力天使サリエル


「サリエル様、お帰りなさいませ」


 へり下った笑いを浮かべる人間どもに一瞥いちべつも与えず、かつてこの国の王が居住していたという宮殿へと歩を進める。


 色褪いろあせた壁、剥げた屋根、漂う腐臭。石灰石で舗装された地面と朱色で統一された建築物の数々はかつて美しく保たれていたというが、現在では見る影もない。




 人間どもの言葉でシエナ共和国と称するこの国は、極めてあっさりと天使われわれの支配を受け入れた。初撃で鋼の翼を持つ者どもを滅し、指導者らしき者をひねり潰したのみで絶望し、殺し合い、比較的賢い者は許しをうた。我々には十億の民がいる、何人差し出せば自分は助かるのかと。

 限りなく浅ましい、だがそれで良い。天使われわれこうしうる武器を手にした、それ自体が人間どもの罪。地に額をこすりつけて許しをう他に道はない。




 だが人間の全てがそうではなかった。面白いことに奴らは居住地によって異なる価値観を有し、様々な選択を見せることがある。現にマヤ皇国と称する国は、此奴こやつらとは異なる道を選択した。魔界を追われた悪魔と手を結び、忍耐強い特性と独自の技術力をもって未だに頑強な抵抗を見せているのだ。


 もう一つ興味深いのは、人間に共通すると思われる『美醜』という考え方だ。天使われわれに近い容姿である者は美しく好ましい、そうでない者は醜く嫌悪される。

 それは容姿だけでなく行動にも適用される。同胞のため勇敢に挑むことは美しく、強者にびへつらうことは醜いとされる。それに照らし合わせれば今の俺は――――




 今にして思えば、悪魔どもと雌雄を決する戦いには心が躍った。互いの存在を賭けて魂の咆哮を上げ、雄敵を滅し、仲間を蹴落としてのし上がる。第六位階に達し自我を得た俺にとって、明日をも知れぬが故に満たされた日々であった。


 しばし忘れていたその日々を呼び覚ましたのが、魔女と申す者ども。悪魔の翼を受け継ぎ空を舞う奴らとの戦いは再び俺の血をたぎらせる。互いの存在を賭け、魂をぶつけ合い、そして滅する。それでこそ俺自身の醜さを一時ひととき忘れ去ることができる。




 人間にとっては巨躯であろう俺にとっても巨大な扉、その両脇に立つ第九位階天使がうつろな目を開いたまま佇立ちょりつしている。このような気を失わんばかりの腐敗臭の中で立ち尽くすとはご苦労なことだが、大した自我も無い下級天使に同情するいわれなど無い。


 扉が音もなく開かれ、強烈な光と腐臭が吹きつける。さすがに俺とて目をつむり半歩後ずさりかけたが、意志力を総動員して踏みとどまり歩を進める。


 薄目を開ければ、外からの弱々しい陽光とは比較にならぬまばゆい光。いや、そのような言葉では到底追いつかぬ光の暴力。あまりのそれに目を開けることすらままならぬ。

 もはや頼りにならぬ視覚を排すれば、ねばつく床が触覚を、この世ならぬ刺激臭が嗅覚を満たす。そして聴覚はといえば――――




「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……」




 その声、いや、音ですらない何かが頭の中で鳴り響く。意味を為さない、だが逆らいようもない強大な意思の塊。

 微かに耳に届くぴちゃぴちゃという何かを舐め取るような水音。まぶたかんばかりの光の濁流の中にぼんやりと浮かび上がったそれは……


 巨体の全てを覆う純白の羽根、それぞれ獅子・雄牛・人・鷲に似た四つの頭部、背中に生えた六枚の翼、それらの中央で見開かれた巨大な眼球。




 第一位階天使【熾天使セラフィム】、個体名ゼガリエル。




力天使ヴァーチェサリエル、まかり越しました」


 ぴちゃりと水音がみ、返ってきたのは無形むぎょうの圧力。頭の中で反響する強大な意思。


「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……」


「くうっ……」


 無理に言語化すればそうとしかしるすことのできないに、思わずうめきを漏らした。辛うじてそこから読み取れたのは俺をとがめる意思。


 察するに俺が人間どもに敗れたことを、何らかの方法で知ったのだろう。怒り、苦しみ、苛立いらだち、不快、焦燥、孤独、恐怖、およそ思いつく限りの負の感情が押し寄せてくる。


「ぐ……!」


 俺は人間どもがそうしたように、粘つく床に額をこすりつけた。底知れぬ恐怖が屈辱を塗りつぶし、嗅覚などとうに麻痺している。


 クソが。たかがアンシャンとやらいう鉄の島を一つ失ったくらい、たかが数十の下僕しもべを失ったくらいでこれほどの罰を……

 いや、そうではない。これは俺の心の内を見透かしたが故の仕打ちだ。俺はゼガリエルの懲罰を受け入れ、心からの服従を改めて誓った。


「くはっ……!」


 突如として苦痛から解放され、俺は無様ぶざまにべちゃりと両手と尻をついた。五感が蘇り、光の波濤に押し流されるようにしてようやく退出を果たす。




 呼吸を整え、自らが生きていることを思い出し、次いで蘇ったのは感情。屈辱、汚辱、憤怒、無念、耐えがたい激情が胸に渦巻く。


「醜い、なんと醜い……!」


 まだ見ぬ『神』という存在は自らの姿を模して人間を作ったという、だが天使われわれはどうだ。

 生贄に捧げられた人間を溶かしては吸い上げるというは、魔界の最奥部にて滅した『蠅の王』と何ら変わらぬではないか。


 がなぜ神の代弁者などと称しているのか、なにゆえ天使われわれは位階が上昇するごとに神の姿からかけ離れていくのか、俺には理解できぬ。




 ――――いや、本当に醜いのは俺自身だ。強者にびへつらい、恐怖し、震え上がる。俺は自身の怯懦きょうだを吐き散らすかのように、底すら見えぬ曇天どんてんに向けて咆哮を放った。

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