堕天-フォールダウン(三)

 雄木アルボロをサリエルが訪ねて来るのは初めてではなかったが、かなりまれな出来事ではある。どうやら私が一向にゼガリエル様の御前に顔を出さぬのをいぶかしく思ったらしい。ついでとばかり雄木アルボロから勝手に果実をぎ取り口に運ぶのをとがめようとしたが、先に口を開いたのはサリエルの方だった。


「なんだこいつは、悪魔ではないか! 貴様どういうつもりだ!」


 枝に吊るした布袋の中で眠るソロネを見て奴は大声を上げたものだが、別に私とてやましい事はない。


「慌てるな。【融合フューズ】の素材として連れ帰ったまで」


「ならばすぐに屈服させれば良いではないか。楽園イルドゥンにて悪魔を飼うなど、ゼガリエル様に知られればただでは済まんぞ」


「無学な奴め。『成長』を知らんのか」


 どうやらサリエルは悪魔が成長することを知らず、より良い素材となるには時間が必要であると告げればようやく納得した様子であった。

 悪魔どもは時間をかけて『成長』し、最盛期を過ぎれば徐々に生命活動が衰えやがて停止する、これを『寿命』と呼ぶ。現在の悪魔どもの劣勢は、強力な個体であった第一位階悪魔が寿命を迎えつつあることが起因しているのだ。


「ふむ。気の長い話だな」


「少しは外の世界を知ると良い。悪魔も人間も、なかなかに興味深いものだぞ」


「興味が無い。それよりもこの件、ゼガリエル様に報告しておくぞ。俺まで連座させられてはたまらぬ」




 事態が変わったのは、それからどれほどの時が流れた頃だろう。想定よりも遥かに時間を要したものの、ソロネは私の胸ほどの背丈となり、それなりの知識と知恵を持ち、生意気にも口答えさえするようになっていた。


「ソロネ、あまり遠くに行ってはいけないと言っただろう。あてもなく探す身にもなってみなさい」


「だって、青い蝶々ちょうちょさんが『こっちおいで』って言うんだもの」


「それは『迷いの蝶』だ。お前をだまして冥府めいふに連れて行こうとしているのだ」


「めいふ?」


「そうだ。暗くて深くて怖い、二度とは戻れぬ死者の国だ」


「きゃー!!」


「怖いか。ならば雄木アルボロの枝の下から出ぬことだ。わかったな?」


「はあい」


 幸いにしてソロネは素直で、私によく懐いた。ただ時に果実を食べすぎ、時に雄木アルボロの枝を折り、時に時に高く舞い上がりすぎて帰れなくなり、さんざん手を掛けさせてくれたものだが。

 しかしこの子はまだまだ未熟、【融合フューズ】の素材とするにはまだ早い。もっと時間をかけて『成長』させてから絶望を与えて屈服させ――――




「――――ソロネを連れて出頭せよ、だと?」


「そうだ。ゼガリエル様の苛立いらだち、この空を見れば理解できよう」


 サリエルが親指で指し示す通り、光の園たる楽園イルドゥンにはいつの頃からか暗雲が立ち込め、消える気配も無い。

 このような事態はかつて無いものであるが、原因はとうに知れている。第一位階【熾天使セラフィム】ゼガリエル様への供物くもつが足りぬのだ。


 天使われわれの軍勢は第二位階悪魔バルベルゼをめっして魔界を席捲せっけんしつつある。それは良い、だが戦いが優勢になるにつれ供物くもつとして捧げる敵対者が得られなくなっているのだ。飢えたゼガリエル様は苛立いらだち、絶え間なく黒雲を吐き出している――――


「ウェリエル様、何のお話?」


「……いや、こちらの話だ。しばらく遊んできなさい」


「はあい」


 ソロネは魔の森で見つけた頃から見ればずいぶんと成長したようだが、仮に融合フューズを果たしたとしても私は第三位階【座天使スローン】止まりだろう。あの子の犠牲をもってしてもゼガリエル様と並び立つことはできぬ。


 それにソロネは、これほどまでに愛らしく『成長』した。


 聡明ですぐに言葉を覚えてしまったこと。表情が豊かで見ていて飽きないこと。食べ物を与えるとそれを楽しむように、惜しむようにゆっくりと食べること。棲家に戻った私を無邪気な笑顔で迎えてくれること――――




 自分が産み落とした者に対してならば何をしても許されるのか? あの限りなく醜悪な存在にこの子を捧げよと?


 胸がざわめく。視界が赤く染まる。理不尽に対する底知れぬ怒り。この時自らの翼の先端が僅かに黒く染まったことに、私は気付いていなかった。

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