4.今日は間に何を置く
顔を合わせたのは、彼が出張から戻った三日後だった。
出社した時、互いに「何か有る」と直感した。
これがお互いを思いやるが故の第六感なら凄いが、そんなことは全く無い。
ニムもブラックも、仕事とは関与の無い紙袋を持っていたからだ。
「お、おはよう、ブラック……」
「おはよう、ニム」
ちらちらとやけに大きく怪しい紙袋を見ながら、ニムははにかんだ。
「えっと……この間は――……」
「待ってくれ」
軽く片手を上げて遮る男に目を瞬かせると、彼はずいと前に出てきた。
気圧されるように一歩退いて、はっとした。既に社員の目が集中している。
「そ、そっちも待って!」
同じくすかさず出した片手と声に、更に視線を集めたが致し方ない。
「こ……此処は目立つから、あっちの部屋を使おう……!」
隠れると怪しいのだが、この晒しもの状態で落ち着いて会話ができるほど図太くはない。――おい、誰だ鼻で笑ったのは。
多分、人の目は気にしないだろう男は薄ら笑いで頷いてくれた。
「了解した」
やれやれと思いながら小さな会議室に入ると、美男が漂わす香水やら色香やらプレッシャーにくらくらした。無理もない。殆ど目の前に立っている。
「……いや、近くない?」
謝るつもりが、先にツッコミが出てしまったニムに、ブラックは小首を傾げて一歩だけ退いた。にこォ……と笑った顔がちょっと怖く感じるのは、こちらの気の持ち様だろうか。
「ニムに渡したいものが有るんだ」
「そ、その様だね……」
言われるまでもない。実は先程から釘付けになっている。
なんだか重そうだ……武器弾薬じゃあるまいな、と失礼極まりない想像をしたニムだが、彼は珍しくウキウキした様子で紙袋をテーブルに置くと、それを取り出した。
「そ……それは……‼」
仰天して上げた声は、決してオーバーリアクションではない。
ブラックが、恐らく喜色満面なのだろう――どこか自慢げに出したのは、なかなか立派な鉢植えだった。吊るせるようにマクラメ編みのプラントハンガーまで付いている鉢に植わっていたのは、艶のある鮮やかなグリーンの葉の下に、大人の手のひらほどもある隆線型の筒が幾つもぶら下がった植物。
「ウツボカズラじゃないか……‼ え、しかもこれ、大きいやつ? ネペンテス・ラジャ? あ、いやコレ、トランカータかな⁉」
警戒心をかなぐり捨てて植物に飛びついたニムに、ブラックは満足そうに頷いた。
「トランカータだ」
「うわああカッコいいぃ~~綺麗……この捕虫袋のサイズ! 口の赤い縞模様……! あ、何かもう入ってる……アリ? ハエかな?」
「蓋が空いていないのもあるんだ。飲んでみよう」
「Way? おお、本当だ。開いていないのは小さいんだな~……」
ブツブツ言いながらニヤニヤしていたニムは、ようやくハッとした。
「う、嬉しいけど……どうして……? クリスマスには、まだ早いよ?」
彼は笑みを浮かべたまま、斜め下を見た。言葉を選ぶような仕草の後、思い立ったように言った。
「正直に言うと、ニムの作品を読ませてほしい」
やはりそう来たか、という顔をしたニムだが、ブラックは軽く片手を上げて続けた。
「だが、俺がこの要求を通すことで、ニムと会えなくなるのは嫌なんだ。だからこれは反省を示すもので、交換条件や賄賂ではない。先日のことは、すまなかった」
少し残念そうに言うと、落ち着いた調子で付け加えた。
「ニムは俺に色々なことをしてくれたが、俺はこれまで、形で返したことは無かったように思う。こういうことをしたことが無く、よくわからなくて……師匠やボスに相談したんだ。喜んで貰えたら嬉しい」
じっと聞き入り、ニムは猛省した。
ブラックはこれまで、誰かに誕生日を祝ってもらったこともなければ、誕生日がいつなのかさえわからず、まともなクリスマスを過ごしたこともないのだ。
そんな彼が、プレゼントをする最初の相手に選ばれたのか。
たかが昔の作品如き、読ませてなるかと抵抗した領分の狭い自分が?
「僕は……君にひどい事を言ったのに……」
ぽつりと呟いて、ウツボカズラを振り返った。言うまでもないが、これは熱帯の湿度の高い地域に育つ植物だ。冬のロンドン――大抵が切り花や可愛い花を付ける植物を扱うフラワーショップでこいつを探すのは容易ではない。
見る人には不気味に映るだろう植物を眺めて、ニムは鼻を啜った。
何が泣けるのか、他人にはわかるまい。
これは、奇跡なのだ。
武器を持ち、人を殴り殺し、飢えと痛みに傷つけられて壊れてしまった男が、相手が喜ぶだろう贈り物を選び、捜し歩き、購入してプレゼントした、奇跡の証なのだ。
「ブラック……君はすごい……それに引き換え、僕って奴は全くひどい……」
「何故だ? ニムはひどくなど無い。優しくて、何でも知っている」
「……違う……そんなこと無いんだ、ブラック……」
「また色々教えてくれ。この前のように、俺はわかっていないことが多いから」
「違ァァァァうッッ!!」
唐突に全身で吼えたニムに、さすがに気圧されたらしいブラックがぽかんとした。
やはり驚くと笑顔が一瞬飛ぶ――いや、そんなことを気にしている場合ではない!
「ブラック……!!」
何故か眼下で仁王立ちになって目を血走らせるニムを、ブラックが戻ってきた薄笑いと共に軽く眉を寄せて見下ろす。
「な……何だ……?」
「僕を殴れ……!!」
びしっと音が聴こえそうな勢いで、ニムは己を親指で指した。
沈黙が落ちた。
「……何故だ?」
尤もな問い掛けをしたブラックに対し、ニムはその胸倉掴まんばかりに詰め寄った。
「いいから殴れ……!!」
むしろ殴り掛かりそうなニムに、引き気味にブラックは首を傾げる。
「ニム……俺が殴ったらタダでは……――」
「殴れっつってんだよォォッッ!!」
必死の形相で命じた男の頬に、説得は不可能と悟ったブラックの無造作な拳がヒットした。トラックに跳ねられた麦袋みたいに宙を飛んだニムが、同じく麦袋みたいに壁に叩き付けられて床に落ちた。
「……だ……大丈夫か?」
何一つ腑に落ちないブラックが声を掛けると、這いつくばったニムは頬を押さえ、ちょっぴり涙目になりつつ頷いた。
そこで、バン!と扉が開いた。おぞましい形相で立っていたのはペトラだ。
彼女はギロチンの刃を思わす目でニムとブラックの双方を見て言った。
「何の騒ぎ?」
『……』
どちらもすぐに返事ができないと見るや、喪服の麗人はぴしゃりと言った。
「静かにしなさい」
『Yes……
つい、作戦時の呼び名をハモらせた二人をもう一度睨みつけ、女は静かに扉を閉めて出て行った。
それを呆然と見送ってから、ニムは近付いて来たブラックに言った。
「ごめん……僕が悪かったよ…………」
今度は頭を垂れて謝ったニムに、ブラックはいよいよ混乱した。薄笑いのまま、あちらを見、こちらを見、ニムを見て、完全に脳がパンクした様子で停止した。
「……どういうことだ?」
「要は、勝手だったんだ、僕は」
床に座り込んで拳を握り締め、ニムは呟いた。
「君と友達になろうとして、僕は色々したけど……だいぶ手前勝手だったってこと。挙げ句、思い通りではない行動をとった君の気持ちを無下にした」
「それは、俺が無理を言ったからだろう?」
「……理由は何であれ、人の想いを踏み躙るのは良くない。君に正しいことを教えたいと思いながら、君に自分の価値観を押し付けた。ごめんよ、ブラック……」
彼はしばらく棒立ちで聞いていたが、こちらに向けて片膝折った。
「そんなことを気にしていたんだな。俺の方こそ、気が付かずに悪かった」
「君が謝ることじゃないんだってば……」
苦笑すると頬が痛い。良い香りを漂わせ、彼はセクシーな苦笑いを浮かべた。
「痛かったろう?」
顔を傾けて殴った頬を眺める仕草を見て、ニムはぽつりと言った。
「君……何しても絵になるねえ……」
「絵?」
「女王に謁見する騎士みたいだ……」
幻でも見ているように頬をぱんぱんに腫らして言う男に、ブラックは仕方無さそうに微笑んでから、忘れ去られたように置いてあった紙袋を振り返った。
「ニム、それは何なんだ?」
「あ、あ――……それはね……」
よっこらしょと重たげに腰を上げて袋を持ち上げた。中を覗き、頭を搔いて、期待をする黒い目をちらりと振り返り、一旦、袋を閉じた。
「なんで閉じる」
「う……いや、その……何度も言ってるけどね、恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ……君の贈り物が素敵だから、尚更……」
言い訳を並べ立てたらそこそこの男が、ああだこうだと言うのをブラックは薄笑いで見つめた。やがて、言うことが無くなったらしい男はようやく言った。
「……僕の、昔書いたものと、最近書いたもののコピーで――……」
じれったい調子で出て来た紙袋を、ブラックは突風でも吹いたように掻っ攫った。
「ち、ちょっと! どんな勢いだよ!」
腫れた頬を尚赤くして喚くニムの手から、絶対に渡さんという仕草で紙袋を抱え、さっそく冊子を捲り始めるブラックである。
「も、もう! これから仕事だろ! 後にしなさい!」
すっかり初期の保護者面で言うニムに、ブラックは冊子を握りしめたまま微笑んだ。
「ニム」
「な、何だよ……?」
「とても嬉しい。最高の贈り物だ」
見たこともない笑顔だった。
変だな。彼はいつも笑った顔なのに。これが……ブラックの本当の笑顔なのか?
「いつもありがとう、ニム」
不覚にも内側から込み上げたものに、ニムは口元を押さえて呻いた。鈍痛がひどくなってきた頬の側から涙が溢れてきて、もはや痛くて泣いているのか胸が熱いのかよくわからなくなった。
「……そんなこと……いいんだ、ブラック……」
「これを読んでしまったら、ニムとはそれきりではないよな?」
「当り前だろ。そんな意地悪言わないよ」
「良かった。俺はニムと、これからも友達で居たい」
「もちろんさ……僕たちはこれからもずっと友達だ」
目の前の闇が、春の夜のように微笑んだ。それは、呪いが解けるみたいに。千年の眠りから覚めるように。涙を拭いながら頷いたニムは、次の瞬間、黒い両腕にぎゅ、と抱き締められた。情報処理が追い付かない頭を、ブラックが幼子かぬいぐるみにするようにぽんぽんと叩いた。
「……えー……、と、ブラック……これは……どちら様のご指導だい……?」
「ボスが、泣いている相手にはこのように優しく介抱するようにと」
「ひぎぃぃ……ボスぅぅぅううううう……‼」
鼻水を垂らしつつ、不肖ニム・ハーバーはブラックとの永久なる友情と、ボス・スターゲイジーへの壮大な復讐を誓ったのだった。
さて、それで全てが丸く収まったかというと、そんなことは全く無い。
あれから、ブラックとは何度か揉めた。……いや、ペトラ曰く、ブラックはいつも通りで、白アスパラガスが一人で七転八倒しただけらしい。
しょうがないだろ。
その後に有った弊社のクリスマス・パーティーで、社員やらその家族やらに大人気で、ずっともみくちゃにされるブラックと、一言も会話ができずにお開きになれば寛大な僕とていじける!
ものすごく悩んで用意したプレゼントも有ったのに!……と、面倒なガールフレンド面していたが、彼はちゃんとこちらのプレゼントも準備してくれていて、その日は家で飲み直して丸く収まった。
――やっぱり、男色の気があるかって?
無い。無い筈なんだ。だって、僕たちは性交渉を要求しないし、あれからやましい接触は一切していない。
ブラックが要求したのは、あくまで本であり、読書だった。
そして彼は本が関わると、とんでもなく強引な男だった。
書いた本人としては忘れてほしい作品群を読ませた後、彼はひと月後に言った。
「ニム、出版の許可が出た」
「は……――……は?」
「『ネペンテスの窓辺』だ。出版社が本人から話を聞きたいと」
「し、出版社? ブラック……君、まさか……!!」
飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになりながら、血相変えて叫んだ。
お分かりだろうか。この愛くるしい大熊は、作者に断りなく、作品を出版社に持ち込みやがったのだ。例のコピーを! 紙袋さえもそのまんまで!
何という大胆な犯行だろう。しかも、反省の色は全くない。肌以外、正真正銘のクロである。顔でパスしたんじゃなかろうなという目で見ると、彼は実に良い顔立ちでいけしゃあしゃあと言った。
「先生の作品は面白い。世に出すべきだ」
「せ、先生……? やめてくれよ、ブラック……僕は只の――……」
「アポイントは取った。一緒に行こう」
斯くして白アスパラガスのニム・ハーバーは彗星の如く、作家デビューを果たした。
才能が有ったかどうかはわからない。時勢や運もある世界だ。出版元との相性というのもある。
その出版社の代表は、会いに行った日、電話に向けて叫んでいた。
「バカ野郎! ウチはそんなもん取らん! 人工知能が書いた作品なんぞ何が面白いんだ!? ……はあ? ジャンル枠のある作品なんぞ要るか! 富豪の泥沼もガキ共の下らんロマンスも一般人の日常生活も見飽きたわ! 現実的なSFはSFじゃねえ! 片っ端から切っちまえ!」
薬物でもキめていまいかと思う代表は電話を切ると、血走った目でこっちを見た。
「来たか新人! さあ、
だいぶイカれてる。
そのイカれた男に「半ば賭け」などと言われて愛想笑いもひきつったが、ともかく――ニム・ハーバーは望まれるまま灰汁だらけのスープ(作品)を提供し、作家デビューを果たしたわけだ。
”万一”の為、ブレンド社には在籍したが、表向きは作家に落ち着き……周囲にやんややんやと言われながらのデビューである。
心の何処かで憧れていた生活は、想像の範疇の何割増しか忙しかった。
無論、最初から順風満帆だったわけではない。忙しいことと儲かることはイコールではないからだ。「ペンは剣よりも強し」というが、締切りを首切りの日と勘違いしていそうな担当編集者がペンをふりかざして絶叫する様を見て、なるほど……ペンは物理的な力も有ると思い知った。
以前からパソコンと向き合う業務が多かったとはいえ、調査会社のそれとは違う上、基本的には自宅で一人作業である。
何でもササッと調べてくれるギブソンも居ないし、優しくお茶を勧めてくれるラッセルも居ない。ボスのヘッドロックやペトラの雷すら懐かしくなり、ランチを共にする相手が居ないのもしょっちゅうで、柄にもなくちょっぴりセンチメンタルになったこともあった。
人を作家の道へと引きずり込んだブラックもどんどん忙しくなり、ペトラやラッセルの後をコガモのように付いて行く様から一変し、一人であちこち飛び回るようになった。やがて土産を買うのを覚え、変なものも随分買ってきた。
彼の感覚も少々バグっている様で一抹の責任を感じたが、インドネシアの恐ろしげなお面を入手してきて人の家に飾ったり、夜中に呪われていまいかと思うような不気味なカエルの香立てを置いて行くという暴挙も行われた。
本に至っては相も変わらずハーバー家の本棚は勝手に物色し、自分の部屋では異常なほど増やし、減らしては増やし、ラッセルが定期的に雪崩が起きると苦笑していた。
互いの新たな生活が一年も経った頃、ニムは静けさを求めて今の家に引っ越した。
ラッセルの家と同様の長屋続きのテラスハウスだが、彼ほどまめに世話もできないので、庭は元々在った芝生だけ整えていたら、「寂しい」と言ったブラックが何処からかマートルの鉢植えを運んできて勝手に置いた。
いや、人の家に勝手に置くとかコイツ正気かと思ったが、ブラックがこんなことをするのは自分だけなので、やっぱり口論するまでもなくほだされてしまい、ペトラに「ヒモとヒモの綱引き」と言われてしまった。……どんな意味だよ?
なけなしの家主の権限で、責任をとって世話するようにと言い付けたものの、出張の多い彼のこと、こちらが健気に水をやり、日向に置き、剪定する羽目になった。
それはそれで毎日見ていると愛着が湧くし、枯れたら彼がガッカリしてしまう……うーむ……やはり我々はヒモとヒモなのだろうか?
出張から帰ると、彼は成長を嬉しそうに眺め、甲斐甲斐しく世話するので尚のこと始末が悪い。マートル嬢もこのハンサムに世話されるのを喜ぶように、春には小さな白い花火がぱっと開いたみたいな愛らしい花を沢山咲かせた。あのデビュー作にも登場するウツボカズラこと、ネペンテス・トランカータも元気にしている。
――その隣にコウモリランが増えたのも、ヒモ……じゃない、ブラックの仕業だ。
一生、「まあ、いいか」と流してしまいそうで恐ろしい。
そんなマイペースな彼は二度目の冬が巡る頃、独り寝が落ち着かないと凄まじい文句で泊まりに来た。同居しているラッセルに頼めとも言えず、色々と抵抗してから一緒に寝た。何か間違いが起きてしまいそうなのに、えらく安らかに眠るので、端正な顔を眺めて夜を明かしてしまい、自身の性癖を真剣に悩む羽目になった。
彼が深く眠るのが怖いと打ち明けてくれたのは、その時だ。
なんと卑怯な奴だろう。
そんなことを言われたら、もう断れないし、そろそろ一人暮らしを始めろとか恋人になってくれる相手は幾らでも居るだろうなどと口が裂けても言えない。
「いつでもおいで」と言って、寝るだけだと言い直すと、彼は笑った。僕も笑った。
……まあ、そんな具合だ。
今と同じ。
「おはよう、ブラック」
コーヒーに湯を注ぐ傍ら、のそのそと起きて来た彼に声を掛けると、ぼんやりした顔で微笑んだ。
「おはよう、先生」
何度やめろと言っても改めてもらえなかった「先生」の呼び名も慣れてしまった。
まあ、いいのだ。先生と呼ぶからといって、ブラックの態度はちっとも変わらない。
勝手に人の家に植物を増やし、棚から本を持ち出し、昨夜のようにベッドに潜り込んでくる。……何ならもう少し気を遣えと言いたいぐらいだ。
寝ぼけ眼で黒のスウェット上下などというルーズな格好をしていても大したハンサムは、挨拶にでも行くように、冬は屋内の窓辺に居るマートル嬢に近寄った。
……たまに、寛いだ背中を見ていると不安になる。
ブレンド社は悪党と対峙するが、決して正義の味方ではない。むしろ、社会的に正義の立場から睨まれることだって有る。清濁併せ吞む団体には後ろ暗いことも沢山あるし、それは人の生死に関わることも少なくない。彼はその最も暗い部分を請け負う。
彼が何処かで、あの笑顔を剥がすことができない限り、一生そうなるだろう。
深く眠るのを恐れる彼が、昨日までの仕事で誰かを殺めていないといい。その不安定な感情が正常に動き始めた時……罪の重さに押し潰されてしまわないように。
「よく眠れたかい?」
「ああ、よく寝た……」
マートル嬢を眺めながらあくびをした男に、ニムは苦笑いを浮かべた。
おかげさまでこっちは寝不足だ。彼がよく眠れたのなら、それも悪くはないけれど。振り向いた彼は無造作な黒髪を搔き上げて笑った。
「良い香りがする」
「そりゃそうだ。君はこのコーヒー目当てで此処に泊まるんだろ?」
「Oh……誤解だ、先生。俺は大事な友達の顔を見に来ている」
「よく言うよ……君、僕に何か言うことがあるんじゃない?」
コーヒーカップを手渡しながら、心底呆れた顔で言うと、彼は美味しそうに一服してから首を傾げつつ言った。
「ありがとう、先生」
「あのね、ブラック……それは正しいが、そうじゃない。僕は、君が昨晩の内に連れ込んだ美女について聞きたいんだが?」
うんざり顔で指差すソファーの上に、それは居た。
美女には違いないが、人間ではない――猫だ。スリムな茶トラの猫は、くりくりと丸い緑眼が愛らしい。
実は昨晩の内から存在に気付いていた。眠れなかったのはこの宿泊客の所為でもある。大人しく足元に丸まっていたので刺激せぬよう過ごした次第なのだが……
彼はコーヒー片手に猫を見下ろした。
「彼女は……」
「彼女は?」
「猫の調査で連れて来た」
しれっと言い放つ男にコーヒーをぶっかけなかったのは我ながら素晴らしい理性だ。
代わりに非常に丁寧な抗議の目を向けた。
「ブラックゥ……? さすがにそれが嘘なのは僕でもわかるよ……?」
睨んだこちらに対し、ブラックは猫に屈みこんで笑い掛けた。
「昨夜、ベティのパン屋辺りから付いてきてしまったんだ。警察に届けようにも時間が遅い。首輪も無いし、辺りに飼い主らしき者も居なかった。冬の夜に放り出しておくのは可愛そうだと思ったんだ」
彼が慈悲深く成長したことは実に喜ばしいが……此処で許すと、この調子で今後も色々拾ってきそうだ。厳しいようだが、初犯でガツンと言わねばなるまい。
「まったくもう……事と次第じゃ、窃盗犯になってしまうんだからね。飼うには予防接種も要るし、トイレやゴハンも準備しないと――」
ブツブツ言って、飼う話が生じていることに気付いて慌てて首を振った。
「ま、まずは仮にも調査会社なんだし、ギブソン辺りに調べてもら……あ、今日は日曜か……いや、先に警察に迷い猫の相談が来ていないか連絡しなさい!」
「わかった。その前に彼女の食事を買いに行こう」
呑気なことを言いながら、ブラックは挨拶するように近付いた猫の顎を撫でた。
大人しく撫でられる仕草や、なんとなく小綺麗な感じからして飼い猫の経験が有りそうだ。一緒に起きて来て窓の前に立つので開けてやったら、庭の隅でトイレを済ませて帰って来た。猫は綺麗好きというから大抵そうなのかもしれないが、育ちの良いお嬢さんらしい。付いて行った相手も間違いない……見る目がある。
「綺麗な目だ」
猫を眺めて言うセリフが口説いている様で妖しいが、確かに綺麗な目だ。毛の模様はそこらで見かけるものだが、はっきりした緑に青が差す目は珍しい。
「まあ、可愛いけどさ……君、猫が好きなんだっけ?」
「格別とは言わないが、この目が先生とそっくりで、つい」
ナチュラルに出たヒモ発言に、コーヒーを吹き出しかけたニムは森と称される目をキッと向けた。
「ブラック! 君はそういうところが宜しくない!」
そう、宜しくない。実はこの猫、しょうもない事件の発端となるのだが……それは別の話だ。
間に本を置き、コーヒーを置き、植物を置き、今日は猫を置いて。
僕らは相変わらず、今もそんな風に一緒に居る。
白アスパラと黒い熊 By BLEND COMPANY sou @so40
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