リスの檻

 香深由良という異物の存在は、幸いなことに思っていたよりもずっと早く学校の中へと馴染んでいった。考えてみれば、当たり前のことなのだ。世界が終わるという異常に順応してきた人々が、今更転校生の一人程度で動揺するはずもない。

 ただ、倦怠感が蔓延しつつあった日常に漣を立てる存在として、注目を浴びたこともまた確かではあった。それに加えて、世界が終わる前に恋人を作ったという分かりやすく興味を惹く話も付随しているのだから、暫くは他のクラスや学年からも香深を覗きに来る生徒たちが居た。

「みんな物語を求めてるんだよ」と水代さんは言った。

「世界が終わるっていうどうすることも出来ない絶望を前にして、多くの物語は効力を失ってしまった。それが虚しい希望に過ぎないということが明らかになってしまったから。だから、現実に物語のようなロマンチックなことがあれば、傍観者になってみたくなる。色んな人が見に来るのは、そういう理由じゃないかな」

「もっと単純な、君が僕に声を掛けたような下世話な理由なんじゃないか」

 ようするに、日常の感覚が抜けていないままだからこそ、呑気に他人の色恋沙汰を観察しようなんて思えるだけだと、僕は思う。

 ただ、それよりも僕たちの関係をロマンチックなものだと言われたことが、引っかかって耳からその響きが剥がれない。僕たちの恋愛はロマンチックと言えるような、夢見でリキッドなものではなくて、より実務的でソリッドな契約に近い。にも関わらず勝手に美化された像を投影されると、妙な気分がして堪らなかった。

 相変わらず水代さんは黒板に記された終末時計を進め続けながら、僕との約束を律儀に守り続ける。彼女が居なければより直截的に好奇の目線に晒されていたことは確かで、今よりも僕は摩耗していたことだろう。だからこそ感謝を口にしたところで、対価なのだからと正面から受け取っては貰えないことが歯痒い。

「人間っていうのは社会性の動物だからね。下世話なゴシップに集るのもまた、情報を貿易しようとする人間の本能なんだよ」

 それらしい理屈は、果たして本心で思っていることなのかは分からない。水代さんの不透明性は、香深の持っている不透明性とは種類の異なるものだということに、僕は彼女と話していて気が付いた。香深のそれは意識的であり、誰が見ても分かる分厚い鎧であるのに対し、水代さんのものはより自然で、あることにすら気が付かないような、彼女自身に馴染んだものだった。

「ねえ、水代さん。なら私も情報が欲しいんだけど、私たちって傍から見てどう映ってるの?」

 香深がそう、水代さんに尋ねた。彼女は他人と話すことを厭わない。ただ、他者に対して関心を抱くということが少ないことは確かで、気兼ねがなさそうに誰かと話している姿は新鮮に映った。

 恋をすると言っても、恋人になったと言っても、何も分からない僕たちは時間を持て余す。ゆえに、あれからも何度か話をすることのあった水代さんを交えて三人で時間を潰すという機会が、何度も生まれていた。

「長い時間と距離を置いても変わらなかった恋を世界が終わる前に果たしたロマンチックな恋人って感じかな。でもそれは情報であって、実際に君たち二人を見るとそういう印象は覚えないよ」

 だろうな、と思う。そんな話は適当に紡いだ口から出まかせで、真実の欠片くらいは存在しているものの実体とは大きくかけ離れている。香深は僕のことを好きだったことなど一度もないし、僕も今は彼女に恋をしているというわけではないのだ。

 結局、形から入ると言っておきながら僕たちには未だ形しかないままだった。時間的欠落が生んだ距離は徐々に埋まっていき、あの頃のような距離にまで近付いていることは事実だ。けれど、どこまでいっても近付くことしか出来ない。失われてしまったものは取り戻すことが出来ず、新たな関係を作り直すために僕たちは不器用過ぎる。

「水代さんは恋をしたことがあるの?」

「あるよ」

「その時はどうして、その人のことを好きになったの?」

 香深の問いに対して水代さんは指を組んで少しの間思い悩むような姿勢を取る。

「放課後の、部活も終わったような暗い校舎でさ。一度だけその人が廊下を歩いているところを見たことがあるの。部活に入ってるわけじゃないから眠ってたのか、勉強でもしてたのかは分からないけどさ。その時かな、好きになったのって」

 水代さんの答えに、香深は不思議そうな顔をする。言ってしまえば、廊下を歩いているところをただ見ただけなのだ。好意を抱く必然性は見いだせない。

 けれど、僕には理解を出来るような気がした。人は、自分のことを理解しているように勘違いすることが多いけれど、自分自身というものは他人を見るよりも理解出来ていない場合が少なくない。特に、自らが抱いた感情を分析することが出来ることは、稀なことだ。

 彼女は、その相手のことがずっと好きだったのだろう。もしかすれば、それまでも意識はしていたのかもしれない。しかし、その感情を決壊させ、恋に堕落させたのは夕闇の中見つけてしまったという、それだけの些細な出来事だったのだろう。好意は劇物であり、呆気ないほどささやかな衝撃で恋へと変貌し身を蝕むのだ。

 強烈な出来事に出逢い、劇的な恋に落ちるなんていうことは現実ではそうそう起こることではないし、そうして得た恋は香深が望まないような、一過性の錯覚に過ぎない場合が殆どだろう。どうして人は恋に落ちるのかを考えたところで、この問題は何も解決しない。

「香深さんはどうして蓮見君のことを好きになったの?」

 水代さんのイノセンスな問いかけに、香深は言葉を詰まらせる。これからどうやって好きになろうかと考えているのにそう言われれば、言葉を見失うのも仕方ないことだろう。

「好きかどうか分からないんだってさ」と僕は曖昧な表現で代わりに嘘を答える。

「悪くは思ってないから告白を受けては貰えたけど、自分でもよく分かってないらしいんだ」

 好きではない相手と恋人になることは、何も悪徳ではない。むしろ互いが互いを想い合っている、完全な状態で始まる恋の方が珍しいだろう。だから、真実を織り交ぜた、自然な嘘を吐く。好意の存在しない、歪な関係という最も晒すべきではない事実を隠すために。

「随分と一途なんだね、蓮見君は」

「そうなのかもしれないな」

 実感がまるで含まれていない薄っぺらい相槌を打つ。一途だったのは、思い出せないくらい昔の話だ。今、僕の中に身体を突き破りそうなほど強い衝動はもうない。

「でも、どうして香深さんは恋人になろうと思ったの? 断ることも出来たでしょ」

 どちらかと言えば、その問いは僕に向けられるべきものなのだろう。どうして、僕は香深由良の頼みに応じて恋人になることを受け入れたのか。断ることだって、出来たのではないだろうか。

 何度も考えて来たように、その理由の最も大きなひとつは空っぽだった僕という人間に意義という駆動するための燃料を注いでくれたからだ。断ってしまえばまた、僕は無為の頽落の中に沈むことになる。怯懦の中で死んで行くことだけは、もう嫌だった。

 けれど、ならば他の誰かに同じことを頼まれたとして、僕はその人のために動くことが、残りの命を捧げることが出来ただろうか。

 仮定を上手く想像することが出来ない。ただ、想像をすることが出来ないというそれ自体が、ひとつの答えであるような気もした。もしも見知らぬ誰かが香深と同じように、恋人になってくれないかと頼んだとして、あるいはそれに似た切実な願いを僕に託したとして、僕はそれを断るだろう。

 そこに存在する際とは、何だろうか。見知らぬ誰かも香深と同じように、好意を向けていない一人の人間に過ぎない。それでも、無下にするのは。言い換えれば、香深由良であれば受け入れるのは。

「……恋をしていないとしても、今の私の感情が分からないとしても。あの頃大切に想っていたことは確かだからかな」

 香深は僕の思いと同じことを口にする。

 僕たちは、互いに過去を見つめ続けているのかもしれない。今、ここに居る相手ではなくて、輝かしかった過去をいつまでも抱いているのかもしれない。

「香深さんが納得をしてるなら、いいんじゃないかな」

 水代さんは溜め息を吐くように呟いた後で、何かを誤魔化すように右の手で左手首を握った。

「恋の勝ち負け、みたいな話ってあるでしょ。私が思うに、恋における勝ちってそれが叶ったか出来たかどうかじゃなくて、納得のいく終わり方をすることが出来たかどうかだと思うんだ」

 その言葉は、なんだか僕のことを指して言われていることのように思えた。想いを伝えることも出来ないまま、納得をすることも出来ないまま蟠った感情の死体を抱え続けている今の末路は、間違いなく敗者の姿なのだろうから。

 例え叶うことがないとしても、納得をして終えることが出来れば、確かにそれこそが勝利なのかもしれない。戦うべき相手は意中のその人でも、恋敵でもなく、徹底的に不条理な恋という名の暴力なのだから。

「水代さんは、恋に勝つことが出来たの?」

 香深が尋ねると彼女は独りで見上げる真夜中の空のように温かい苦笑を浮かべた。

「負け戦なんだよね」

 納得をすれば勝つことが出来ると分かっているのに、それでも負けるしかないのだと、彼女は言う。納得をすることなんて、出来やしないのだ。それが正しいことなのだと分かっていても。

 恋について考える度に、そこは美しく舗装された道ではなく、足場の悪い隘路だということを知る。これより先に、道はあるのだろうか。

 知ることは、思考をすることは、時として不幸にしか繋がらない時もある。幻想は幻想のままで閉じ込め、幸福な思い出として保存をしておくことは悪いことではない。所詮人は認識の中でしか生きることが出来ないのだから、醜悪な現実から目を逸らし、幸福な認識の中で生きることを誰が否定出来るだろうか。

 かつての僕たちのように、校舎を当てもなく彷徨った時のように。二人で行き詰ることには確かにある種の幸せが存在していた。けれど、それが刹那的で退廃的な喜びであることも理解をしていて、本当にそれでいいのだろうかと疑ってしまう。

「時間はあるんだから、ちゃんと向き合ってみればいいんじゃないかな。一か月って、命の期限と捉えたら短いけどさ、誰か一人と真剣に向き合う期間と捉えると嫌になるほど長いんだから」

 水代さんの言う通り、恋人という枠組みに当てはめられるよりも前に、向き合うべきなのかもしれない。僕が知っている香深由良は、香深が知っている蓮見廉は、未だ三年前の面影を濃く重ねたままなのだろうから。

「デートでもしてみたら?」

「どこに?」

 水代さんの言葉に思わず僕が返すと彼女は呆れたような笑いを零した。

「知らないよ」

 至極当たり前のことだった。デートの行先なんていうものは、他人に委ねるものではない。


      *


 僕が住んでいる街から最も近い場所にある遊園地は、丁度二か月前に運営を中止していた。仮に運営をまだしているのであれば、行っていたのだろうかと考える。デートらしい場所と言って真っ先に思いつく場所ではあるけれど、二人してジェットコースターに乗っている姿は、無理に想像しようとするほど滑稽な絵面が思い浮かぶだけで行っていなかっただろうな、と思う。

 結局、どちらが行きたいというわけでもないけれど、未だ運営している場所という消去法的選択を以て僕たちは動物園へと赴くことにした。動物倫理的な観点からか、あるいはもっと単純な職員の愛によるものか、殆どの動物園や水族館は世界の終わりでも尚運営を続けている。

 行き場を失った恋人たちは、僕たち以外にもこのような場所に来るのだろうかとチケットを買って這入ってみると、間違った場所へと這入ってしまったかと思うほどに園内は伽藍としていた。日曜日だというのに、忘れ去られてしまったように、誰も居ない。

 真昼間の動物園は鳴き声すらも聞こえない、いやに静かな場所だということを僕は初めて知った。本当に、ここは生物で溢れる空間なのだろうかと思う。

「どっちに行こうか」と香深が尋ねる。入口から這入って目の前には幾つかの道があった。順路のようなものがあるのかもしれないけれど、マップを持っておらず見るのも億劫な僕は特に考えることもなく「右から行こうか」と決定する。見たい動物のような、目的となるものがあれば良かったけれど、そのようなものがない以上悩むだけ馬鹿馬鹿しい。

 進んだ先には猛禽類の檻が並んでいた。狭い檻の中、木々に留まる鳥たちは置物のように殆ど動かない。考えてみれば、狭い檻の中で飛び回る必要なんてありはしないのだ。僕たちはじっと、静かにそこに留まり続ける鳥を眺めながら、歩いて行く。

 この檻の中に閉じ込められた鳥たちは、世界が終わるなんていうことを知らないのだろう。それとも、本能のようなもので終わりが近付きつつあることを理解しているのだろうか。

 鳥になりたいと、昔思っていた。けれど、今はもうそのようなことは思わない。鳥になったところで、最も嫌いな自分という存在からは離れることが出来ないのだから。

 世界が終われば、動物もみんな死んでしまうのだということを、初めて知った気がした。この檻の閉じ込められた鳥たちも、家の窓から電線の上に乗っている烏も、木の枝を伝う栗鼠も。世界が終わるということは、その全てが一切が失われてしまうことを言うのだ。

 猛禽類の檻が連なった場所を抜けて、僕たちは当てもなく歩いて行く。恋を探すために、僕たちを理解するために、何かを口にするべきなのかもしれないけれど、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。僕は既に、香深由良という人間について知ってしまっていた。それが今の香深由良ではなく、過去の香深由良だとしても、僕の中には「香深由良とはこういう人間なのだ」という答えが存在していて、だからこそこれ以上何を知ればいいのだろうかと思ってしまう。知るべきことは一か月では足りないほどにあるのだろうに、凝り固まった認識という牢獄から出ることが出来ない。

「蓮見君は、世界が終わることを知ってどう思ったの?」

 彼女が呟くように言ったのは、硝子越しにスマトラトラを見ていた時だった。

 世界が終わることを知った時。今まで惰性的に続いていた日常が不可逆的に破壊された時。僕は何を思っていたのだろうか。

 それを知った時のことは覚えている。一人での夕食を終えた後、珍しく父から電話があり、取ると切迫した声色でテレビを点けろと言われた。そうして、僕は世界が終わることを知ったのだ。

 繰り返されるどこかの大統領の声明。上ずったアナウンサーの声。スマートフォンを握る自らの乾いた掌と、浮遊感。今でも、鮮明に思い出すことが出来る。

「何とも思わなかったよ、自分でも気持ち悪いと思うくらいにさ」

 絶望も怒りも哀しみも喜びも、僕には何もなかった。有り得ないと否認をすることもないままで、僕は自分でも嫌になるくらいにすんなりと、その事実を受け入れたことをはっきりと覚えている。

「多分、世界に対する関心がなかったんだ。世界が終わることに対して感情を抱くのは、世界と触れているからだろ。失われることを嘆いたり、恨んでいたモノが壊れることを喜んだりさ。でも、僕と世界の間には、連続性がなかったんだ。だから、何も覚えることが出来なかったんだよ」

 孤独は不安定で歪な強さを孕んでいる。希望がなければ失望をすることもないように、何も持っていなければ失うものはなくなる。悲劇に同情することもなく、ゆえに世界の揺らぎで傷付くこともない。孤独は、打ち砕かれることのない、世界から隠れるための城壁だ。

 けれど、だからこそ弱さは存在している。ひとつは、内側から腐ってしまうこと。どれほど頑強な壁があったとしても、自己崩壊を止めることは出来ない。そしてもうひとつは、その扉を開けて他者を迎えてしまえば、木馬を受け入れたトロイアのように、あまりにも呆気なく崩壊してしまうことだ。

 今の僕は、そうした状態に陥っていた。香深と触れ、時間を共有することで、孤独の城壁が崩れ、世界との間に接点が生まれたことを自覚している。日常の崩壊を知り、あらゆるものが終わってしまうことに寂しさを覚えた。そうした感傷は、果たして良いものなのだろうか。終わりゆく世界の中で、世界に触れることは、失われることしか出来ないものを受け入れることは、凄惨なだけではないか。じくじくと身体の中に巣食った感傷が、弱さが、痛んだ気がした。

「香深はどうだったんだ? 世界が終わると知って、何を思って何をしていたんだ?」

「私は――」

 彼女は澱んだ目を少しだけ下げてから、何かを飲み込むように口を噤んで、そして再び口を開く。

「私は、世界なんて早く終わっちゃえって思ってた。半年も待たずに、何もかも滅茶苦茶になればいいのにって、そう思ってた」

 淡々とした言葉はひどく乾いていて、だからこそ諧謔や韜晦ではない彼女の本心なのだということが分かる。

「いや、少し違うかも。それは世界が終わるっていうことを知った時のことじゃないな。でも、ごめん。あの日、テレビで頭がおかしくなるくらい同じ内容を繰り返していた時。何を思ってたのか、上手く思い出せないや」

 鉛のような呪詛は僕の魂に痛みを擦り付ける。それは、呪詛が抉った傷というよりも、痛々しい香深の姿を見て覚えた幻肢痛のようなものだった。

 世界が終わることを知り、そして、彼女の身に何かが起きた。それは、終末の宣告という何よりも鮮やかに残酷な記憶を塗り替えてしまうような、世界の終わりを望んでしまうような出来事だったのだ。

 躊躇いが雨の日の頭痛のように脳味噌の中を支配する。きっと、その出来事は今の彼女を形作っている最も大きな出来事だ。僕の知らない、香深由良の核となっている部分だ。彼女のことを知るのであれば、尋ねるべきだろう。

 他人を受け入れるということは、愛するということは、傷付き、傷付ける覚悟を持つことだ。本来他人に晒すべきではない部分を晒し、そして踏み込む。そうしなければ、何も変わらない。変われない。

 けれど、僕が香深由良の個人的な領域を侵すべきなのだろうか。彼女は僕に恋をしようとしている。しかし、僕は彼女を好きになる必要はない。必要なのは恋人という形式と時間だけで、僕の感情は何も関係をしない。

 ならば、僕の問いは彼女の過去をいたずらに発くだけの好奇心に過ぎないのではないだろうか。無意味な暴力で終わってしまうのではないだろうか。

 人間の中には、他人に話してはいけないものが存在している。それを外部に漏らしてしまえば、絶え間なく大切なものが零れ続け、その果てにどうしようもなく何かが壊れてしまうような、取り返しのつかない結晶を人は幾つも持っている。

 僕は、僕の言葉が彼女を癒えないほどに傷付けてしまうことが怖かった。ある人はそれを優しさと呼ぶのかもしれない。ある人はそれを臆病さと呼ぶのかもしれない。いずれにしても、僕は一歩を踏み出すことが出来ないままで動物園の中を歩き続けた。

「蓮見君は、世界が終わることを知って、死にたいと思ったことある?」

 その問いは彼女が死にたいと思ったことがあることを表しているように聞こえて、ずたずたに裂かれたような痛みを覚えた。単に、穿った捉え方をしているだけだろうか。そうであれば良いと思いながら、仄暗い思考を振り払うように問いに対する答えを搔き集める。

 生きるということについて、逆説的に言えば死ぬということについて、人類は強く意識をするようになった。僕もそうだ。世界と隔絶された孤独の中に生きていても、その命題とは向き合わざるを得なかった。

「世界が終わることを知るまでは、思ってた。そこに明確な理由はないけど、曇りの日のぼんやりとした倦怠と憂鬱みたいに、何となく死にたいって思うことが多かったんだ」

 よくある思春期らしい悩みのひとつだったのだと、人は言うだろう。けれど、そんな簡単な言葉で片付けることが出来ないほどに僕は悩んでいた。苦しんでいた。例えあの痛みが歳相応の、偶然生まれた揺らぎのようなものだったとしても、笑う気にはなれない。なかったことには、出来ない。

 しかし、充満した鬱屈は死によって晴らされることになった。

「両親が死んだって話しただろ。母さんは世界の終わりなんて知るよりも前に死んだんだけどさ、父さんが暴動に巻き込まれて死んだ時、ああ、人って死ぬんだなって思って。それから死ぬことが怖くなったんだ」

 ミステリ小説やニュースで流れる戦争を見て、僕たちは死を知ったつもりになる。けれど、そうして知る死は単なる情報に過ぎない。生々しい温度を伴った本当の死を知るのは、自分の延長線上に存在している人間が死んだ時だけだ。死という事実が齎す結果をその身で飲み込んだ時だけだ。

 父が死んだという現実味のない事実は、しかし僕の中に死という傷痕を深く刻み込んだ。喪失という暗闇が自分の行く先にも存在しているのだという恐怖が染み込んだ。

 死というものに対して、僕は臆病になった。死にたいと思うことがなくなり、生きたいのだということを、自覚するようになった。

「なら、もしも世界の終わりから逃れることが出来るなら、箱舟に乗ることが出来るなら。君は希望に縋る?」

「どうだろう」

 死というものを恐れているのに、即答をすることが出来なかった。それは恐らく、僕が未だ世界の終わりに対して実感を持たず、恐怖を覚えていないからなのだろう。

 だからなのかもしれない。終末を上手く想像することが出来ないからか、僕は「乗らないだろうな」と口にする。

「世界が終わるなんてことはさ、もうどうしようもないだろ。怖いし不安だけど、でも僕には何も出来ないから。潔く諦めるよ」

 死ぬことを恐れているはずなのに生きたいと希うこともないのは、生きる理由がないからなのだろうと思う。僕を世界に繋ぎ留める錨はなくて、だからこそ月の引力が呼ぶならば僕はなされるがままに月世界へと旅立ってしまうのだろうし、それに対しての悔いもない。僕の中で死ぬことと生きることを止めることは違う質感を持った事実として存在していて、世界の終わりに訪れるそれは後者に似ているのだと感じていた。

「香深は、世界の終わりが怖いのか?」

「怖いよ」

 彼女は迷うことなく、弱さを吐露する。

「全てが終わった後を、私は真っ暗で冷たくて、果てしなく静かな、井戸の底のような場所だとイメージするの。夜眠る前、誰しもに訪れる究極の孤独をどこまでも引き延ばしたような絶望。死にたくなるくらい寒いのにもう死んでるから死ぬことも出来なくて。最悪じゃない?」

 先の言葉も、今の答えも、真実の響きを持っていた。けれど、それらの答えは一見平行した線のように交わることのないアンビバレンスなものに聞こえて、僕は尋ねる。

「それなのに、世界が終わることを望んでいたのか?」

「どうせなくなるなら、いっそ一想いに何もかも滅茶苦茶になれば良いって、そう思っただけ。だから――だから、死のうともした」

 彼女の皮膚を突き破って現れた言葉は、僕の魂を突き飛ばした。考えることは出来ていた。しかし、意志を持って彼女が言葉にすることは、ただの事実に返り血のような赤を塗りたくる。

「でも、結局怖くて、何も出来なかった。終末に酔っても、私は生きたいままで、今まで続いてる」

 昼間の動物園に充満する憂鬱を形にしたような声は、虚しく響く。何かの動物の鳴き声がした。あるいは、僕自身の呻きだったのかもしれない。

「どうしてそんな自分を責め立てるようなことを言うんだよ」

 吐き出した後で、自分の中の何かが火傷をしそうなほどの温度を持っていることに気が付く。ただでさえ、今の彼女は傷付いているというのに、冷たく鋭い言葉は濁流のような何かに押し出されるまま止まってくれなかった。

「生きることも死ぬことも、ただの事実だろ。そこに人は生きるべきだとか死ぬべきだなんて考えるのは、傲慢だ。生や死に身勝手に価値を見出して、それに沿って行動をしようなんて、ありもしない敵を作り出した独り相撲をしてるようなもんだ。悲壮や希望に酔いしれたいだけなんて理由な分、風車に挑んだ騎士もどきなんかよりもよっぽど質が悪い」

 自分でも、自分の考えが上手くまとまっているのか分からない。ただ、言葉だけが意識から剥離して流れ続ける。

「死にたい奴も生きたい奴も、好きにすればいいんだ。そんなこと、僕の知ったことじゃない。でも、小賢しい言葉をずらずら並べた詭弁に惑わされるなよ。正しさや誤りや善悪で決めようとするなよ。答えは、君自身が持ってるだろ」

 僕は憤っているのだということに気が付く。ならば、何に? 僕は何に憤っているんだ? 生きることも死ぬことも、どうでもいいんだ。彼女が死のうと思っていたなんて考えようが、生きるという現実に対して惑いを持っていようが、関係ない。彼女が死んでも、生きても、僕は変わらず死ぬことを恐れ、惰性的に生にしがみつき続けるだけなのだから。

 言葉が詰まる。僕が伝えたかったことは、こんなことじゃない。何か、大切なことを言おうとしていたのに、それこそが本当にかけるべき言葉なのに、何を言うべきだったのか自分でも分からない。答えが見つからない。

 自らの情けなさに吐き気がした。寒々しい空がのしかかったように頭は重く、視線は地面へと落ちる。いつも僕は、言うべきだった言葉を全てが終わった後に知る。その時には既に遅くて、言葉は効力を失っているというのに。

 違う、こんな自己嫌悪に意味はないのだ。何かを言わなければいけない。僕は香深に、伝えなければいけない。さもなければ、このままばらばらに砕けてしまうような気がして、僕は面を上げる。

 香深は僕の言葉を待っていた。無遠慮に彼女の意志を踏み躙ったというのに、逃げることなくそこに居続けてくれた。

「僕は」と絞り出すようにして声が漏れる。そうだ、生きるとか死ぬとか、そんな壮大なことが言いたかったわけではない。いつだって、僕は問題を複雑に捉えて、答えを見失ってしまう。求めていたものは、決まってシンプルなものだというのに。

「僕は、君と会えて嬉しかったんだよ。恋をしてたとか、恋をしたいとか、そういうのを全部取り払って、ともかく嬉しかったんだ。だから、今の君を否定しないでくれよ。頼むから」

 恋という亡霊に、妄執に囚われて僕は香深のことを正視することが出来ていなかった。関係に名前を付けようとしていて、今抱いている生きた感情を疎かにしてしまっていた。

 僕は、香深が現れたことが、そして共に時間を過ごすことが、嬉しいのだ。呪いのようにかつての恋の残骸が痛み続け、今抱いているものが恋のような激しい形を持っていなかったとしても。だからこそ、なければ良かったなんて言って欲しくなかった。例え、それが彼女自身の願いなのだとしても、苦しみなのだとしても。大切に想っていた感情を損なうようなことを言われたことが許せなかった。

 暫しの、足音だけが響く静寂の中で、僕たちは幾つかの動物たちを見た。色鮮やかな鳥、ホッキョクグマ、マレーバク。動物たちは世界の終わりも僕の懊悩も知らずに、静寂こそが平常というように生活を続ける。彼らのようになることが出来たらいいのかもしれないと思った。狭い世界の中にしか生きることが出来ないのだとしても、感情の貿易の果てに痛みしか得ることがないような、人間的愚かさから解放されたいと思った。

 けれど、それは喜びを失うことでもある。檻の中に居れば、僕に言葉がなければ、香深と言葉を交わすことはなかった。恋をすることもなかった。その全てに痛みが伴うことは否定しないし、痛みを美化するつもりはない。それでも、僕はその痛みを覚えることが出来て良かったのだと思う。喜びは確かなことで、傷だらけのみっともない僕が、僕は案外嫌いではないのだから。

「ごめん」という短い声は、悔悛を孕んでいることが分かる。けれど、そこには寂しさや哀しみのような自罰はなかった。

「自分を否定するのが、癖になってたんだ。そうでもしないと、希望みたいなものを片端から拒絶しないと、幸福な空想に溺れてしまいそうだったから」

 彼女の考えは、僕の孤独の城塞に似ている。自分を否定し続け、現実のあらゆる責任を自らへと帰結させることは、これ以上ないほど楽な思考方法のひとつだ。不幸も不条理も、全てを自らのせいにしてしまえば、それ以上考える必要がなくなる。誰かを責めることも、哀しむ必要もなくなる。世界を拒絶し、自らの中で完結する美しきシェルターの完成だ。

 しかし責任感があるだとか、他人のせいにしないとでも言えば美談になるのかもしれないけれど、言い換えればそれは、単なる思考の停止に過ぎない。世界と戦うことを諦めた、敗者の姿に過ぎない。

 似た者だからこそ、理解をすることが出来る。そうした、突き詰めた自己嫌悪が泥沼のように心地よいことも、そこには底がなくどこまでも沈んでいくことしか出来ないことも。

「でも」と彼女は言う。

「駄目なんだよね、それじゃ。私はもう一人じゃないから、寄り掛かるべきなんだ。幸せを分け合うことだけじゃなくて、痛みや重さを分け合うことも、恋人たちがするべきことなんだろうから」

「……恋人じゃなくても、それくらいして来ただろ」

 肉体的な死を選んでいたかどうかは分からない。死というものを実感のある存在として認めるよりも前から、僕が臆病だったことは変わりがなくて、どれほど思春期らしく死に酔っていたとしても吊るされた縄に手をかけることはなかったのかもしれない。

 けれど、あの時独りであったならば、僕の精神はひとつの死を迎えていたのだと思う。青臭い理想という木の枝よりも役に立たない武器を携えて世界に挑んだ子供は、必然の結末として殺されていただろう。

 僕が蛮勇に身を投げ出さずに済んだのは、彼女が居たからだった。寄り掛かることが出来たからだった。何もしていないと言われるかもしれない。けれど、僕は救われていたのだ。

「うん、そうだ。そうだね、私たちはそうしてきた。どうして忘れてたんだろ、そんな大事なことを」

 彼女は笑って頷いた。僕は、彼女を助けることが出来ていたのだろうか。そうであれたなら良かったと思う。何も出来ないと思っていた自分が誰かの為になることが出来ていたなら、嫌っていた過去が報われたような気がするから。

 僕たちに必要だったのは、向き合うことよりも以前にまず思い出すことだったのかもしれない。あの時存在していたものが甦ることはないのかもしれないけれど、なかったことになんてならないのだから。

 ふと、彼女が足を止める。その先にあったのは、猿山だった。コンクリートで出来た人工の山に、猿たちはまばらに存在している。彼らの表情は他の動物と比べて分かりやすいものではあるけれど、理解をすることは出来ない。違いが分かるだけだ。

「どれがボスなんだろうね」と香深が呟く。

 動物の群れにはグループが現れ、その中でも序列が決まる。猿山という小さな世界の中でもそれは例外ではなくて、ボスとその下につく猿が居るのだと、どこかで聞いたことがあった。

「直感的には上の方に居るのがボスっぽいけど、どうなんだろう」

 愚直に最も高い位置に居るのがボスというほど、簡単な話ではないはずだ。それに、一番高い位置に居たからといって何か得があるわけでもない。例えば餌場に近い位置に座り込んでいるとか、そういう方がもっと現実的で利益がある。

「動物の群れにおけるカーストは、やっぱり人間に似てるな。人間が動物だから、と言った方が正しいのかもしれないけどさ」

 猿山を見て思い出したのは、学校におけるクラスという空間だった。あの小さな世界の中にも暗黙の了解のように序列はぼんやりと定まっていて、クラスメイトたちはそれに何となく従いながら学校生活をやり過ごす。一歩でも踏み越えれば後ろ指をさされるような見えない力学が、あの場所には確かに存在していたのだと思う。

 けれど、そうした秩序ももう崩れ去っていた。登校をする生徒が減り、完成されていた形がままならなくなると、雪が溶けたようにしがらみはなくなっていった。この猿たちも、世界が終わることを知れば、先がないことを知れば、秩序を失うのだろうか。餌を求めることにも繁殖に励むことにも意味がないとすれば、彼らは何をするのだろうか。

 そんなことを考えながら尾を下げた猿が山を登っていく姿を見ていると、彼女は僕の方を見てくすくすと笑った。

「こういうところは、昔から変わらないね」

「それは、誉め言葉なのか?」

「褒めてるよ。私は、君のそういうところが好きだったからさ」

 今は恋をしていなくても、彼女の好きに含意がないのだとしても、その言葉は妙な感触と質量を持って僕の心へと着地した。

 僕は昔から、彼女のこういうところが好きではなかった。他者がどう思うかなどを気にすることなく、自らの中にある真実を大切にする姿勢が、苦手だった。

 昼下がりの動物園は静かなままで、けれど広漠とした静謐は這入った時よりも寒々しく感じることはない。温かな何かが、僕たちの間に刺し込まれたような気がした。

 普通というものは日曜日の動物園に似ていると、どこかの詩人が言っていた。ならば、こんな普通が続いてくれればいいと思う。世界が終わるまで、せめてこのまま。

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