メモリー・バンク 記憶銀行

彩 としはる

第1話 プロローグ

「古田七冠、これで三つ目だね、タイトル落とすの。」

「ああ、インタビューでは、強がっていたけど、俺、あの後、先生が車に乗るとこ、たまたま見かけたんだ。そしたら、もう目が虚ろで、アレは、相当きてると思うぜ。」

「去年が、ピークだったのかねえ…。」

 将棋の七冠の一つ、棋聖戦を終えた会場では、記者たちが、今日の勝利者である美山琴吹(みやま ことぶき)の登壇を待ちながら、思い思いに今日の対局や、差し手の話題を口にしている。


 その中でも、話題の中心は、やはり昨年七冠を手にした古田竜王のことであった。古田は、遅咲きのタイトルホルダーで、三十を過ぎてから、ようやく一つ目のタイトルを手にしたという珍しい経歴だ。しかも、それを失ったり取り戻したり、停滞を繰り返しながらも、年とともにジワジワとタイトル数を増やし、昨年ついに七冠を達成。昨年は、勢いにおいて右に出る者はいなかった。だが、今年のタイトル防衛初戦の王位戦を落とし、今日も含め三つのタイトル防衛に失敗している。


 そして今日の勝者、美山琴吹は、若き俊英として、今売り出し中の19歳で、前回のタイトル戦である叡王戦に続いて、今日、再び古田を破り、二冠目を手に入れた。派手な私生活で、時々週刊紙を賑わし、およそ棋士らしくない彼であったが、不思議と先輩棋士達の評価は悪くない。快活なもの言いと、負けたときの潔さ、何か人を惹き付けるものがあるのだろう。


――― 間も無く、勝利者記者会見が始まる。


「古田先輩は、どうしちゃったんすかねえ。昨日よりはマシすけど、去年対戦させていただいた時とは比べ物にならないです。スランプって奴ですかねえ…。」

開口一番、対戦相手の不調を語りだし、慌ててベテラン記者が、話題の転換を図る。

「中盤の角行の馬成らずは、何の意味があったのでしょう? 解説願えますか。実況の場でも、意味が分からない。うっかりミスか? なんて疑う方もいらっしゃる程で。」

「ああアレね? そりゃそうだよ。1000人中1000人がそんな差し手はしないでしょ。だってアレは、ハンデですから、あ、でも、それでも古田さんに負ける気はしなかったっすね。」

ザワザワっという空気が、記者会見場に広がる。この若者は今、手を抜いたと宣言したのだ。王位を持つ古田に対してだ。失礼すぎる言葉の数々ではあったが、今日の試合を見ていた者のほとんどが、口に出して言いたいことでもあった。今日は、序盤から古田は精彩を欠き、ややもすれば、一方的な展開にすら成りかねなかった。角が成らなかったこと自体は、勝敗の行方に、そこまで絡んでいないが、それでもタイトル戦で、そのようなフザケたことをするこの19歳は、やはり今どきの新しい世代感覚なのだろう。


 会見が終わった美山が通る通路の脇から、花束を持った女性ファンが駆け寄ってくる。美山は、にこやかに花束を受け取ったものの、会場のホテルを出たところで、やはりそこで、出待ちしている人々のところへ出向くと、逆に

「記念にどうぞ!」

と言って、先程もらった花束を配り出す。事情を知らないファンたちは、美山さんに花束をもらった! と上機嫌だが、ホテルの後方から、先程花束を手渡したファンたちは、

「最低!」

と口々に漏らしている。そんな、型破りの美山だったが、ふと一人の女性に目を止めると、露骨に嫌な顔をして、それでも近づいていき、話し掛ける。

「君とは、終わったはずなんだけど…。」

「あら、まだ覚えていてくれたの? もう、そんなに余裕は無いはずじゃない?」

「…。何の用だ?」

「貴方が、終わるところを見に来たんだけど、フフ、まだ今日じゃなかったみたいね。じゃ!」

髪の長いサングラスの女性は、クルリと背を向けると、人混みの中に消えていく。周りのファンたちからは。元カノじゃない? モデルだねアレは。などといったヒソヒソ声が聞こえてくる。美山は、気を取り直したのか、

「今日は、試合が終わるまで待っててくれてありがとう! 次の王位戦は、あんまし待たせないようにするね!」

相変わらずの、ビッグマウスだ。そしてホテルの入り口まで戻ると、待たせていた車に乗り込む。マネージャー兼運転手の美乃里が、

「今日は、どうします?」

と、尋ねてきたが、美山は少し考えるそぶりを見せた後、

「今日は辞めておくよ、さすがに楽な試合とはいえ、疲れてしまったからね。」

「了解しました。では自宅へ。」

美乃里は、そう答えると、ブレーキにおいていた足を外し、車を出立させる。

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