どうしようもなく月になりたかった
夜海ルネ
第1話
まるで夜が壊れていくようだ。幻想が壊れていく。この手の中で音は飽きも知らずに踊る。夜更けと夜明けを繰り返す。何度も夜が壊れて、再構築されていく。
ジンはピアノを弾きながらそんな感覚を抱いていた。ずっと、ずっと、手の中の幻想がくるくる踊る。ピアノの一音が鳴り渡るたび、その音に宿った思いが流れ出していく。ひどく神秘で、ひどく鮮烈な音色。ショパンの声。曲名は「即興曲第4番 嬰ハ短調」、通称「幻想即興曲」。
ジンは目を閉じながら、指を鍵盤の上で踊らせていた。客はそれほど多くない喫茶店の隅にあるグランドピアノ。マスターが若いころに弾いていたピアノとかで、来店した客は自由に弾いていいことになっている。閉店までもう三十分はあろうかという午後十時。ジンは喫茶店の中に自らの音の世界を創り上げていた。
短調と長調が繰り返されるこの幻想は、ジンのエチュードだった。といっても、今となっては唯一弾ける曲というだけである。
ぴたり。
曲も後半に差し掛かろうかというところで突然、ジンはその長い指を魔法でもかけられたように止めた。そして、はぁ…………と長い息を吐く。
「お代は払って出ていけよ」
「分かってるよ」
カウンターに座る初老のマスターに言われてジンは椅子から立ち上がった。財布の中から五百円玉一枚を取り出してマスターの目の前、カウンターの長机にすっと差し出す。ドリップコーヒー一杯分の値段である。
「毎度」
マスターは気難しい性格なのかぶっきらぼうにそれだけ言って、目をくれようともしなかった。何も知らない人が見ればやれ「愛想がない」だの「態度が悪い」だのケチをつけられそうなものだが、ジンにとっては毎度のことなので特に何を言うこともなく店を出る。
かと言って何も思わないわけではない。コーヒーの味もそれほどだし、マスターの態度もあんな調子である。普通の感性を持っていれば足を運びたいとは思わないのだが、ジンがここを訪れる理由はただ一つ。きちんと丁寧に手入れされた立派なグランドピアノが備えてあるからだ。
スマートフォンを取り出して、有線のイヤホンを耳に差し込む。音楽アプリを立ち上げて再生履歴からお目当ての曲を見つけ再生すれば、準備は万端だ。スマホをポケットに押し込み歩き出す。耳の中で夜を壊しながら、夜の街を闊歩する。
言わずもがな、ジンは幻想即興曲が好きだ。ピアノのことを嫌いになってもこうして弾いてしまうほどにはジンは幻想即興曲を愛している。それは自分の知らぬ間に狂愛へと姿を変えているのかもしれなかった。取り憑かれているといっても過言ではなかった。
月明かりの照らす道を歩いているうち、ジンは小さな公園にたどり着く。本当に敷地は狭いが、周りは木々に囲まれ小ぢんまりとしていて雰囲気がいい。公園に設置されたベンチに腰かけて少し休もうと、ジンは腰を下ろす。背もたれに軽く重心を預け目を閉じる。
頭の中で夜を壊す。…………いや、この完璧な旋律に壊れていくのは「自分」だろうか。分からない。分からないが、毒が回ってそんなことはすぐにどうでもよくなった。幻想即興曲という毒が体中を蝕んで、つまらないことは一切合切どうでもよくなった。
どれだけ時間が経ったか分からなかった。何度夜が壊れたか分からない。分からないが、そろそろ時刻を確認して家に帰ることを検討しないといけないかもしれない。そう思い立って、ジンは目を開けた。
「あ、死んでるのかと思った。生きてたんだ」
「……え?」
そしてその瞬間に、思わず頓狂な声を上げた。
目の前に見知らぬ少女が立っており、こちらを興味深そうにのぞき込んでいるのだ。ずっと目を閉じて曲を聞いていたから人の存在になんて気づかなかったし、何せこんな寂れた公園に人が現れるとも思っていなかった。
少女は赤い瞳を持っていた。紅玉色の煌めく瞳がこちらをじっと見ている。赤みを帯びた茶色の髪はつややかに光って胸元まで流れている。小さな鼻に潤った唇。
少女は誰もが口をそろえて「美しく可憐だ」と、そう形容されるだろう。ジンはいまだに状況を理解しきれない脳内で漠然とそんなことを思った。
「あの、誰ですか。僕に何の用ですか」
とりあえず聞かなければならないことだろう。ジンが問うと、少女はにこりと目を細めてからジンとの距離を数歩とる。
「私、レイ。あなたは名前なんて言うの?」
レイと名乗る少女は用件を話すことなくジンに名前を尋ねる。やれやれ話の通じないタイプかとジンは心の中で小さく毒を吐きながら、実際には口からわずかな息を吐いて質問に答えた。
「僕はジン」
「へえ。かっこいい名前だね」
「どうも……」
不審者だろうか。かわいらしい容姿にすっかり警戒を解いていたジンだが。ここでようやく猜疑を抱き始める。こんな
「あはは、ごめんごめん。そんなに警戒しないでよ。怪しい人じゃないからさ」
「怪しいですけど」
レイは「え~」と眉尻を下げて困ったような顔を見せている。
「あの、用件は……」
ジンがもう一度しつこく聞いたことでレイはようやくハッと思い至ったような表情をした。
「おっと、ごめんね。やっと見つけられたものだから、気持ちが先走っちゃった」
「やっと見つけたって……?」
聞けば聞くほど不穏な単語しか出てこないものだから、ジンはいよいよ怪訝な表情を隠しきれなくなる。
「あ~。ごめん、伝え方が悪かったや。ええと、順を追って説明するね。私、さっきあの喫茶店にいたの。それで君のピアノを聞いてた。すごくすごく素敵な音色で、私感動したの。だからどうしてもきちんとお話がしたくて、あとをつけてきちゃったんだ。途中で見失った時は焦ったけど、無事見つけられてほっとしたよ。ごめんね、急にこんなこと言われて戸惑うでしょ」
それはもちろんのことだった。さっきあの店にいた? たしかにジンを除いて数人は店にいたはずだが、その中にこんな若い少女がいるなんて予想はできなくて、ジンは虚を突かれる思いだった。
そして自分のピアノを好きだとも言っていた。あの、中途半端な音色をである。耳の中で繰り返されるでたらめな旋律。それに対比される、完璧な世界の壊し方。イヤホンで聞いてもその音が自分と別格なのは痛いほどわかった。その程度の自分の幻想即興曲を、彼女は「素敵だ」と、「感動した」と言うのだ。至極不思議な話だなとジンは思った。
「情報量が多すぎていまいち整理できてないんですけど……。つまりあなたは喫茶店でピアノを弾いていた僕の後をストーキングしてここまで来たってことですか?」
「んまあ、言い方悪いけどそういうことだね」
レイはむしろ開き直ったような顔でそう言った。う~ん、これは有罪。ジンはそう思ったのち、ベンチから立ち上がって口を開く。
「帰ってください。僕はあなたに用はないので」
「ええ! ちょっとちょっとひどいよ! 怪しい者じゃないって言ってるのに!」
ジンが帰ろうと踵を返すと、レイはジンの腕をぐいとつかんで離さなかった。
「それって怪しい人のセリフじゃないですか。離してください、警察呼びますよ」
「呼んでも無駄だよ。私は絶対に警察に捕まらないから」
「はあ?」
何を言っているんだこの人は。頭がおかしいんじゃないのか。出会ったばかりの少女にそんなことを思うのは失礼かもしれないと思わなかったわけではないが、それでもジンはそんな感情を抱かずにはいられなかった。
「頭がおかしいって思ってる? 試してもらってもかまわないよ」
レイが抱く謎の自信にジンは少しうろたえた。彼女は「絶対に」と、はっきりそう口にしたのだ。そう断言するからには何らかの根拠があってのことで──。
「…………はあ、分かりました。話ぐらいなら聞いてあげます」
ジンは観念してレイのほうに体を向けた。顔をしっかりと見てみれば、それはぱっと輝いているのだった。
「ほんとうに? ありがとう! それじゃあベンチに座って、話したいことがたくさんあるの」
レイに手を引かれそのままベンチに座らせられる。レイはその隣に座ってニコニコしながらこちらを見つめる。──距離が、近い気がする。
「えっとね。私が君の後を追った理由は君がとても素敵なピアノを弾くから、っていうだけじゃないの。いやまあ、素敵な音色だったからついてきたんだけど……。でもそれだけじゃなくて、私はずっと君みたいなピアニストを探してたんだ」
「僕みたいなピアニスト……? ピアノがうまいピアニストなんて僕意外にいくらでも見つけられるじゃないですか。どうしてわざわざ僕を見つけたんですか?」
「う~ん。運命的なやつかな。聞いた瞬間にビビッと、きちゃったんだよ。こればっかりは逆らえない! って思ったの。だからついてきた」
ジンは、やはり納得も理解もしかねた。だけど隣に座る少女がさも自分の行為を正当化するような顔でいるから、「このストーキングは別に普通のことだったんだろうか」と錯覚はしてしまっていた。
「仮に僕が運命的なピアノを弾く人だったとして、あなたはどうしてそんなピアニストを探していたんですか?」
「ふふふ、いい質問だね。だけど同時に難しい質問でもある」
「は、はぁ……」
レイが熱のこもった瞳を光らせている中、ジンはいまいち話について行けず適当な相槌を打つことしかできなかった。それでも話だけは聞いていようと何とか耳を傾ける。
「あのね。ここから私が話すことに一切の疑問を持たないのはありえないと思うんだけど。それでも聞いてほしいんだ。いいかな」
「…………まあ、ここまできて嫌ですとも言えないですし」
「たしかに、そりゃそうだ。……あのね、世界には二つの種類があるの」
「はあ。──は?」
「まあ、とりあえず聞いてよ。『現世界』っていうのと『夢世界』っていうのがあって、私たちが今いるこの世界は『現世界』ね」
驚愕を通り越してもはや呆然としているジンを置いてけぼりに、レイはそんな、まるでおとぎ話の一節みたいなことを語りだした。理解が追い付かなかった。世界が二つ。夢と現。ジンの頭でいろんな情報がこねこね練り合わせられて造形をとどめようとするが崩れ落ちてしまう。
「二つの世界には境界があるんだけど、異世界の存在を認識したものだけが世界を自由に行き来できるんだ。要するに、ジンは私が『夢世界』のことを話すまでその存在を知らなければ世界が二つに分かれてるってことも知らなかったでしょ? だけど私が今こうしてその存在を認識させたから、君はもう二つの世界を行き来できるようになったんだ」
レイは淡々と、けれども要点はおさえて話を進めていく。ジンはそれに頷くことすらできずただ彼女の滑らかに動く唇をぼーっと眺めながら話を聞いていた。
「それで私はもともと『現世界』の住人なんだけど訳あってしばらく『夢世界』の方に行っていたの。というか、『夢世界』の住人になるつもり。そうそう、ここでやっと前提を踏まえて本題に入れるんだけど──私、ジンには『夢世界』でピアノを弾いてほしいんだ」
「…………」
レイの赤い瞳がきらりと光る。のを、ジンはただ黙って見ていた。その頭の中で限りなく、思考を展開させながら。
夢、現、世界、住人、ピアノ、存在、現、世界、二つ、認識、夢、住人──。
……意味が分からない。
「意味が分からないんですけど」
「…………はあ~~~~、やっぱそうだよねえ。いきなりこんなこと言われても『は?』ってなるよねえ。いや分かるよ、よーく分かるよ……」
レイは長々とため息をつき、ジンの肩にそっと手を置いてうんうんと頷いた。
「ん~~よし、じゃあまずは試しに『夢世界』に行ってみよう。そうじゃないと信じてくれないでしょうどうせ。大丈夫、私が案内してあげるから」
「大丈夫なわけないじゃないですか。なんなんですかその厨二病くさい設定は。いくらなんでも痛いですよ」
ジンは何かかわいそうなものを見るような目で隣に座る少女を見た。レイは分かりやすく顔を赤くしてわんわん喚く。
「も~!! そこまで言わなくたっていいじゃない!! 厨二くさい設定なんかじゃないよ!! 実際に私がこの目で見て、体験してきてるんだから! 嘘だと思うなら、ついてきてよ。私がもう一つの世界の存在を証明してあげる」
「だからそんなおとぎ話めいた妄想に僕を巻き込まないでくださいよ……」
そうやってジンが苦言を呈する間に、レイは勢い良く立ち上がって座ったままのジンの方を振り返る。
「ほら、行くよ!」
「どこへですか」
「決まってるじゃない、『夢世界』への入り口!」
あまり乗り気でないジンをレイが連れてきたのは、いかにもな雰囲気を放つ古い神社の境内だった。
「ここがその、『夢世界』ってところへの入り口ですか?」
「そうだよー。パスポートを持ってる人だけが通れるの」
レイはそう言いながらおもむろにどこかからパスケースのようなものを取り出した。そこには「夢世界通行証」の文字が刻まれていて、ジンはいよいよもう一つの世界の存在を認めざるを得なくなっていた。
「あ。敬語で話さなくていいよ。私、敬語で話したり話されたりが苦手なの。もっと気軽に接してくれた方が、私も楽なんだ」
レイの言葉にジンはそういうことならと敬語を使わないよう心がけた。
「分かりま……分かったよ」
「うんうん、それでよし」
にこりとほほ笑みかけてレイは満足そうにそう言った。そして「それじゃあ行くよ、向こう側へ」と真剣な顔つきになる。
「うん」
レイがパスポートを掲げて「レイです。現世界から戻りまーす」とのびのびした声で宣った。その途端、
「わっ」
神社の境内でピカッと、まるで雷光のようにまばゆい光が瞬いた。
「開いたよ。行こう」
突如開いたそのゲートは白い光にあふれていて、その先はまるで未知だった。だがしかしここで立ち往生しているわけにはいかないので、「ええいままよ、どうにでもなれ」とジンはレイの背中を追いかけその光の中に足を踏み入れた。
そして、
「わ──」
その向こうに広がる景色に目を奪われた。
「人が、たくさん……」
街並みを見る限りそこはジンの住む街と同じなのだが、明らかに違うのはその人の多いことだった。見渡す限り人。人。人。たくさんの人が行き交っている。そして何より、その顔には活気が宿っている。こんな真夜中だというのに、街の明かりも人々の顔もすべてが華やかでまぶしい。
「これはいったいどういうことなんだ……?」
「びっくりした? これが『夢世界』だよ。意識の中に眠る街。実在はしないけど存在はしているの」
それはまさしく「夢」と呼ぶべき空間だった。
「つまり……この空間は実際には存在しない。けど、人々の意識の中に生まれているってことか……? それじゃあ『夢世界』にいる間、向こうでの僕たちはいったいどうなってるんだ?」
「おおむね合ってるね。『夢世界』とはすなわち意識の中の世界。そしてその質問に対する答えだけど、『夢世界』にいる間は『現世界』での存在も消えるの」
「え……?」
ジンには理解ができなかった。いや、その情報は分かる。しかし「存在が消える」というその事象の解釈ができない。
「私たちは二つの世界に同時に存在することができないんだ。だって意識の中に自我を持っているのにその外側にさらに自我を複製することなんてできないからね。そんなことしたら脳がパンクしちゃう」
レイは頭の横に手をやってそれをポンっと開き爆発のイメージを植え付けた。
「じゃあ、存在が消えるということはつまり『現世界』に僕らがいた痕跡はすべてなかったことになるっていうこと……?」
「へへ、ご名答! 戸籍、人々の記憶、所持品……。『当人がいたからこそ成り立っていた空間』はすべて無に帰す。どう、単純でしょ? これが『夢世界』のからくりだよ。人々は現実世界での存在を代償に、自分の意識の中にオアシスを作ったんだ。それが『夢世界』」
ジンはようやくその概要について理解が追い付いてきた。
「ということは、例えば今現在僕の家族は僕の帰りを待ってないってことになるね。そもそも僕という存在がなかったことになっていると」
「そういうこと! 案外あっさりと腑に落ちるんだね。私は初めて来たときそんなにうまく情報を呑み込めなかったよ。ジンはきっと物事を冷静に分析できる人なんだね、いわゆる頭脳派ってやつかな」
レイがジンの周りをくるくる回りながら言うので、ジンはほんの少し赤面して目をそらした。
「からかうのはそこまでにしてくれよ」
「もー、本心から言ってるのにー」
「ところで、『夢世界』から『現世界』に帰った時の情報の補完はどうなるんだ?『夢世界』に行っている時間『現世界』の人間が僕らの存在を感知できないのは分かったけど……。向こうに戻った時、『夢世界』で過ごしていた時間の情報は彼らにとってどんな状態で補完されるのか……って、少し気になって」
「お~、さっきからなかなか鋭い質問をしてくるね」
レイは少し口角を上げながらジンを見つめて言った。そうだ。世界を行き来している間も時は流れる。現実世界に戻った時の、いわゆる本人の自我が不在である時間は他人の記憶の中でどのような保存のされ方をしているのか。それがジンの最後に気になることだった。
「簡潔に言うと、その時の記憶は生成されない」
「それじゃあそこだけ記憶が抜け落ちた状態になるってこと?」
「正解、ちなみに『夢世界』から『現世界』に帰るときは好きな場所を選べるから、例えば神社からここに入った私たちもそれぞれの家の自室とかに帰ってくることができるの。どう、けっこう便利でしょ?」
レイは「ようやくややこしい説明のすべてを終えた」というすがすがしい顔でジンを見た。だがジンにはまだ、といってもほんの小さなものではあるが、拭いきれない違和感があった。
「じゃあ、最期の質問をさせてほしい。人々はいったい何のために、わざわざ『夢世界』を訪れるんだ?」
その時、レイの表情が変わった。変わりはしたもののその違いは微々たるものなのだが、彼女は目をほんの少し見開いてそこに何やら真剣な光を宿したのだ。その瞳にこもる真意は、ジンには測り兼ねた。
「──さっきも言った通り、ここは人々の心のオアシスなの。彼らはここに現では手に入れることのできない安らぎを求めてやってくる。こんな夜更けに、わざわざね。それは、そうするだけの価値がこの場所にあるからだよ。その価値は単純。この世界は、何でも叶う。夢も希望も自由もすべて、手に入るの。実在しないけど存在はする世界。ここでなら何だって許される。現実世界ではできないこともここでなら。何でもできるの。だからほら見て、待ちゆく人々の目の輝き、生気に満ち溢れてるよね?」
レイは半ば強制的に意見を押し付けるようにジンに少し迫った。ジンは少し身を退いて、その場限りの頷きを数度見せる。
「そうでしょう? すべてはこの世界が彼らにもたらした幸福なの。ここは非現実。その名の通り夢の世界。夢がすべて叶う場所。どう、とっても魅力的だと思わない?」
「…………まぁ、そうかもね」
ジンはレイの問いに軽くうなずいた。そしてレイは満足げな笑みを浮かべて「でしょう、そうでしょう?」と言うのである。
「それでここでやっと、ジンを『夢世界』に連れてきた理由を言えるんだけど」
「ああ、前置きがずいぶん長くてそれを忘れるところだったよ」
「ごめんごめん。私はジンにお願いがしたくてここに連れてきたの。ジン。私と一緒に、ここでピアノを弾いてくれないかな」
そう言った彼女の目は──ひどく神秘的であり、また妄信的であり。ジンには少し不思議に映るのだった。
レイはそのままいくつかの路地を抜け、ジンをある場所へ連れてきた。先ほどいた場所とは打って変わって人通りもなく閑静なところだった。
「ここは……?」
「雰囲気いいでしょ? 私のお気に入りの場所なの」
そこにはさほど大きくはないけれども噴水があって、奥にグランドピアノが置かれている。ここの設計をした人はよほどの音楽好きなんだろうかと思わせるくらいの広場だった。夜の風が二人のもとへ静かな波を連れてくる。
「レイはここでピアノを弾きたいの?」
「そう! ここで君と一緒に弾けたら素敵だなと思って」
「どうしてなんだ?」
ジンのセリフに、レイはぴたりと動きを止めて彼のまっすぐなまなざしを見つめた。
ジンはずっと、それが聞きたかった。レイがわざわざ『現世界』に来て素敵なピアノを弾く人を探していた理由、その人と一緒にピアノを弾きたい理由、その場所が『夢世界』でなければいけない理由。
すべて彼女が巧妙に説明を遠ざけてきたことだ。気になって、そしてついに口に出した。彼女を逃がさないように、確実に。
「どうしてここじゃなきゃダメなのか、どうして僕なのか。聞きたいんだ。そうじゃないとすっきりしなくて、弾ける曲も弾けない」
「…………」
レイは難しい表情のまま一言も発しはしなかった。訪れた静寂をただ噴水の柔らかな音が切り裂くだけだった。風が吹く。ジンとレイの間に横たわる何かをさらわんとして。
「ごめんね、何も言わずにこんなところまで連れてきちゃって。ずっと探してた逸材に会えたのが嬉しくて、はしゃぎすぎちゃったんだ。時間、大丈夫?」
ジンはポケットに入れ込んでいたスマホを確認した。やはりというべきか右上には「圏外」の表示があった。時刻は深夜零時すぎ。ここにいれば『現世界』での存在は消え、向こうに戻った後もその間だけ周りの人間の記憶などは抜け落ちている。下手な説明を強いられることもないだろうから、時間を気にはしなくていいだろう。
「大丈夫、話を聞かせてくれる?」
「ありがとう。覚悟してるかもだけど、話が少し長くなるよ。それでもいい?」
ジンはゆっくり、深くうなずいた。それにレイはほんの少しの微笑を返す。
「それじゃあ話すね。まずは、私が『現世界』にいた頃の話。私は、高校生ながらにいろんなコンクールに出場するピアニストだったの。コンクールの成績もそこそこよくて、知名度はそれなりにあったよ。一時期テレビにも出るくらいだった。当然今はこっちにいるから、『現世界』の人たちにはその記憶はないだろうけどね」
ジンはうすうす気づいていた。いや、レイが有名なピアニストだとは知りようもなかったが、彼女が何らかの形でピアノに触れる人間なのだろうことは。
「いかにも順風満帆って感じの生活を送ってた。大好きなピアノを毎日のように弾いて、両親や周りの人たちもみんないい人で不満はなんにもない、幸せな人生だった」
どうして「だった」と、過去形で形容するのか。その意味を問う勇気は、ジンにはなかった。
「でもね。あるとき私、病気になっちゃったの」
レイの赤い瞳に影がほんのりとささる。
「体がだんだん、動かなくなっていく病気。国で指定されてる難病なんだってさ。最初は指先から、次は腕、足って徐々に広がってくの。最終的には全身不随になって、脳も動かなくなって死んじゃう。そういう病気」
「──それって、」
そのあとに続く言葉をジンは言えなかった。何を言えばいいか分からなかった。
「幽霊みたいでしょ。生きてるのか生きてないのかもよく分からない。そんなんだから私、いやになっちゃったんだ。もう逃げたいって思った。だってそうでしょ? ピアノを毎日弾いてた女の子が、突然弾けなくなるんだよ。実際は、病気がほとんど進行してベッドの上にいるときのほうがまだ精神的には楽だったの。いちばん怖かったのはあの、指がさび付いていく感覚。ピアノを弾いているときに突然、指先の神経に信号が送られなくなってうまく動いてくれないの。苦しかったなあ。耐えられなかった」
「レイ……」
その苦しみは、ジンには分かりかねた。だって味わっていないのだから。分かるはずがなかった。分かっていいはずがなかった。
今までどれだけ、辛かっただろう。想像しようとしても頭の中で情報はうまくまとまってくれず、宙を泳ぐだけ。そのやるせなさにジンは息苦しさをおぼえた。
「そんな顔しないでよ。なっちゃったものは仕方ないんだ。今さらどうやったって治らない、もうどうにもならないもの」
「じゃあ、だから君はあの時『夢世界』の住人になるって言ったのか? 向こうでの存在を消すために──」
「…………言ったでしょ? ここなら何でも叶うの。嘘でも虚構でも構わない。ここでなら私、”生きてる”って思えるから」
レイがその「何でも叶う」という言葉に執着した意味が、ジンにはやっと分かった。現では、「何事も叶わない」からだ。
テレビに出るほどの才能を持つピアニストだったのなら、彼女はきっと周りの期待を大いに背負っていただろう。そして舞い込むこのニュース。彼女の周りに果たして彼女を責め立てるような人間がいたかはジンには知りようもないことだったが、多くは語らずとも彼女は苦しかったはずだ。
「生きていても死んでいるみたい」なんだから。
「私だって迷わなかったわけじゃないよ。『夢世界』の住人になったら『現世界』での存在は消える。それはつまり、向こうで築いた家族関係や友人関係、大切なもの全部失くしちゃうってことだもんね。もちろんそんなのは嫌だった。嫌だった、けど」
レイのその何とも言えない表情から、彼女がどれだけ悩んだのかを想像することはたやすかった。
「けど、生きてても周りに迷惑ばっかりかけちゃうし。生きてても、死んでるの。だから決めた。向こうで生きるのはやめようって。『夢世界』での暮らしも、嫌いじゃないしね」
ジンはもう何も言えなかった。彼女の選択を咎めることも肯定することもできず、ましてその事実から目を背けようなどと言うことは考えにも及ばなかった。
「かわいそうだなんて思わなくていいよ。言わなくてもいい。そんなのは何の慰めにもならないから。それに私は、全然かわいそうなんかじゃないんだ。今でも十分幸せ。ううん、今のほうが幸せ。だってほら。こうして毎日ピアノに触れられるからね」
言いながら、レイは鍵盤をぽろんと撫でた。寂しい音が静寂を溶かしていく。
その音色が悲しく響くのは、きっと──君が今一人だからだ。
ジンは、迷いながらも静かに口を開いた。
「まだ、聞きたいことがある。改めて聞くよ。それなら君はどうしてわざわざ僕を探しに来たんだ? はっきり言うよ。これは僕の憶測だけど、君が『現世界』までピアニストを探しに来たのは一人の孤独に耐えられなかったからなんじゃないのか?」
そこまで、ようやく言い切った。ジンの目の前に立つレイはきょとんとしながらもどこか真剣な顔つきでジンを見返している。そして、口元だけで「ふふ」と笑った。
「分からないよ。分からないけど、そんなところかもね。私はずっと覚めない夢の中にいる。だけどここにいる人たちも、朝になれば現に帰っていくの。みんな分かってるんだ。現実は捨てられないって。そりゃそうだよね。存在が消えるってことは、家族や友人、恋人とかいう大事な人たちと会えなくなるどころかその記憶にも残らないんだもんね。そんなの嫌に決まってる。みんな、誰かの記憶から消えるのが怖いんだ」
その口ぶりはまるで。まるで、自分は怖くないみたいな言い方だな、とジンは思った。
「だけど私は、どうせ消える人間だから。だから誰かの記憶から消えることは悲しくもなんともなくて、むしろ喜ばしいことなの。私が怖いのは、自分の存在が誰かの記憶に残ること。だってそうでしょ? 自分は消えるのに、まわりの人は何事もなければそのまま生きていくの。それでも私が死んだときにはきっと優しいから泣いてくれるの。もっと言えば絶望して、腐っていくの。そんなの……そんなの、耐えられないよ。独りより耐えられない。だから私はこの世界を選んだんだ。ここなら毎日好きなことをしていられるし、なんだって叶う。夢でも虚ろでも構わないの。ほんとうじゃなくたっていい。私はみんなから忘れ去られて、記憶の彼方に葬り去られて、静かに過ごすの。それが、いちばんいい。それが、いちばんの幸せ。きっとそう」
レイはピアノの前の椅子に座った。その滑らかな美しさに、ジンはなぜだか涙を流しそうになる。
「私が一番好きな曲は、幻想即興曲。君が喫茶店でその曲を弾いてたから、私声かけたんだよ」
彼女が、音を紡ぎだした。夜を壊さんとして。『夢』を見る者たちへ、別れを告げんとして。もう朝が来る、と。儚い歌声で太陽の訪れを告げる小鳥のように、軽やかでいてほの暗い絶望が降ってくる。
彼らを追いやったあとの地に独り、レイはまだピアノを弾き続けていた。しばしの安寧だ。夜が壊れて、朝が来る。その束の間。冷たくて浅い空気と、少し寂しい空の色。あの形容しがたい切なさを、少女はそっと、噛みしめる。噛みしめて、だけれども顔は少しすっきりとするのだ。それはきっと、誰からも忘れ去られたことに対する安心なのだろう。
そして、不穏は再びやってくる。彼女は思い出す。現で過ごした日々を。大切な思い出を思い出して、しかし現実はままならないことを理解している。不治の病。さび付いていく指先。その恐怖から逃げてきた。逃げてもまだ、一人の恐怖に襲われる。生き地獄みたいなものだった。安寧は、ないと知る──。
ジンは涙を流した。そうだ、これは失われた音色だったのだ。ジンの手の中に残っていた中途半端な旋律。その正体は、レイだった。
「思い出したんだ。僕は、君の記憶を失くしていた」
演奏が終わって、ジンは涙に濡れた掠れ声を出す。
「え?」
レイがジンの方を振り返って首を傾げる。
「僕はずっと、中途半端な幻想即興曲しか弾けなかった。いつも途中で手が止まるんだ。その理由がやっとわかった。僕は君の旋律に魅せられたからなんだ。ずっと前、僕はレイのピアノを聞いたことがあった。君は動画サイトに演奏動画をアップしていたから」
最初はレイの表情は固まっていた。だがだんだんと、見当がついてくる。ジンがまだ十二歳、ピアノを始めたばかりのころ。それは『現世界』でのレイが中学生で、無名のときにピアノの演奏動画をネットに上げていた時と同時期だった。
「ああ……」
レイの口から絶望、悲嘆、驚愕、すべてないまぜになった吐息が力なく漏れた。瞳孔がずっと小刻みに揺れていた。
「きみ…………もしかしてJinくん?」
Jin。それはジンが動画サイトを見るときに使っていたアカウントの名前だった。レイ──Rayが投稿したピアノの演奏動画によくコメントを残していた。そしてレイもまた、ジンの書くコメントに返事をしていた。
音を与える者と、享受する者。震える想いを伝える者と、受け取る者。会ったことがなくても、二人の間には確かな関係が構築されていた。運命の糸などと言う夢見がちな言葉でこの出会いを形容しても、許されるんじゃないかとジンは思った。
「希望だった。レイの弾くピアノが。狂ったように聞いた。いつの間にか自分もピアノを始めていた。初めて聞いたのは君の音だったし、ショパンの音よりも好きだったからよく聞いた。たくさん聞いた。何度も聞いて、動画を何度も見て、運指をおぼえて弾いた。だから僕、突然弾けなくなったんだ。君の存在が、音が、あの世界で消えたから」
曲自体は在るのに、レイの音が消えたことによってジンの曲は不完全となった。それを機にジンは、ピアノを弾くのはやめようと思ったのだ。弾けないのなら意味がないと。わけも知らずに突然弾けなくなったピアノが嫌いになった——そのはずだった。
幻想即興曲から離れることだけは、どうしてもできなかったのだ。その幻想にずっと囚われた。どんなに不完全でも、やめられなかった。
立ちすくむレイのそれは透明な色をしていた。当たり前だった。瞳がどんなに赤くても彼女は人間なのだ。どんなに長い夢を見ていようとも彼女は人間なのだ。幽霊などでは、決してなく。
「私…………知らなかった」
そのあとに小さく「知りたくなかった」と聞こえた。
「ごめん」
ジンはとっさに謝る。レイを泣かせるつもりなんてもちろんなかったし、自分の今の発言はまるで彼女を責めているようではなかったかと言ってしまった後で思い至ったからだ。
「ちがう、ちがうの」
レイは嗚咽交じりの声を必死に吐いた。両手で何度も目のあたりをこすって、だからかそこだけもうずいぶんと赤くなっている。
「悔しいんだ。現実から逃げてしまったことが。その選択をした自分が。結局、楽になりたいのは自分だった。家族が悲しむからなんてぜんぶぜんぶ建前で、本当はただ自分が楽になりたいだけだった。それだけ……。卑怯なの。それがすごくみじめで、悔しくて、情けないんだ。たまらなく悔しい。そうだよ、私がここにいる限り、私の音もずっと一人のまんまだ。どうして気づけなかったんだろう。私ばかだよ。大ばかだよ」
「ちがう、君は悪くない。解放されてよかったんだ。そんな苦しみからは解放されて、思うがままにピアノを弾ける方がいいに決まってる。君は幸せな道を選んだだけだ。自分の幸せを選び取って進んだだけだ。何もまちがってなんかない。恥じることもないよ」
辛かったね、苦しかったね、そんな言葉で救われるような身の上ではない。頭では分かっていながらも、「なら逆に自分は彼女を救えるほどの言葉をかけてあげられるのだろうか」「そもそも自分の言葉にそれほどの価値や重みはあるのだろうか」と頭の中で答えの出ない問いをぐるぐると巡らせて、ジンは思いつく限りの「それっぽい」言葉をたくさん引っ張り出し口から放った。
「ごめんね。君の美しい音を奪ったのが私だなんて。ごめんなさい」
どうすればいいか分からなかった。分からなくて、ジンはついに言葉を捨てた。
レイの細くて小さな体を、ぎゅっと抱き寄せる。「大丈夫だ」と、体全体で訴える。彼女の口から「ごめんね」の言葉が引っ込んだのは、そのタイミングだった。
それきり彼女は肩を震わせて、その美しい色をした思いを隠そうともせずに目からいっぱい、いっぱい溢れさせた。
この幻想だけは壊さないでいたい、そう思えるほど美しく、哀しい夢だった。
「私、『現世界』に帰ろうと思う」
ひとしきり泣いた後、ぽつりとレイはそう言った。
「考えたんだよ。一生懸命考えた。私は夢から醒めるべきなんだ。どんな現実も受け入れて、前に進んでいかなきゃ」
「それでいいのか、レイ?」
彼女の赤い瞳は今も揺れに揺れ続けていた。彼女が『現世界』に戻ったら、彼女の家族をはじめとする周りの人間は「レイは以前からそこに存在していた」と当たり前のように認識する。そういう仕組みになっている。
「うん」
数秒の沈黙のあと、レイは頷く。
「ジンがいるから、もう大丈夫。まぁ、たまには
「もちろんだよ」
悲しげなレイの笑顔は、ジンの心をきつくきつく縛りつけた。だがこれはきっとなるべくしてなったのだ。
そうだろう。夢と現は混ざらない。夢は現に成り代わらない。逆も然りである。
「私、月野レイっていうの。それでね、ここの病院に入院してる」
レイはとっさに小さな紙に何かを書いてジンへよこした。紙とペンがどこから出てきたのかはあまり気にしなかった。だってここは、何でも起こる夢の世界だから。
「月野……」
そうか、とジンはその名前を聞いて納得した。彼女は月だったのだ。それも偽物の。自ら光り輝いているわけではなかった。周りからの期待と言う太陽の光を受け、だからこそかげるときはとことんかげる。きっとそういう運命のもとに生まれてきた。──だなんて、名前に意味などないはずなのに。
「僕は、……」
ジンが自分のフルネームを言うと、レイも納得したような顔をする。そして、「私たちは、似てるね」と意味深に笑みをこぼすのだった。
「それじゃあ行こっか。『現世界』へ」
二人はピアノの前に隣り合って座った。もう、この世界の壊し方は知っている。
二人が奏でるのは、幻想即興曲。それも二人で弾く連弾用にアレンジしたものだ。弾き方について議論を交わさなくても、肌で何となく感じるものがあった。二人は意識的につながっていた。それもまた運命のせいにして、二人はピアノを弾き続ける。もう、夜は終わる。
夜は沈んで、朝が顔を出す。始まりのときを教えてくれる。これから現を目の当たりにする者たちの背中をそっと押して、そして世界は壊れていく。
そのあとのことは、ほんとうにほんとうに、どうでもいいことだった。
「あんたこんな時間からどこ行くのよ」
「ちょっと、友達に会いに」
母親に怪しまれながらもジンは家を足早に出る。真っ当に浴びる朝の光は久々で、ジンは目を細めながらもなんとなく青い空を見上げずにはいられなかった。
新幹線と電車を乗り継いでたどり着いた場所の涼やかな空気にだらしない顔になるが、すぐにいけないと気を引き締めて彼はエレベーターにひょいと乗る。
エレベーターが上昇するあいだ、ずっと彼女のことを考えていた。運命に愛されて、翻弄された少女のことを考えていた。彼女は今、何をしているだろうか。──僕のことを、覚えているだろうか。
目的地に到着して、ジンは扉の前で立ち止まる。503号室に入院中の、「月野レイ」はここにいる。
今までたくさん間違えた。今までたくさん迷った。今までたくさん躓いたし、今までたくさん罪を犯した。
だけど、消えたくてもここにいる。ここに立っている。苦しくても生きている。
息を吸った。いろんな温度が肺の中に入り込んできた。ドアに手をかけて、ジンは一歩、足を踏み出す。
◇◆◇
まるで夜が壊れていくようだ。幻想が壊れていく。この手の中で音は飽きも知らずに踊る。夜更けと夜明けを繰り返す。何度も夜が壊れて、再構築されていく。
僕はピアノを弾きながらそんな感覚を抱いていた。ずっと、ずっと、手の中の幻想がくるくる踊る。ピアノの一音が鳴り渡るたび、その音に宿った思いが流れ出していく。ひどく神秘で、ひどく鮮烈な音色。ショパンの声。曲名は「即興曲第4番 嬰ハ短調」、通称「幻想即興曲」。
僕は目を閉じながら、指を鍵盤の上で踊らせていた。夜更けにもかかわらずそれなりに繁盛している喫茶店の隅にあるグランドピアノ。先代マスターが若いころに弾いていたピアノとかで、来店した客は自由に弾いていいことになっている。閉店までもう三十分はあろうかという午後十時。僕は喫茶店の中に自らの音の世界を創り上げていた。
短調と長調が繰り返されるこの幻想は、僕のエチュードだった。昔から、それだけは変わらない。
「いつも素敵な曲を弾かれますね」
喫茶店の現在のマスターは先代の孫娘で、三十代前半ほどのきれいな女性だ。店の代が彼女に切り替わってから、ここは大いに繁盛したそうだ。実際には、先代のやっていた当時の店の評判が悪かったのであって客観的に見れば普通のローカル喫茶店なのだが。
「幻想即興曲っていうんですよ、ショパンの」
「あら、曲名も素敵」
僕は曲を最後まで弾き終わってから、彼女にそう伝えた。
「僕もそう思います。今日は大事な人にこの曲を捧げたくて」
「へぇ、そうなんですね。奥さんとかですか?」
「ええまあ、そんなものです」
少し顔を赤らめながら僕は受け答える。それと同時に椅子から立ち上がって、財布の中から五百円玉を取り出す。
「ドリップコーヒー一杯分のお値段ですか? でも、お代は結構ですよ。いつも素敵な演奏をしてくださるので」
「いえ、いいえ」
女性マスターは好意でその発言をしたのだろう。もちろん僕はそれを理解していないわけではない。
「僕が、払いたいんです。十年前からずっと、ドリップコーヒー一杯と幻想即興曲のためにこの店に足を運んでいたので。お題を払わないとなんかこう……今まで積み重ねてきたものがなくなる感じがしませんか?」
「たしかにそうですね。そういうことでしたら、お題の五百円はしっかりと頂戴いたしますね」
女性はにこやかにそう告げて、僕から代金を受け取った。
「おいしかったです、コーヒー。ごちそうさま」
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
恭しく腰を折る彼女に背を向けて、僕は店をあとにする。
月野レイは、死んだ。享年二十二歳だった。彼女の患っていた病気にしては、長生きしたほうではあるらしい。僕と彼女が『現世界』に戻った時は彼女は十八になる少し前だった。二十二まで生きることができて、よかったと思う。それだけの時間があれば、僕が星から月になるのには十分だったから。
僕の名前は月野ジン。旧姓は星宮。僕は彼女の家に婿入りした。特に迷いはなかった。その決断をするのには十分な時間があったし、その間に十分なつながりを得た。
彼女は、月になることができなかった。月は自ら輝けないから、運命に排除されたのだ。
その点で言えば僕も彼女と同じだ。ただの星だ。自ら輝く力は持っていなかった。だけどそれでもいい、と思う。僕は彼女のように、月を目指すだけだ。夜を見守る月になる。周りの期待を浴びて光り輝く。そうやって、生きていく。
それがきっと、彼女への餞になるだろうと信じて。
醒めない夢の向こう側にいる一筋の光へ、この曲を送る。どうかこの旋律が、あなたに届いていますように。
どうしようもなく月になりたかった 夜海ルネ @yoru_hoshizaki
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