堕天-フォールダウン(二)

 奇怪な森だ。木々はじ曲がり、青緑色の葉は針のようにとがり、果実はとても食する気になれぬほど毒々しいまだらに染まっている。それらが落ちた地面は腐臭を放ち、足を踏み出すたびに過剰な水分がにじみ出て、ただでさえ重く沈んだ気分を滅入めいらせる。いかに神敵蔓延はびこる魔界とて、これほど不毛な地もまた無いだろう。


「ウェリエル、そんな所で何をしている」


「サリエルか。どうにも気が進まぬ、先に行くが良い」


 馴染みのある声にも私は振り返ることなく、肩まで届く髪にまとわりつく湿気を振り払った。

 力天使ヴァーチェサリエル、時を同じくして熾天使セラフィムゼガリエル様より生み出された存在ではあるが、それについて思うことは無い。ただその中で第五位階力天使ヴァーチェに到達したのは彼と私だけという事実は存在する。


なまけ者が。神敵は目の前だというのに、そんな事では神罰が下るぞ」


なまけ者で結構。いかにゼガリエル様の目とて、この魔の森深くまでは見通せまい」


 先日この魔の森にて第二位階悪魔バルベルゼの軍勢を打ち破った我々は残党を狩りつつ、その居城の包囲を狭めている。もはや陥落は時間の問題であり焦る必要はないというのに、此奴こやつの上昇志向はとどまるところを知らぬ。今にも門を打ち破って神敵を討ち取らんばかりの勢いだ。


 呆れた様子のサリエルを見送り、ひときわじれた大木の下で息をく。

 嫌な森だ。木々は八方に枝を伸ばし、とがった葉から立ち上る瘴気しょうきは空をけがし、空をくこともままならぬ。栄光ある天使たるこの身が腐汁したたる地面を踏み締めるなど、全くもって不快極まりない。


「降りて来い、見えているぞ」


 先程から頭上の気配にも、樹上に潜む黒々とした影にも気付いてはいた。サリエルを先に行かせたのは獲物を横取りされぬためだ。


 天使われわれは悪魔を始めとする敵対者を多くめっすれば位階が上昇する。下級天使として生み出された者であってもおおむね第六位階に達すれば自我を得、さらに上を目指すこともできる。力ある敵対者を滅すればそれだけ上位の位階に近づくことができるのだから、その機会があれば同行者を出し抜くのは当然のことだ。


「む……?」


 だが樹上で震えるそれは確かに二本の角と黒い羽根を有しているものの、取るに足らぬほど小さな悪魔だった。あまりに小さく弱々しい、こんなものを滅したところで何の足しにもならぬと捨て置こうとした私は、ふと思いとどまった。


「いや……融合フューズの素材とするか」


融合フューズ】、対象の存在を完全に吸収すること。敵対者を滅する【亡滅カタストロ】に数倍する位階上昇が期待できるが、対象の完全な屈服と同意を必要とするため現実的ではないとされている。屈服とはつまり従属の強要であるというのに、強要された同意は認められないというのだから矛盾している。


 背丈は私の股下にも届かぬほどで、肩の高さに切り揃えられた漆黒の髪と赤味を帯びた目は神の敵対者であることを明らかに示している。私は震えるばかりのこの小さな悪魔を捕らえ、連れ帰った。時間をかけて屈服と同意を刷り込むも良し、面倒になればめっしても良し。それは大した期待もなく興味本位、つまりただの気まぐれであった――――




 楽園イルドゥンと呼ばれる光の園。そこでは距離や広さという概念は意味を為さず、そこに在ると思えば在り、無いと思えば無い場所。雄大に枝を広げる一本の大木、雄木アルボロと名付けたそれが私の在る場所だった。


 位階の上昇を除いては生まれ落ちた時から姿の変わらぬ天使われわれとは異なり、悪魔は『成長』するのだという。成長とは時を経ることで肉体が大きく強くなり、精神が充実し、より強大な存在となること。つまりこの悪魔を成長させてから融合フューズの素材とすれば、より良いかてとなり大幅な位階上昇が期待できるということだ。


「どれ、これをしょくすがいい」


 雄木アルボロから黄色の果実を一つぎ取り、どうやら弱っているらしい悪魔に与えてみる。大きすぎるそれを持て余す様子に苛立いらだった私が果実を細かく砕いてみれば、ようやくそれが食料であると気づいたようだ。恐る恐る果実を口に運び、歯を立てる。


 どうやら気に入ったのか大きく目を見開き、小さすぎる口でゆっくりと噛み締めるように、楽しむようにやたらと時間をかけてそれを飲み込むと、小さな悪魔はやがて眠ってしまった。

 あまりに無防備なその姿。泣きらした目をぬぐえば、小さな手で私の指を掴んだままどうしても離さぬ。どうやらは私の理解が及ばぬ代物しろものであるようだ。


「まあ良い。十分に成長させてから融合フューズを果たせば、私は少なくとも第三位階には達しよう。お前は栄光ある座天使スローンかてとなるのだ。ソロネ、そうだ。ソロネと名付けよう――――」

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