第2話 提案

 前に、こんなに飲んだのは、いつ以来だろうか? ずっと対戦に備えて酒を断ち、酒の味すら忘れかけていた古田が、ここまで飲むのは久し振りのことである。

 だが、それもそのはずである。今日の対局の中盤に、相手の美山が、露骨にハンデをくれたのだ。しかも、タイトルの掛かる一戦でだ。

「弱っちいなあ、お前。ホレ、ハンデやるから、もう少し頑張ってみろ!」

古田には、美山の目が、そんな風に語っていたように思えてならなかった。そこから、終盤にかけて奮起した古田であったが、中盤までの試合運びの失敗を取り戻すには至らず、今年に入って三つ目のタイトル喪失となった。


 ここは、今日、初めて入った店である。出きるだけ目立たないお店を求めて、ふらふらしていた記憶はある。幸い、ここ数年のタイトル戦で稼いだお金が山程ある古田は、多少の料金のボッタクリなどを気にするような懐事情ではないため、とにかく自分好みの、静かに一人で飲める雰囲気の店を求めていた。ここは、そういった人たちにとって最適な、程よい高級感のあるバーであった。すでに古田は、数え切れ無いほどの回数、グラスを空けていた。

「わたしの勝手なわがままで、ロックにさせてもらったよ。」

バーの女主人は、古田がストレートで頼んだにも拘わらず、勝手に氷を入れたようだ。古田は、もはや、それが不快かどうか、判断も付かないぐらい酔っていたし、一口飲んだときの冷たさが、とても気に入ったので、クレームではなく、

「ありがとう…。」

という言葉を呟いた。


 奥の方で静かに飲んでいたと思われる男性が、

「お隣よろしいですか?」

と、尋ねてきた。

「一人で飲んでいるんだ。悪いけど…。」

そう断ろうとした古田だったが、男性の片方の目が、人間離れした輝きを放っていたので、言葉を言い切る前に止めた。過分に酔っていることは自覚していたので、今の自分に出来うる最大の力で意識の集中を高めて、もう一度その男の片方の目、左目を見つめた。

「宝石、なの、か?」

たどたどしい、途切れ途切れの質問となったが、その光る目を持つ男は、理解したようで、

「はい。」

と言って頷く。そして、

「最近の義眼は、ものすごく出来が良くて、まるで本物の瞳のようなものまであります。でも、せっかく義眼という、他の方には真似出来ない特別なステータスを得たのです。わたしは、そんな紛い物ではなく、宝石を目に入れることにしました。」

古田は視線をグラスの中の氷に合わせ、くるんとコップを回し、氷が音を立てるのを見たあと、

「面白いな…。義眼はハンデではなく、ステータスだと…。」

「ええ。お隣よろしいですか?」

二度目の質問だが、今度は、古田は断らなかった。男は軽く会釈をした後、グラスを持って、カウンターの古田の隣の席に着いた。

「歳街屋成道(さいがいや なりみち)と申します。」

そう名乗った光る目を持つ男は、名刺を古田の手に渡すのではなく、古田のグラスの脇に置いた。

「記憶銀行営業部?」

肩書きにはそう書かれていた。酔いのせいで漢字を誤読した可能性もあったが、向かいの男はそれで合っていると返事をし、さらに、

「文字の通りです。普通の銀行とは違い、貸し出す物はお金ではなく…。」

「記憶だと言いたいのか? は、オレはもう寝ちまったようだな。夢の中ならば何の不思議もない話だ。」

義眼の男は微笑みながら、

「夢の中だとしても、貴方にとって有益な取引になると思いますので、もう少しお話を聞いていただけないでしょうか?」

「そうだな。夢の中でも、オレに都合のいい話ならば、大歓迎だ。」

光る目の男も、ここで、自分の持ってきた飲み物に口を付ける。独特な色の液体も宝石のように輝いて見える。カクテルであろう。

「記憶を必要としていませんか?」

「んん?」

意味が分かりかね。古田は沈黙を守った。男が続ける。

「乾いたタオルが、水を吸い込むように、いくらでも吸収することが出来る、まっさらな記憶の領域が手に入ったとしたら、貴方は何に使います?」

(そうだな…。美山琴吹を徹底的に研究して、ヤツを倒すための戦法を編み出したい…。)

古田が自嘲気味に笑ったので、男は、どうしたのですか? と尋ねる。

「いや、こんなに酔っていても、やはり今日の負けが、気になってしょうがないようだ。貴方に記憶をもらったらどうすると言われて、将棋のことが思い浮かんでしまうなんて、もはや病気だな…。それを忘れるために飲んでいたのに…。」

「いえ、それだけ、大切に思える事がある人生。普通の人には手に入れることなど出来ませんよ。それより、お話を続けてもよいでしょうか?」

「ああ。まっさらな記憶が手に入るとか。」

義眼の男を見る角度を少し変えるだけで、宝石の光り方が変わる。そんな事をぼんやり考えながら古田は男の言葉に耳を傾ける。

「銀行の業務は、ご存じですよね?。」

「ああ、お金の貸し借りだろ? 要は。」

「そうです。通常の銀行ならば…。ですが、先程申しましたように、わたくしどもの銀行が取り扱っているのは、お金ではありません。」

「おいおい。記憶の貸し借りでもするというのか?」

義眼の男は頷くと、

「あなた様が、それを望むならば。」

「オレが?」

「あなた様が、それを望んでいるように見えました。」

「オレが、記憶を必要としている?」

義眼の男は、ええ、と返事をし、そして、

「ご融資いたしましょう。あなた様へ、記憶の領域を。」

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メモリー・バンク 記憶銀行 彩 としはる @Doubt_Corporation

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