堕天-フォールダウン(四)

 黒雲が渦巻き、風が吹き荒れ、空がきしむ。楽園イルドゥンはもはや楽園たり得ず、住人たる天使は熾天使セラフィムゼガリエルの怒りの雷霆らいていがいつ頭上に落ちるかと恐れおののいている。


「怖くはないか、ソロネ」


「うん!」


 不吉極まる空の下、後ろを振り返れば黒い翼。小さき悪魔は無邪気な笑顔を見せた。

 さといソロネのこと、自らが置かれた状況を察しているに違いない。有り得ぬ天候、サリエルとの会話、あれほど禁じていた雄木アルボロの外への逃避行。この子は全てを理解した上で私に笑顔を向けているのだ。


 実際に行動に移してみれば、迷うほどのことは無かった。

 ゼガリエルの生贄いけにえにソロネを差し出すことなどできぬ。融合フューズの素材とすることもできぬ。気まぐれに連れ帰ったこの悪魔は、いつしか私自身よりも大切な存在になっていたのだ。ならばこの身がどうなろうとソロネを守り切る、天のはてまでも逃げ延びる。それが私の責任であり、選択だ。微塵みじんの後悔もありはしない。




「どこへ行く、ウェリエル」


 濁った空の下、聞き慣れた声に振り返ればサリエルの姿。下級天使を十匹ばかり連れているところを見ると、早くも私の意図は露見したのだろう。楽園イルドゥンにおいてはあり得ぬはずの雨が互いの翼を濡らす。


「ウェリエル、神命に逆らうつもりか?」


「神命だと? ゼガリエルは神ではない」


「だが俺達を産み落とした偉大なる存在だ」


「それがどうした。飢えて泣きわめくなど悪魔の子供でも有り得ぬ醜態、でかい図体ずうたいをして見苦しい」


 雷光がはしった。一拍置いて轟音が地を揺らす。


ちるか、ウェリエル」


「私は私よりも大切なものを知った。是非もなし」


 サリエルの目に殺意の光が灯り、その右手には光の剣が現れた。当然のことだ、天使われわれの間に友誼など存在しない。


「叛逆者をめっせよ!」


 一斉に挑みかかる下級天使、だがその行動は私の予測するところであった。折り畳んだ両の翼を一息に開放すれば無数の白き羽根が奴らを打ち据え、雨滴にかつて同胞であった者の赤が混じり合う。自らの翼がもはや純白の輝きを失いつつあることを、今更ながらに自覚する。


「行くぞ、ソロネ!」


 何よりも愛しいものを小脇に抱え、暗灰色の翼を広げて同色の空へとけ上がる。この不吉な色は今の私に相応ふさわしい、だがまだ足りぬ。もっと黒く、もっと暗く、願わくばこの子と同じ漆黒の翼を授からんことを。




 どれほどの時が経ったのか。さすがに翼に疲労を覚えて草原に降り立てば、目前に巨大な扉。黒地に銀の縁取りが施され、地をう者どもの姿が浮き彫られたそれは、人界への門扉。距離や方角が意味を為さぬこの楽園イルドゥンにおいて、辿たどり着いた場所がすなわち目的地。私は無意識に人界への逃亡を望んでいたのだろうか。


 だが。扉に手を触れ、やはりと落胆する。

 この扉は次元を隔てた異界に通じる門ゆえに、第三位階以上の者でなければ開くことができぬ。ひるがえって第三位階以上の者は押しなべて巨躯であるため扉をくぐることはできぬ、それがことわり。私ではこの扉を開くことはかなわぬということだ。


「そこまでだ」


 背後に現れしはサリエル、陰雨いんうの向こうには数多あまたの天使。

 どうやら奴の言う通り、これまでのようだ。ソロネと融合フューズ座天使スローンとなるつもりであった私だが、この子に絶望を与え屈服させるなど思いもよらぬし、もはやそのような時間もあるまい。


「もはやこれまで。力の限り逃げよ、お前は私の――――ソロネ?」


 小さき悪魔がうつむき震えだす。これから訪れる絶望を思えば無理もない、そう思ったものだが――――


 ただならぬ気配に振り返れば、ソロネの体は闇色の球体に包まれていた。それは雷光を伴って瞬く間に膨れ上がり、奇怪な生物へと変化へんげしていく。捻じ曲がった二本の角、背中には漆黒の翼、裂けた口に乱杭歯らんくいば、力強く長大な尻尾。悪魔と呼ぶしかない巨大なそれは存在するだけで全天を圧するかのようだ。


「馬鹿な……ウェリエル、お前は何という者を……」


 うめくようなサリエルの声は、それに万倍する咆哮に引き裂かれた。

 空が震える。地がおののく。天をくそれを浴びた天使どもが羽虫のごとく地に堕ちていく。

 これは第三位階悪魔、ソロネ。突如として顕現けんげんしたその存在に絶望したのは彼らであり、恐怖したのは私であった――――




 一方的な蹂躙じゅうりんの時が過ぎ去り、やがて私に問いかけたのは小さき悪魔。


「ウェリエル様……ソロネのこと、怖い?」


「……怖いものか。私はお前が何より愛しいのだから」


 第三位階たるソロネが開いた扉の向こうには軽やかな薄雲を浮かべる蒼穹そうきゅう、それを映す水の連なり。人界とは、人間とは、どのようなものであろうか。


「怖くはないか、ソロネ」


「えへへ、だいじょうぶ。ソロネもウェリエル様が、いとしい? から」




 未開の森で、遥か高山で、絶海の孤島で、私達は共に時を過ごした。いつしか私の髪は漆黒に染まり、顔や体つきも、声さえも悪魔のそれに変わっていた。


 そしてあの日。空が割れ、白き翼の者どもが襲来した。いよいよ飢えたゼガリエルが餌として人間を欲したのだろう。


 来るべき時が来た。私は戦うすべを持たぬ人間の前に姿を現し、ひたすらに天使をめっした。野蛮であると避けていた人間は意外にも私に恩を感じ、共に戦うことを望んだ。

 そして彼らは実に様々な感情を有し、豊かな言葉でそれを表現することを学んだ。私はソロネに対するこの感情を何と呼ぶかを知り、ソロネは私のことを人間の言葉で『肉親』を意味する『お姉ちゃん』と呼んだ――――




「ま、聞いた話だけどな。お前はウェリエルよりずっと短い時間で『お姉ちゃん』と呼ばれたんだ、大したもんだよ」


 悪魔メリリムは最後に残った皇国酒をあおりつつ、そう締めくくった。


 ウェリエル。ソロネのために堕ち、人間のために落ちた天使。あまりにも小さな私の背中は、果たして彼女の思いを背負えるだろうか。



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