない。現実に裏切られたから、形のないものならば裏切らないから、信仰に縋ったのかもしれない。

 信仰の正しさを、僕は知らない。科学に証明をされていないだけで、僕が出会ったことがないだけで、完全な否定をすることなど出来ないのだろう。箱舟による救済も、ともすれば本当のことなのかもしれない。

 ただひとつ確かなことは、信仰を理解することが出来ない傍観者からすれば、敬虔な信仰と清廉な発狂に違いはないということだった。僕が戸惑い、それ以上聞くことを拒絶したように、香深もまた、自らの母を拒絶した。自らの母だからこそ、なのかもしれない。身近な人間が変貌し、許容することの出来ない姿へと変わっていくことほど耐え難いものはない。

「最初は適当に誤魔化して逃げてたんだけど、終わりが近付く度にどんどん必死になって、勧誘も強引なものになって。だから、逃げ出したんだ」

「つまり、恋をしたいっていう話は、全部嘘だったってことか?」

「それは違う!」

 やめてくれ、と思う。そんな縋るような目をしないでくれ。僕は、その重みに耐えられない。自分を保つことでも精一杯なのに、一方的に寄り掛かられるだけでは、共倒れをするだけになってしまう。

 それに、僕は責めたいわけではなかった。この場所が彼女のためになるのであれば、僕の存在が彼女の逃亡を助けることが出来るなら、それもまた僕の意義を証明している。形は違えども、僕の目的は果たされている。

 けれど、彼女は強く、激しく否定をした。

「家を出ようと思ったきっかけは、確かに母から離れたいだけだった。でも、恋をしたいのも、知りたいことも本当のことなんだよ。母のことは、隠してた。けど、嘘を吐くようなことはしてない」

 懐疑に果てはない。科学によって証明された因果関係も、明日もまた日は昇るのだという日常的必然も、現存在ですらも、否定をすることが出来る。それが、一度隠し事をされた、他者という絶対的に理解をすることが出来ない存在であれば尚更に、疑うことが出来るだろう。

 しかし、僕には出来なかった。それは思考の放棄でも楽観的観測でもない。香深が哀しみが募った海底のような、目をしていたから。それだけの理由だった。

 昔から、彼女は大切な時に哀しみを背負う。だからこそ、僕へと向けるその眼差しが、嘘ではないのだと語っている。それは、あまりにも報われない真実の証明だった。

「分かった。なら、これまで通りに恋をしよう。それが叶うかは、分からないけどさ」

「……ありがとう」

 僕の言葉で、香深には目に分かるほどの安堵が浮かぶ。それがなんだかこそばゆくて、目を逸らした。

「これから、どうしようか。否定はしたけど、恐らくは君が僕と一緒に居ることは気付かれてる。話し合いでもするか?」

「話しても意味はないよ。あの人はもう、私とは違う世界を見てる。同じ言葉を使っても、理解なんて出来ない。交わらない、空虚な会話が続くだけに決まってる」

 ひどく淡々とした、乾いた言葉だった。憎しみはあるけれど、それももう少ない。冷たさすらも感じない、温度のない言葉は彼女が自らの母親を見放していることを表していた。

「私、今の生活が好きなんだ。君と一緒に暮らして、学校に行く。特別なことなんてない、それだけのことだけど、でも特別じゃない日常を愛せることって幸せなことだと思うから。私は世界が終わるまで、このままで居たいよ」

 今ある、この日常に対する温かな肯定は、喜びを生むと共に寂しさを生んだ。母親に対する、真空性の言葉との差があまりにも残酷なものだったから。

 意識的に他人を蔑ろにすることが出来るのならば、構わない。嫌いな人間を拒絶し、否定しなければ自らを保つことが出来なくなる時はあるのだから。けれど、香深由良という人間の本質にそうした冷酷さはなかった。そうした人間にとっての残酷さは自らも傷つけることになる。傷口から溢れた悲哀は、腐敗した夜空のような黒をしている。

 僕に出来ることは限られている。哀しみを嫌うことは出来ても、哀しみを世界から排斥することは出来ない。

 出来ることは、これ以上哀しみを拡大させないようにすることだけだ。哀しみを消すなんていう奇蹟は起こせないのだから、祈ることは止めて行動を起こすよりほかは、ない。

「なら、このままの生活を続けよう。終わりまで、恋をするために生きよう」

 彼女が何に裏切られたとしても、僕だけでも隣に居ることが出来るように。

 しかし、僕の意志や願いとは別に世界は進んで行く。一度罅の入った日常は絶え間なく崩れていく。

 何を言うべきだったのか。何をするべきだったのか。何が、正解だったのか。全ては現実という黒く暗い虚へと投げ込まれて、後に残るのは悔悛だけだった。


      *


「蓮見廉さんですか」

 一人で歩いている最中、その声が僕を呼び留める。ざらりとした感触が内臓を撫でた。一度しか、それも電話越しでしか聞いていない声のはずなのに、誰なのかを理解出来てしまう。

「なんですか」

 逃げても仕方のないことは分かっていて振り返ると、そこには小綺麗な女性が立っている。香深から聞いていた話から想像をしていたイメージはもっと人生に疲れたような印象があり、毅然とした女性の姿は意外なものだった。

「先日電話した、香深由良の母です。少しお時間はあるかしら」

「……ありますよ」

 誤魔化し、嘘を吐いても意味がないのならば、腹を括ってしまった方が良い。無為に立ち尽くすくらいならば、自ら踏み込んで少しでも何かを得た方がマシだ。

「なら適当な場所に入って話しましょう」

 そう言って、香深の母は歩き始める。僕が付いて来ることはさも当然のことと言うように、振り返ることもないままで。

 認めたくはないことだけれども、女性の顔や後姿は、やはり香深のそれと似ていた。そこには、逃れることの出来ない血の繋がりが存在していることを表していて、思考の中を疼痛が走る。家族の繋がりという言葉は往々にして美化され語られるが、ある種の人間にとってそれは呪いでしかない。香深がもし再びこの女性と出会ったなら、何を言うのだろうか。どのような表情をするのだろうか。

 何も起こらないままで終わってくれと願う。母親という人に対して願うとしては惨いことなのかもしれないけれど、僕はこの人のことなど知ったことではない。ただ、今ある平穏を守りたいのだ。

 沈黙を携えながら歩いて行くさまは、荘厳さと緊張が入り混じり、罪人が処刑人に曳かれていく姿のようだった。どちらが罪人で、どちらが処刑人なのか。あるいは、二人とも罪人なのかもしれない。

 辿り着いたのは処刑場ではなく、ありふれたファミレスだった。終末であろうとも、こうしたチェーン店の多くは営業を続けている。世界が終わる中でもバイトに勤しもうとする者は居ないのか、店員の数が減ったことは確かだけれども、訪れる人の数も減ったため問題はないようだった。

 僕たちは席に着き、二人してドリンクバーを注文する。けれど、席を立つ気配はなく、ただ向かい合い、沈黙を噛み締めていた。

「どうして貴方がここに居るんですか」

 先に口を開いたのは僕だった。この人との間に存在する沈黙はいやにべたついていて、その中に居続けることに耐えられなかった。

「カガリ様はこちらにいらっしゃるから、そのためよ。私の居た支部でも、箱舟は迎えに来るとおっしゃっていたけど、やはりカガリ様を実際に近くで拝みたいという人は私も含めて少なくないわ」

 ああ、と失望の声が漏れた。嘘でもいい、家を出た娘に会いに来たのだと、真っ先に言って欲しかった。今更そう言ったところで過去は何も変わらない。世界が終わるまで、もう残り少ない中で香深が母親を許すことはないだろう。けれど、慰めに過ぎないのだとしても、言って欲しかったのだ。そうすれば僕は、この人を恨まずに済んだ。

「ねえ、電話でも話したけど、香深と一緒に貴方も来ないかしら。今からでもそう遅くはないわ。きっと、カガリ様は受け入れてくださる。世界の終わりから、逃れることが出来る」

「本気で言ってるんですか、それ」

 気付けば自分でも驚くほどに冷たい声が出ていた。そして、それに自覚的になったとしても後悔をしていない自分が恐ろしかった。

 同じようなことを言われ慣れているのか、香深の母はさして気にする様子もなく話を続ける。

「本気に決まっているでしょう。冗談でこんなことは言わないわ」

「なら今一度考えるべきです。魂だの箱舟だの新世界だの、何を根拠にそんなくだらない妄想を信じてるんですか。子供がお伽噺を信じてることと何も変わらない」

「根拠は幾つもあるけれど、それを並べたところで貴方は納得しないでしょう?」

 口惜しいけれど、それは真実だった。神の証明として、信徒は往々に奇蹟を挙げるけれど、そんなものは単なる偶然に過ぎない。しかし、これは見方の問題に過ぎない。神を信じる者からすれば奇蹟であり、そうでないものからすれば偶然と解釈される。そこに正解はなく、両者が交わることはない。

「だから尋ねたいのだけど、貴方はどうしてそこまで根拠、言い換えれば論理性や因果に執着するの?」

「逆に、どうしてそれに執着をしようとしないのかが、僕には理解が出来ませんよ。そうした見方を捨てた先には現実と空想の区別がつかなくなる、狂気しか存在しません」

「なら、貴方はどうして論理性や因果を正しいと言い切ることが出来るのかしら。科学が証明しているから? その科学の根拠は一体どこにあるの? 貴方たちは、信仰を子供じみた妄想だと非難するけど、科学を無条件で信頼している貴方たちこそ科学を狂信しているんじゃないの?」

「馬鹿じゃないのか、あんた」

 僕は吐き捨てるように言う。人ひとり殺すことが出来そうなほど怒りと憎しみの籠った声を、けれど僕は止める気がなかった。

 先ほどのように、自分を恐れることもない。僕は意識的に、暴力的な敵意を言葉という弾丸に込めて撃ち込む。

「突き詰めて考えれば、確かに科学もまた信仰のひとつと言えるのかもしれませんね。ピタゴラスの定理もアインシュタインの理論も、あんたたちはきっと「それも神様の思し召し」だとか適当なことを言って偶然とでも否定をするんでしょう。そこに信じることが出来るものなんてないと。でも、その理屈が自分たちの首も絞めてるってことに気付いてますか? 懐疑主義を徹底すれば、論理で成り立った科学すらも否定は出来ます。ですが、そうして確かなものを何もかも滅茶苦茶に破壊された後で何が残るんですか? 何を信じられるんですか? 神様とやらだと言うのなら、その神様を信じるべき根拠はなんですか? 科学を信仰にすり替えて不確かなものにしようとしてるのは、あんたたち自身がそれを不確かなものだと気付いてるからだ。だから、何もかもを壊して、自分たちの掲げる正義の脆弱さを誤魔化そうとしてるだけだ。そんな理屈に意味なんてありませんよ」

 自分でも正しいことを言うことが出来ているのかは分からない。意識的に言葉を組み立てるよりも先に、言葉は奔流のように吐き出される。そこには論理も倫理も謙虚さも気遣いも、何もなかった。ただ、僕の熱があるだけだ。

 けれど、彼女の瞳は凪いだまま動かなかった。それを見て、僕はようやく香深の言葉を、実感を持って受け入れる。もうこの人は、僕とは違う世界を見ているのだ。異なる言語を使っているのだ。何を言っても、どんな武器を用いても、きっとこの人は信仰を捨てない。他のあらゆる可能性を拒絶する。

 理解をしているつもりだった。しかし、現実として自分の言葉が意味を持たないものだと痛感をして思う。千百の言葉を尽くしても、僕よりも賢く素晴らしい人間が説き伏せようとしても、意味なんてないのだ。

 物事にはそれが収まるべき場所というものがあって、言葉というコミュニケーションのためのツールは、他人へと届くことこそがあるべき終点だった。例え反駁されたとしても、否定をされたとしても、相手に届けることに意味があるのだ。

 けれど、僕の言葉は届いてすらもいない。信仰とい堅牢な城壁を越えることは、出来なかったのだ。他人に言葉が届かないことが、これほどまでに虚しいことだとは、思わなかった。

「貴方は、信じる気がないのね」

「香深も信じる気はありませんよ」

「分かってる。でも、あの子に信仰があるかなんて、どうでもいいのよ」

「どうでもいい?」

 今まで信仰を揺るがそうとしてこなかった者の言葉とは思えず、当惑する。

「どうでもいいなら、放っておいてください。貴方たち信仰を持った人だけで勝手に新世界にでも飛び立てばいい。彼女は貴方の娘である前に香深由良という個人なんだ。最後くらい、彼女の好きにさせてくれよ」

「だから、最後にしないようにしているんでしょう」

 陳腐で汚いだけの言葉が出そうになる。いい加減にしてくれ。あんたの信仰で、残り少ない彼女の時間を奪わないでくれ。

 衝動的で意味のないヴァンダリズムが吐き出されようとした時、女性がどこか遠い過去を見るような目をして視線を落とし、言葉が詰まる。

「貴方には、分からないわ。どんなことがあっても、自分の娘に助かって欲しいと思うような気持ちなんて」

 分からないし、分かりたくもない。そんな薄汚いエゴイズムが、親心だとでも言うのならば。

「この席に着いて最初にそう言われていれば、僕も本気で考えたんですよ」

 けれど、何もかもが遅かった。この人が最初に語ったのは、自らの娘への想いではなく、信仰についてだったのだから。

 結局何も飲まず、食べないままで、僕は自分の分の代金をテーブルに置いて席を立つ。もうこれ以上、顔を合わせていたくなかった。声を聞きたくなかった。

「本当に、このままで居るつもりなの」

 去ろうとする僕の背中に、そうした声が投げかけられる。

「ええ」

「……私は、由良を諦めない。あの子をこんな世界に置いておくつもりはない」

 呪詛めいた言葉は、不穏な影を染み付かせる。ただ、反駁をする気は最早なく、振り払うようにして僕はそのまま店を出た。

 このことは、香深に伝えるべきなのだろうか。最後に響いた呪いは、ただの捨て台詞には聞こえない。ともすれば、彼女は強硬的な手段に出るかもしれない。

 ただ、伝えてしまえば、今の平穏は崩れ去る。彼女が大切にしているもののひとつを、損ねてしまうことになる。本当に、それでいいのだろうか。僕のうちに収めたまま、僕だけの力で問題を解決することは出来ないのだろうか。

 結果から見てしまえば、この時の熱に中てられた思考が間違いだった。今までの人生で、自らの無力さを痛感していたはずなのに、どうして僕は何かをしようとしてしまったのだろうか。無力さは愚かさではない。それを自覚せずに足掻き、その結果として最悪を招く思慮の浅さこそが愚かさなのだ。

 僕はどこまでも愚かだった。そして必然の結果として愚かさの報いを受ける。


      *


 劈くような異常が耳朶を打ち、意識を深い眠りの中から引き揚げる。脳ががんがんと警鐘を鳴らしていることが分かる。それは起こるべきではないことなのだと、身体が叫んでいる。

 微睡を振り払い起き上がる。けれど、僕がそうしている間にも現実は容赦なく進む。複数の足音が無遠慮に家の中に響き渡り、見知らぬ声が聞こえる。何かを話している。しかし、その内容を聞き取ることは出来ない。それは未だ眠りから覚めたばかりの僕が現実に適応出来ていないということでもあり、またそれほどそれらの声の数が多いということを表していた。

 香深のことが頭を過り、急いで部屋を出る。しかし、その時にはもう遅かった。その先には男が立っていて、それと殆ど同時に何かで頭を殴られたことが分かった。

 痛みと吐き気は、フローリングに身が投げ出された後でようやく感じる。咄嗟に頭を守ったのは、迅速な判断というような、褒められるべきものではない。みっともない、生存本能による反射的な行動だった。

 続けざまの殴打が降りかかる。頭を守った腕や身体が、滅茶苦茶に、ひたすらに殴られる。痛みと肌から感じるフローリングの冷たさだけが、暗闇を支配する。

 父のことを思い出す。あの人もまた、こんな痛みの中で死んだのだろうか。あれほど恐れていた無秩序な暴力の中で、何も出来ないまま死ぬのか。恐怖すらも覚える余裕はない。ただ、漠然とした寒気がじくじくと身体の中に充満していくことが分かる。

「やめて! 離して!」

 その時聞こえた声は、いっそ幻聴であってくれればいいと思った。僕が悪夢の中で聞いた、意味のないノイズであれば良かった。しかし、断続的にそれは聞こえる。少女の、痛切な悲鳴。恐怖に満ちた叫び。紛れもない、香深の声だった。

 痛みと絶望の中で、身体を軋ませる。助けなければいけない。それだけの祈りが打ちのめされた身体を駆動させる。

 言葉にならない叫びを身体の奥底からあげた。殴打の続く中、食らいつくように僕を殴っていた男の足下に掴みかかる。

 男が蹌踉けた。こんな奴は、どうでもいい。早く、香深のところに行かなければいけない。倦怠が血肉の中に満たされていることが分かる。けれど、不思議と力だけが湧いて来る。ぎこちない動きで一歩踏み出し、香深が眠っていたはずの部屋へと、向かう。

 その時、何かが壊れた音がした。それが、自らの背中が殴られた音だと気が付いたのは、廊下に身を投げた後だった。

「このクソ野郎! 手間取らせやがって!」

 粗野な声とともに、自分が踏み躙られていることが分かる。そうしている間にも、香深の声は遠のいていく。絶望と悲哀を孕んだその声は、肉体的な痛みよりも遥かに僕をずたずたに痛めつけた。

 何も、出来ない。奇蹟なんて、起こらない。脈絡もなく現れた暴力は僕の中から全てを毟り取って、去ろうとしている。待ってくれ、なんていう言葉すらも出ないままで、大切なものは凄惨に僕の元から消え去っていく。

 幾つもの足音が近付いて来た。初めから、希望なんてなかったのだということを思い知る。運よくこの男から逃れたとしても、その先にある運命から逃れることなど、出来やしなかったのだ。

 暴力を続ける男は仲間が来たことによって冷静になったのか、僕を踏み躙ることを止める。それで安堵をするには、僕は既に滅茶苦茶にされ過ぎていた。

「このガキ、どうすんだ」

「カガリ様から頼まれたのは娘の方だけだろ。適当に捨てとけ」

「殺さなくていいのかよ」

「そんなことしなくても、箱舟に乗れないような奴はどうせもうすぐくたばるだけだ」

「それもそうか」

 僕に掴みかかられたことへの溜飲は、それで下がったのか、あれほど激昂していた男はあっさりと僕から離れていく。

 カガリ様、箱舟。それは、昨日聞いたばかりの言葉だった。形のなかった怪物は、グロテスクなその正体を現す。終末が露わにした剥き出しの人間性という魔物は、見るに堪えない醜悪な姿をしていた。

 瞼がゆっくりと下がり、暗闇がより完全な暗闇へと変わっていく。音がぼやけて、上手く聞こえない。意識が果てのない虚の中へと沈んでいく。


 身体を起こすことが出来たのは、既に日が昇ってからのことだった。眠ることが、あるいは気絶することが出来ていたのかすらも分からない。断続的な痛みが肉体を軋ませ、苦痛が意識の中を走っていたことを覚えている。けれど、その中に見た暗闇は明かりひとつない廊下と悪夢の底のどちらだったのだろうか。いずれにしても、絶望を覗き続けていたことには変わりがなかった。

 全身がばらばらに砕け散ってしまいそうなほど痛い。それでも、のたうち回るように藻掻き、壁に縋りつくようにして立ち上がる。頭が張り裂けそうなほどがんがんと鳴っている。ただ立ち上がっているだけでも苦しい。

 思考が纏まらない。しようと思うことすら出来ない。蔓延した痛みに耐えるだけで精一杯で、廊下に座り込んだ後、痛みに慣れ始めてようやく思考は回り始める。

 疑うまでもなく、この家を襲った男たちは香深の母親に頼まれたのだろう。言葉からするに、正確に言うなら香深から頼まれたカガリ様とやらに頼まれて、なのだろうが。

 そして、その目的は香深由良の誘拐だ。信仰を必要としていないというあの母親の言葉の通り、彼らは香深の意志に関わらず彼女を連れ去った。激しい香深の抵抗の声が、耳からこびりついて離れない。自らの無力さに吐き気がする。ただそれを聞いていることしか出来なかった自分が、嫌で仕方がない。

 香深由良は去ってしまった。消えてしまった。その現実が、重たくのしかかる。元よりなかったはずのものでも、一度手にしてしまえば、失われた後に残る虚ろの痛みは大きく、埋めることが出来ない。

 助けに行くべきだと思う。けれど、どこに。どうやって。幾ら世界が終わるとはいえ、他人の家に上がり込み、人ひとりを攫うような奴らを相手に、傷だらけの身体を引き摺って勝てるとでも思っているのか。

 どうしようもないことだったのだ。あの宗教がなければ、香深はここに訪れなかった。けれど、あの宗教があったから、昨夜のような惨劇が起こった。切り離して考えることは出来ない、起こるべくして起こったことなのだから、僕に出来ることなんて、なかったのだろう。

 諦めることが上手くなっている自分に気付き、自嘲する。歳を経るごとに作り笑いが上手くなっていくように、人は徐々に諦めることに慣れていく。それは経年による成長か、あるいは劣化と呼べるようなもので、仕方がないことなのかもしれないけれど、自覚的になるほどに苦しかった。

 出来ないことを願っても仕方がない。考えなしに行って、何になる。今度こそ死ぬだけだ。自分のために無駄死にをされる方が、香深からすれば迷惑だろう。それとも、死んででも自分を救いに来た人間にならば恋は出来るのだろうか。しかし、死に様を晒して惚れられるのは、英雄だけだ。蛮勇の果てに惨めな骸を晒しても、どうにもなりやしない。

 それならば、病院にでも行くべきだ。世界が終わるという時でも、病院は機能している。猶予は僅かだというのに、せめてその最後を見つめられるように、未だ続いている。骨の何本かは折れているかもしれないし、何より痛みで気がおかしくなりそうだった。どうせ、世界はもうすぐ終わるのだ。処置をされる必要はないかもしれないけれど、痛み止めくらいは貰いたい。

 何とか身体を持ち上げて、階段を降りていく。廊下は土足で踏み荒らされたせいで幾人もの足跡で汚され、ある種の芸術のようにも見えた。

 僕と香深の日常が染み付いていたリビングにおいて、損なわれたものは殆どなかった。何かが盗まれたわけでもなければ、壊されたわけでもない。シャッターが閉め切られ、薄暗い部屋は、一見普段と何も変わらないようにすら見えるかもしれない。

 しかし、この場所で生活を続けていたからこそ分かる。もうこの場所に存在していた、あどけない日常は戻って来ないのだ。不可逆的に、完全に、壊されてしまったのだ。

 キッチンの傍に付けられた小さな硝子窓が砕かれていることが分かる。わざわざこんなところから這入って来たらしい。成人した男なのだ、窮屈に身を屈めなければ這入ることも出来なかっただろうに、そのような醜態を晒してまで香深を攫ったのか。

 乾いた笑いが漏れる。そして、その後で憤りが湧いた。けれど、叫ぶにも、何かに八つ当たりをするにも、僕の身体は傷付き過ぎていて、何もすることが出来ない。ただじっと、掌を強く握る。

 どうしてこんなことをしてまで、香深を奪おうとするんだ。終末だから何をしても良いとでも言うつもりか? 馬鹿じゃないのか。良い歳をした奴らが適当な言葉に踊らされて存在もしない概念を狂信して。ふざけんな。勝手にしてろよ。香深を、僕たちを、巻き込まないでくれよ。

 僕は、僕の中にどうしようもないほど大きく深い虚が空いてしまったことが分かった。いつも、そうだ。いつも、僕は何かを失った後でしか気付くことが出来ない。大切にだったはずのものに目を向けることが出来ず、郷愁と悔恨の中で空白を見つめ、佇むだけだ。

 この感覚の正体を、僕は知っている。一度経験をしたからこそ、自らを欺くことも出来ないほど、理解してしまっている。

 腐り、風化し、既に失われてしまったと思っていた。あるいは、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。結局、終わることすらも出来ないままで沈んで行った感情は、消えることすらも許されなかった。

 僕は、香深由良に恋している。再び出会い、かつてあった感情が甦ったのかもしれないし、ずっと、恋をしていたのかもしれない。ただ、今、彼女に恋をしているということは、論理や因果よりも遥かに確かなことだった。

 自覚をしてしまったならば。自らの中で言葉にしてしまったならば。逃げることは出来ない。どうしようもない現実も、言い訳も、韜晦も、全て必要ない。僕は、助けたいのだ。例えその先にあるものが暗い永遠の虚無なのだとしても、何を得ることが出来なかったとしても。

 どうせ世界は終わるのだ。ならば、滅茶苦茶にしてやればいい。あいつらが、僕たちの日常を殺戮したように、僕もまた、何もかもを殺戮すれば良い。

 ふらつく身体に檄を飛ばし、何とか保つ。世界が終わるまででなくても良い。彼女を救い出すまで、せめて耐えてくれ。その後はばらばらになってしまっても構わないから。

 壊すための準備を始める。言葉という形のないの殺意ではなく、命すらも奪い、犯し、失くしてしまおうという現実的な殺意を抱く。痛みは、既に不快なものから怒りという駆動するためのエネルギーを生むための素材に変わっていた。


      *


 学校へと向かったのは、そこにしか既に手がかりが存在しないからだった。期限が近付いたせいか、箱舟を信仰する宗教の痕跡はインターネット上から姿を消している。あれもまた、既になくなってしまっているのだろうか。しかし、不思議な確信があった。あの場所にはまだ、繋がりが存在しているのだと、根拠もないけれどそう思う。

 制服を着ていても、隠すことの出来ない場所に出来た傷を隠すことは出来ない。それに、痛みを庇うような不格好な歩き方は異質なもので、まばらな生徒は僕の方を振り返る。それは初めて香深と登校した時よりもよほど嫌悪感の籠った目だった。傷口は、誰だって見たくない。当然のことだ。

 靴を履き替えることも億劫で、僕は緩慢な動きで職員用の玄関口から校舎へと這入っていく。目的の場所までは、ここからの方が近い。

 香深と歩いたお陰で、校舎の中を迷うようなことはなく慣れた足取りで進んで行く。あれももう、半月以上前のことなのか。特別な場所へ行ったわけでも、特別なことをしたわけでもない。けれど、僕にとって過ぎ去ってしまったそれらの日常は、鮮烈な美しさを孕んでいて、思い出す度に胸の内が温かくなる。

 人間は現実の中ではなく、認識の中に生きている。きっと、僕たちの生活は、ありふれた、傍から見れば物語にならないほどに退屈な繰り返しだったのかもしれない。けれど、恋という歪んだ色眼鏡から見た世界は、どれも本当に、素晴らしかったのだ。

 現実と幸福は、決して交わらず相反するものなのだと、僕は思う。幸福と捉えるには、現実はあまりにも人間に対して残酷過ぎる。僕たちは歪んだ認識を持って、その中に幸福を見出す。生きる意味を、見つける。

 僕を今突き動かしている幸福は歪んだものなのかもしれない。恋は、一過性の熱に過ぎないのかもしれない。それでも僕は、現実と乖離したものであったとしても、この幸福の中に殉じたいのだ。

 合理性や正しさという束縛から解放され、幸福に生きる。それこそが、人である、人の生きている意義なのだろうから。

 一歩進むだけでも痛みが走る身体を引き摺りながらの歩みは、しかし不思議と長くは感じなかった。いつの間にか、目的の場所へと辿り着いている。誰にも見向きのされなくなった、掲示板の前へと。

『まだ間に合う。箱舟へと急げ!』

 訴えかけるような、狂気的な熱を持った言葉は、未だその場所に存在している。あの時から変わらず、その紙は貼られたままだった。

 その紙には幾つもの情報が載っていた。メールアドレス、電話番号、そして本部の住所。僕は急いで、住所をメモに取る。ともすれば、箱舟へと旅立つ際には違う場所を使うかもしれない。しかし、僕が手繰り寄せることの出来る情報はこれだけだったのだから、進むよりほかに道はなかった。

 早く、行かなければいけない。あとどれほどの猶予があるのかなんて、分からないのだから。完全に香深が失われてしまう前に、急がなければいけない。

 今度は出るために職員用玄関へと進もうと踏み出したところで「蓮見君!」という言葉が僕を引き留めた。だらりと、上手く力の入らない身体を無理やり捻じり振り返る。そこには、肩で息をする水代さんが居た。

 冬の温度のせいで、口から漏れる荒い息はやけに目立った輪郭を持って見える。何をそんなに急いでいるんだろうという、ぼんやりとした感想が頭を過った。

「悪いけど、急いでるんだ。話ならまた今度でいいかな」

「そんな状態で急ぐつもり?」

「ああ」

「どこに」

「香深を救いに」

 そう言うと、水代さんは初めて裏切りを知った少女のような、寂し気な目をした。僕は歩き出そうとする。それは、時間が惜しかったからかもしれないし、沈黙に耐えることが出来なくなったからかもしれない。しかし、その足取りは右手首に伝った感触とともに再び止められる。水代さんが、僕の手首を掴んでいた。

「言っただろ、急いでるって」

「分かってるよ。香深さんを助けるんでしょ」

「ならさっさと離してくれ」

「嫌だよ。このまま行けば死ぬ人間を見過ごすことなんて出来ない」

「死ぬって、大袈裟な言い方をするなよ」

「大袈裟じゃないでしょ!」

 手首にかかった力が強くなる。しかしそれよりも、水代さんがここまで激しい声を上げるとは思っていなくて、戸惑った。

「何があったのかは分からないし、これからどこに行くのかも知らない。でも、それだけの傷を容赦なく与えて来るような人のところに行くつもりなんでしょ。死ぬに決まってる」

「……何も手がないわけじゃない。大丈夫だよ」

「その手とやらが成功するって本気で思ってるの? 躊躇いなく人間を損ねることが出来るような相手に対して、君一人で何が出来るの?」

 水代さんの言葉は十分過ぎるほどに現実的なものだった。既に自覚をしていることとは言えど、他人に自らの無力さを指摘されることはなかなかどうして堪らない。

 どうするかは決まっている。けれど、どうするかが決まっているだけで、考えがあるわけではない。香深を助けることなんて、到底出来やしないことなのかもしれない。それでも。

「出来なくても、やらなきゃいけないんだよ。そうしないと、僕は終われないんだ」

 彼女は、僕の目を見た。まるで僕を試すように。断罪者のような目つきは鋭いもので、しかし僕は目を逸らさない。他人に注がれたものではない、これこそが僕の意義であり、目的なのだから。それすらも捨ててしまえば、僕は僕ではないのだから。

「本当に、君が求めるものはそれだけの価値があるの?」

「どういう意味だ?」

「所詮、他人でしょ。命の価値を美化したいわけじゃないけど、命があってこその世界でもあることは確かだよ。幾ら恋人と言えど、命を投げ捨てる必要はないんじゃないの」

 そうかもしれない。例えば、確かな見返りがあるなら違うのかもしれない。香深が僕のことを愛しているなら、死んだとしても意味はあるのだろう。僕が死んだとしても、彼女の中で愛した人の影法師は残り続けるのだろうから。

 しかし、僕の一方的な好意だけでは、単なる自己満足に過ぎないのだ。どこまでいっても助けたいから助けるというトートロジーでしかない。ゆえに、僕が死んだ時には何も残らない。浪費され、波に攫われるように死という暗闇に落ちていくだけだ。

 けれど、それで良いのだ。何の意味がなかったとしても、僕はそう生きたいのだ。死にたいわけではなく、望む生き様が死に近付くだけで、傍から見れば重なってすら見えるその二つの生き方には大きな乖離が存在している。

 それに、僕は水代さんの言葉を借りることを少しだけ気恥ずかしく思いながら、口にする。

「そうでもしないと、納得が出来ないんだよ」

 恋に勝ち負けがあるとするならば、その勝利は納得をしたか否かなのだから。誰のためでもなく、僕は僕の恋の勝利のために、命を賭したいと思うのだ。

 水代さんは僕の言葉を聞いて、笑う。涙はなかったけれど、泣き笑いのような、哀しい響きを孕んだ声が廊下に反響した。

 彼女の温度が、僕の手首から離れていった。つい先まで離して欲しいとすら思っていたのに、失ってしまった体温をやけに寂しく感じてしまう。

「そう言われちゃったら、止められないや」

 心を引っ掻かれたような、微かな痛みを覚えた。しかし、僕は進まなければいけない。何を犠牲にしてでも、望むものがあるのだから。

 歩き始めようとしたところで「あのさ」と水代さんは声をあげる。

「……またね」

 その言葉は、僕が見て来た中で最も美しい嘘だった。僕も、そして彼女も、ひとつの確信を抱いている。この先にどのような末路があろうとも、僕たちが再び会うことはないのだという確信を。

 それでも、彼女は「またね」と言った。それは、届かないものへと希う、痛々しいほど真っ白な祈りだった。

「……ああ。また」

 嘘を嘘で塗り潰す。叶わない約束を、僕たちは交わす。そうして、虚しい希望の言葉を背に、僕は歩き出す。

 世界が終わらなければ、もう少し彼女と話をすることが出来ただろうか。けれど、僕たちに話をするきっかけを与えたのもまた終末であることは確かだった。僕たちはこうして出会い、別れるよりほかになかったのだ。

 現実はどのような認識を与えたとしても変わらない。別れはただそこに佇み続けている。それに、哀しみを覚えても虚しいだけということは分かっているけれど、韜晦を重ねてなかったことにすることも出来ないほどに、哀しみは確かに存在していた。けれど、進まなければならないのだ。

 校舎を出たところに、桜の木があった。冬来たりなば、春遠からじと、古びた本に載っていた詩の一節を思い出す。。けれど、もう春は訪れない。この桜が芽吹くことも、ない。そう考えると、今まで事実として受け入れていた終わりに対して、感傷のようなものを抱く。終わるということは、それ以上続くことがないということを意味するのだということを、改めて自覚して。

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