敵ノ防衛線ヲ突破セヨ(二)

 当然と言うべきか、新しい年を迎えたところで何かが劇的に変わることはない。クリスマスにはケーキが、お正月にはお汁粉しるこが戦艦クラマの食卓に供されたけれど、断続的に交えられる砲火がむことはなく、私達の出撃回数が減ることもなかった。




 聖歴一〇九年一月中旬。『しょう作戦』の最終目標であるザリュウガク城砦を一五〇キロメートル先に望みつつも、皇国軍はほとんど前進していない。ルルジア連邦の兵力はまさに無尽蔵で、陸海空全ての戦場においてマヤ皇国側が優勢であるにもかかわらず、継続的に戦線を押し上げることができていないのだ。


 理由の一つとしてNil-24攻撃ヘリコプター、通称【ワニさんクラカヂール】の脅威が挙げられる。

 それは戦車や歩兵戦闘車にとってまさに天敵であり、塹壕ざんごうに身を隠す兵士にとっては神々の怒りに等しい。小銃弾など受け付けないこれに対抗するには塹壕ざんごう内に重量数トンの対空機銃を運び入れるか、高価な上に命中精度の悪い携帯型ミサイルを命中させるしかないのだから。


 これを受けて陸上軍司令官ガイ・テラダ中将は、本人いわく『魔女の画期的な運用法』を考案した。歩兵にまぎれて塹壕ざんごうの中に魔女を潜ませておき、近づいたヘリを迎撃させようというものだ。




 二年余りの前線勤務を経験している私だけれど、これまで塹壕ざんごうの中に入ったことはなかった。蟻の巣のごとく複雑に張り巡らされたそれを上空から眺めていただけだ。


 だからこうして地中に身を沈めてみると、ここは今まで私が経験したことのない戦場なのだと思い知らされた。舞い降りる雪が泥となり、誰かが流した血と混じり合って足元に溜まる。土嚢どのう袋と木箱が積み上げられ、屋根を模した薄っぺらい板の下で何人もの兵士がうずくまって寒さをしのいでいる。嗅覚などとうに麻痺しているのだろう、血と汗と火薬と土と靴下を鍋でぐつぐつ煮込んだような匂いにも顔をしかめる人はいない。


 人間の生存限界とされる上空数千メートルも、対空砲火の雨に晒される低空も過酷な戦場だと思ってきたけれど、ここは違う意味で人間の限界を試されているかのようだ。敵の車両や航空機におびえつつ衛生状態も何もない地中に身を潜める恐怖と苦痛はいかばかりだろう。


「魔女さん、これをどうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 二十歳前後と見える兵士から手渡されたのは金属製のマグカップ、その中には褐色の液体が三分の一ほど満たされている。

 新たに掘られた魔女専用の待機場所。即席の屋根も折り畳み椅子もあるそこで温かいコーヒーを頂くなどどれほどの特別扱いなのか、誰も彼も血と泥にまみれて揉み合いつつ擦れ違う様子を見れば嫌でも理解できる。


 そのような寒くて狭くて暗くて怖い蟻の巣の中で、異物である私は航空黒衣フライトローブを着た体を縮めてただ座っているしかない。慣れない塹壕ざんごうの中は歩き回ることすら困難で、背中の飛行ユニットが皆の邪魔になってしまうからだ。

 だから寒さとコーヒーの利尿作用で先程からトイレに行きたいなどとは、とても言い出せるものではない。ここで言うトイレというものがどのような場所なのか、想像するのも恐ろしいという理由もあるにはある。


 しばしの後、榴弾りゅうだんの風切り音に続いて戦車がキャタピラで大地を噛み、歩兵戦闘車のエンジンがうなったのは私にとってある意味で救いとなった。作戦が始まれば尿意どころではなくなるのだから。




 地中から寒空を見上げればはるか上空に交錯する火箭かせん、先程からナナイケ基地航空隊の戦闘機と魔女、ザリュウガク城砦の戦闘機と天使が砲火を交えている。

 自分がそこにいないのがもどかしい、もし戦場に散るならば泥の中ではなくあの大空でありたいというのは、あまりに過酷な地中から空を見上げれば当然の願いなのかもしれない。


 一式重戦車の主砲が咆哮を上げ、歩兵戦闘車が大地を踏み荒らし、塹壕ざんごうを飛び出した兵士の小銃が律動的リズミカル薬莢やっきょうを吐き散らす。

 間もなく敵軍から報復の砲火が上がり、一式重戦車が対戦車砲の直撃を受けて炎上しても、歩兵戦闘車が地雷を踏み抜いて横転しても、足を撃ち抜かれた兵士が同僚に引きずられていっても、私は七・七ミリ連装魔銃の黒い銃身を握り締めたまま黙然と座っていた。この弾雨の中に赤い魔銃弾が混じれば魔女の存在を知られてしまうためだ、陸上部隊にどれほどの損害が出ようと決して動いてはならないと厳命されている。


 だから私は待った。無茶な突撃を繰り広げる味方の惨状に目を閉じて、時が来るまで。獲物が罠にかかるまで。


 来たか? 来た。連続的に空気を潰すようなローター音、立ち上がり塹壕ざんごうから顔を出せば空には土色に白斑の爬虫類を思わせるシルエット、機体下部の可動式機銃、【ワニさんクラカヂール】に間違いない。


「ウェリエル、翼部展開! 離陸テイクオフ!」


『翼部展開完了。離陸テイクオフ


 私は土中で数年を過ごしたせみのように、長らく夢見た大空に向けて飛び立った。身を切る寒さも、目に痛いほどの光も、空を舞うには強すぎる風も、今は何もかもが心地良い。


 見据えるは正面二〇〇〇メートル、陸上兵器に対して絶対の優位を誇る捕食者。【ワニさんクラカヂール】と呼ばれる彼は魔女をも喰らうべく、獰猛どうもうな牙のごとき可動式機銃をこちらに向けた。

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