3.白と黒は迷走する
退去を命じられた理由を理解できぬまま、笑顔でブラックが帰宅していった翌日。感染症で丸一週間臥せった時よりも、近所の工事のドリル音が三日三晩続いた時よりも、ペトラに頼まれた調査で貫徹した日よりもグロッキーな顔で、ニムは出社した。
いっそ仮病で休むのも手だったが、それで家に来られては堪らない。
案外、親切なラッセル辺りが心配して来てしまうのも非常に困る。
できれば会わないで済ませたい……
会ったら何と言えばいい……? 昨日のアレは具合が悪かったんだ、とか?
いやいや、あんな大声を出しておいて、そんな言い訳が通じるのか?
悶々としながらデスクに向かう途中、神は救済よりも試練を選んだとわかった。
通り抜けねばならない休憩スペースにて、彼は他のスタッフと談笑していた。
以前は人が話すのを笑顔で聞いているだけだったのだが、だいぶ受け答えが板について来たので、紳士的な上手い切り返しとちょっぴり残っている天然ボケが良い具合に花を咲かせている様だった。
既にフロアには彼の良い香りがしていたが、その深いオークモスを身に着けて尚、犬並に鼻が利く男はこっちを振り向いた。
こちらは香水も着けていないし、匂うほどの体臭も無ければシャンプーの類も穏やかな香りなのに、何故わかるのだろう。
「ニム」
昨日のことなんか何も気にしていない美貌の笑顔に、どんな顔をしただろう。
おはよう、と片手を上げる彼に倣うように片手こそ上げたが、引きつった笑みを浮かべるのさえおざなりに、ニムは声も無くすぐに目を逸らした。
そのまま振り返ることなく、とんでもなく忙しい人間であるかのようにデスクに急ぎ、視線の在り処を求めてパソコンを開いた。いつもは呑気に始めるそれの数倍は画面に集中して、タスクを処理し始める。
ギンギンに集中したのは、無論……反対に意識が散漫としていたからだ。
――さっき、少しだけ、笑顔が消えたのを見た。
あの表情は……一般人で言う所の、「あれ?」というような軽微な驚きに見えた。
さては、驚くと笑顔が剥がれるのか。
クソ、やってしまった。
悪気は無かった。いや、気まずさから逃げたのを悪気と言えば100%悪気だ。
「ニム」
「ぎゃあッ!」
悲鳴を上げたニムに何事だという視線が集まり、いつの間にやら傍らに立っていたブラックが困ったような笑みを浮かべていた。
「どうした?」
「……ど……、どうって? どうもこうも無い……どうってことないよォ?」
そんなわけあるか。完全にどうかしている。声は裏返ったし、視線は泳いだ挙句にパソコン画面に逃げ、市場トレンド調査の結果にお天気情報を打ち込んでいた。
「今日、仕事が終わったら家に行ってもいいか?」
「なんで⁉」
常軌を逸した問い掛けに、つっけんどんに訊ねてしまった。
再び視線が集まる。数名が、何か有ったのかと不安げな目を向け、数名が「またこいつら面白い事でも始めたか」という顔をした。
ブラックはニムの反応も周囲の視線も何処吹く風で、小鳥みたいに小首を傾げた。
「昨日の続きが読みたい」
ニムは画面に向かってうんざりした。
何なんだ、その飽くなき執念は。一日空いたら……何かがリセットされると思っているのか?
「……だ……だめ。絶対ダメ……」
お天気情報を消しながら、見向きもせずに言った。
「そうか。明日は?」
頭を抱えたくなった。……ポジティブか? それは良い事だが、そうじゃない。
「……ダメ」
そう言う度に、喉の奥に何かが刺さって膿む気がした。当然だ。僕は今、無垢で純粋な友に、自分の都合で嘘を吐いている。
「じゃあ、いつなら良い?」
ブラックの調子は変わらない。普通の人間なら察するか、気分を害すか――傷付くだろう対応に、うっすら微笑んだまま訊ねてくる。
「わ……悪いけど忙しいんだ。後にして……」
何か薄汚いものをぼとぼと落とすような気持ちで言うと、ブラックは「そうか」と呟き、あっさり離れて行った。胸に迫るオークモスが離れ、ニムはちらりとその背を見た。彼は先程のスタッフらの所に戻り、再び話し始めた。皆、彼が居て楽しそうだし、彼も楽しそうだった。少なくとも、無理やり笑んでいるようには見えない。
画面に戻り、溜息を吐いた。
生命力が空気に溶け出てしまうようなそれだったが、憂鬱な気持ちはちっとも出て行かないようだった。
集中と注意力散漫がぐるぐると回転し、作業は進んだが、一部に有り得ないタイプミスをした。休憩時間になるや、猛然とデスクを立ち、いの一番に馴染みのパブに駆け込んだ。
「まー……どうしたのよ、ニム?」
物凄く腹が空いたように飛び込んできたわりに、早くも胃もたれらしき表情の男に、看板娘はきょとんとした。
「……ポリー、いつものちょうだい」
「あらあら、しょぼくれちゃって。また、ペトラに叱られたの?」
非常に的を射ている問い掛けだったが、今日は違うので首を振った。
名実共に白アスパラガスと化しているニムは、すぐに彼女が置いたランチのボリュームに辟易した顔を上げた。
「……今日、多くない?」
指さしたのは、ローストビーフにヨークシャープディング、焼いたじゃがいもなどにグレイビーソースというプレート――ロンドンっ子が愛するサンデーローストだ。
日曜に出す店が多い中、平日も提供してくれるこの店が大好きでしょっちゅう来ているのだが、見るからにローストビーフが山盛りだった。
カウンターの向こう側で、看板娘は可愛らしく笑った。
「新人が仕込む量を間違えちゃったの。
「新人か……新人……じゃあ、しょうがない……新人だし……」
新人に嫌な思い出でもあるような顔でブツブツとフォークを握る姿に、ポリーは不審そうに眉を寄せた。
「もしかして、失恋? 珍しく一人で食べに来てるし」
「ち、違うよ⁉」
急に大声を上げた男に、看板娘は皿を拭きながら目をぱちぱちした。
「ジョークなのに。ホントにやばそうね、ニム」
「そんなにやばそう……?」
「タリスカー飲み過ぎた客と、どっこいどっこい」
「そんな富豪気分じゃあない……昨日飲んだもの全部が泥水だった気分だ……」
「フーン」
興味のない様子で、厨房から出て来たサンデーローストを次の客に運んで行った彼女は、戻って来てからちょっと身を乗り出した。
「ね、ニム、今日はブラックは来ないの?」
拷問のようにローストビーフや焼いたジャガイモをもそもそと食べていたニムは、本当に刑罰の最中であるような目を持ち上げた。
「さあ……どうかな。此処のランチは美味しいって気に入ってたから、誰かと来るかもしれないけど……」
「ニム~……そのセリフはいつもみたいに美味しそうに食べて言ってくれない?」
「……面目ない」
「ブラックと喧嘩でもした?」
口に押し込んだローストビーフを吹き出しかけた男は、慌てて片手で押さえて飲み込んでから胸をどかどか叩いた。
「な……なんで……⁉」
「だって、いつもは彼のこと聞くと、聞いてないことまで嬉しそうに喋るじゃない」
「うっ……、そ、そうだけど……」
仰る通り、我が子の自慢よろしく、余計な事も喋った気がする。
「喧嘩じゃない……と、思う……」
肩身が狭そうにシュー皮みたいなヨークシャー・プディングにグレイビーを付けて食べながら、自信のない一言を吐く。パブのカウンターとはいえ、真昼間に弱音に発展してしまうのは恐縮なので、頬杖ついた看板娘に訊ねてみた。
「ポリー、友達と喧嘩したことある?」
「あるわよ。誰だってあるでしょ。殴り合ったことは――無いと思うけど」
「僕も殴り合ったことは無いけどさ……殴り合ったら間違いなく僕が病院送りだし……」
そんな状況に追い込まれたら、呑気にサンデーローストを食っている場合ではない。
「君は、どうやって仲直りするの?」
「うーん? あんまり意識しないわね。しばらくは相手が悪いと思ってツンケンしてるけど、アホらしくなってきて謝っちゃうから。相手もそうだもの」
「素晴らしい
「簡単よ。ひどい事されたんなら別だけど、友達同士の喧嘩の原因なんて、大体下らないものでしょ」
”ひどい事”の文言に、ニムは焼かれたじゃがいもを鼻に突っ込みそうになりながら慌てて口に押し込んだ。
翌日のあだ名が「白アスパラガス」から「チキン野郎」になりそうなニムは、終業と同時に脱兎の如く退社した。
もはや完全に逃げることしか考えていない、まごうことなきチキンだ。
ここ最近のブラックのスケジュールを
まずは今夜を乗り切り――対策を考えよう。
家に居るのはまずい。何処かに出掛けなくては。一緒に行った事がある場所はダメだ、すぐにバレる……ギブソンなどの友人宅に転がり込むのも心配されてしまうだろうし……いっそ、ラッセルの所に行くか?
ブラックが師匠と呼ぶ彼が間に入れば、さすがの色男も無理やり事には及ぶまい。
い、いや、しかし……彼が居なくてブラックだけが居た場合、最も最悪なパターンと化してしまうんじゃ……?
よ、よし……今日は土曜だ、良い機会だと思って、行ったことのないパブでも開拓しよう! もしかしたら運命の出会いがあるかもしれないし……――
などと思いながら着替えようと――、一旦、自宅に戻ったのがまずかった。
これでも素早くシャワーを浴び、着替えを済ませたのだが。
今にも出ようとした際、チャイムが鳴った。
暗い玄関ドアを振り向いた気分は、ホラー映画のそれだ。
「ど……どちらさま?」
「ニム、俺だ」
いつも通りの低い声が響いた。ストーカーか? 頬がひくついた。
「や……やあー……ブラックゥ……な……何の用~……?」
「あの続きを読ませてくれ」
「だっ……ダメって言ったろ⁉」
しつこさなら一家言持ちと思しき男に言い返すと、彼は変わらぬ調子で言った。
「頼む。何でもするから」
「何でもって何……⁉ あのね、ブラック……ダメって言ったらダメ!」
語彙力が壊滅的になってきたドア一枚挟んでの応酬に、めげないストーカーも業を煮やしたか、首でも捻る様な間を置いてから、ひときわ良い声を出した。
「ニム……ドアを開けてほしい」
わずかに切ない嘆願に、寒空の下、すすり泣く子犬が浮かんでしまったが、大急ぎで振り払った。クソ、負けてたまるか……‼
「……わ……悪いけど、会いたくない……」
ドア越しに、言った。
「……何故だ?」
その問い掛けは微量の驚きを孕んでいたので、笑顔が剥がれている気がした。
「き、君が無理を通そうとするからだよ……会ったらまた、実力行使に出るだろ?」
正論の筈だ。前科が無いとは言わせない。
返事はいやに遅かった。ドアの前に立っている感は有るが、動く気配もない。
……たぶん、笑っているだろう。どんな気持ちになろうとも剥がれない笑顔で。
……ブラック、今、どんな気持ちだい? 僕は最悪だ。
知り合いを――ましてや、友達を門前払いしようとするなんて、初めてなんだ。
ブラックは沈黙していた。
気配は伝わるが、感情まではわからない。……まさか、蹴破ったりしないよな?
ふと、物騒な想像をしたとき、それは静かに響いた。
「……わかった」
低い声の後、踵を返す靴音がした。
……気落ちして聴こえたのは、染み付いた親心故だろうか。
「おや、ニムの所に行ったのでは?」
ハーブティーのカップを傾けるだけで様になる紳士の問い掛けに、ブラックは頷いてから、首を傾げた。
「行ったが、入れて貰えなかった」
「ニムが?」
意外な回答に、ラッセルは目を瞬かせた。
体調でも悪いのかと腰を浮かせる師に、弟子はまた首を傾げた。
「わからない。俺が無理を通そうとするから、ドアは開けられないと言われた」
「おやおや、一体何をしたのかな」
まあ座りなさいと促された男は、ぼんやりと立ち尽くしてから、向かいにそっと腰掛けた。カップを運んできてハーブティーを注いでやりながら、幾らか断片的に事情を聞いたラッセルはちょっと吹き出した。
「師匠、笑わないでくれ」
「これは失礼。貴重な経験をしているね、ブラック」
「貴重……?」
「軍事会社に居た頃は、無理を通そうとした事など、無かったのでは?」
ブラックは頷いた。
ブレンド社に来たばかりの頃、目の前の師と社長のスターゲイジー、統括部長たるペトラの三人に聞かれるままに過去を喋った。
その日食べること、その日生き残ることが規範だった生活について、三人は物静かに聞いた後、みだりに他人に話さない様にと念を押した。
殴られること、蹴られること、数名に嬲られること、殴ったこと、蹴ったこと、命じられるまま行った性交渉、人も獣も殺して、殺して、殺されそうになりながら、結局は一人生き残ったこと――あの生活が異常なことであり、普通の人間がやることではないというのを理解し始めたのは最近のことだ。
ニムとの会話で、略奪と暴力の世界を何気なく開示すると、彼は森のような両眼を見開いたり、眉を上げたり下げたり、時に涙ぐんだりと様々な反応をした。
「師匠、作品を読まれるのは、そんなに嫌なことなのか?」
「さて……それはニムにしかわからない。彼がそこまで抵抗するのは珍しいから、嫌なことには違いないだろうね」
「俺は……どうすればいい?」
「ニムの作品を読むために?」
「違う。ニムとこのまま会えないのは……嫌だ」
薄笑いからの言葉は、知らぬ者が見たらふざけているかと思うかもしれないが、黒い双眸は真剣だった。色気のある声で子供っぽいことを言う男に、ラッセルは穏やかに微笑した。
「友人は、ニム以外にも居るのでは?」
試すような問いを投げた紳士に、ブラックはちらと黒い目をもたげ、首を振った。
「ニムのような人物は他に居ない」
「それは皆同じだよ、ブラック。人間は千差万別。同じ者は一人とて存在しない」
「……だが……、ニムは……他に代え難いんだ」
「フフ、わかるとも。私にとってもニムは代え難い。何といっても、赤ん坊の頃から育てた他人は彼だけだ。幾つになっても可愛い」
懐かしそうに言う師を、弟子はちょっぴり羨ましそうな顔で見た。
「師匠にとっても、ニムは特別なのか……」
「君は、ニムのどういうところが他の者と違うと思うのかな?」
ブラックは首を傾げながら、そこに何か面白いものが描かれているような顔で虚空を見上げた。
ニムの何が、他と違うか?
初めて挨拶を交わした時も、次に話し掛けて来た時も、何ならその次も、ニムは猛獣を前にしているように怯えていた。取って喰いやしないのに、微かに頬や双肩を強張らせながら話し掛けてきた。そんなに怖いならやめればいいのに、何度も何度も、緊張か恐怖にどもりながら、話し掛ける。
段々、それはほぐれてきて、彼ならではの調子が出て来た。
人の良さや穏やかさ、変に心配性なところ、妙な価値観、子供みたいな好奇心。
――えっ! サンデーローストを知らない……? なんて気の毒なんだ……!
――君、本当にハンサムだなあ……僕が言うのは気味が悪いだろうけど。
――ねえ、ブラック、お肉も食べないと。僕のも食べなよ。君は沢山食べなくちゃ。
――今日は本を読みに行こう。僕のお喋りばかりじゃ、君の頭がどうかしてしまう。
――うわ、それ面白そう……僕も読みたい。後で見せて。
――あっ! あんな所にウツボカズラ飾ってる……! 見たことあるかい? え、知らない? フフフ……あの植物、虫を消化液で溶かして栄養を取るんだ……種類によってはネズミも溶かすなんて話が有ったけど、単に入るぐらい大きいだけでそれは無いみたいだね。何が面白いってさ、あれ、蓋が開く前は飲めるらしいんだ! 弱い消化液だからって話だけど、飲めるって凄くない?
「凄い」
「ん?」
唐突に妙な事を呟いた弟子に、師匠が疑問符を顔に描くが、弟子は首を振った。
「何でもない。ニムは変わっているが……そう……誰が相手でも、軽んじたり、見下したりしない。バラは綺麗だがウツボカズラも綺麗だし、蝶も美しいがカメムシも美しいと言っていた」
「ウツボカズラに、カメムシ……ニムらしい価値観だね」
可笑しそうに頷く紳士も、周囲を優しく包む人だ。一緒に居て、何の不安もない――とても落ち着く。でも、ニムとは違う。ニムはむしろ落ち着かないこともある。
危なっかしくて見ていられないことなど、何度もあった。
先日のスリもそうだが、木から降りられなくなった猫を見つけて助けようと、するする登っていったので眺めていたら、降りられなくなってヘルプを出された。
同僚に頼まれた子守りで子供たちに完全に舐められてボコボコにされていたが、やり返さずに「クソガキ共!」と憤慨していた。寒空の下で木陰をじーっと見ているので声を掛けたら、リスが居ると嬉しそうにした後、自らのくしゃみで追い払った。
いつも、色んな人が彼に声を掛ける。彼は全員と陽気に挨拶し、それぞれの話に耳を傾け、一緒に喜んだり、怒ったり、驚いたり、悲しんだり、笑ったりする。
「師匠……上手く言えないんだが――ニムは、俺が今まで取りこぼしてきたものを、全部拾っておいてくれていた気がするんだ。そんな筈は無いんだが……彼が今日まで溜めていたものを、俺は少しずつ貰っている気がする」
それはまるで、大きな瓶いっぱいに詰めていた色とりどりのキャンディを、事ある毎に「さあ、どうぞ」と渡して来るように。
数々の名作、サンデーロースト、カラフルな動植物に、穏やかですてきな場所、楽しい人々。
ラッセルはゆったりと椅子にもたれ、目元を和ませた。
「君も、短期間で素敵なことを言うようになったものだ」
「そうだろうか?」
「とても誌的で情緒がある。ニムに対しての想いも伝わってくるよ。――さて、では……ニムが持っている素敵なものを無理やり取るのは如何なものだろう?」
「……それは――良くない。ああ、そうか……そういうことか」
「そうだよ、ブラック。相手に悪いと思うことをした時、どうすればいいかは覚えているかね?」
「謝る……」
即答したものの、笑顔にも納得のいかぬ色を匂わす男に、ラッセルは苦笑した。
「その通り。君は言葉以上の実力行使に出たのだから、まずは謝るのが肝要だ。それで解決できないのなら、気の済むまで話し合いなさい」
「話し合うのか」
「そう。自分の意見だけを言ってはいけない。相手の言い分もきちんと聞き取る。それでも尚、通したい要求があるのなら、二人で対策を考えなさい。ニムが言う通り、通らない要求があるということも忘れてはいけないよ」
諭すような言葉に、弟子は大人しく頷いたが、まだ何か言いたげな顔つきでカップを傾けた。その様子を眺めながら、師もカップを傾けてから口を開いた。
「それにしてもブラック、随分と本が読めるようになった様だね」
「ニムのおかげだ。図書館も本屋も、何度も一緒に行ってくれた」
「良い事だ。彼も子供の頃から本が好きで、十歳で大英図書館やマニアックな古本屋に行きたがるような子だった。まだ作品を書いていたとは思わなかったが」
「師匠は読んだことが?」
「ハハ……子供の頃の読書感想文や、課題の作文などが中心だ。頼まれた添削がてら、読ませて頂いた」
「それも面白そうだ」
羨ましそうに言う男が面白くて、ラッセルは忍び笑いを漏らしながら頷いた。
「君は、作家としてのニムのファン一号なのだろうね」
「ニムの作品は面白い。他の人とは違うんだ」
「そうか……ブラック、強引な手に出るのは良くないが、熱意を伝えるのは罪ではない。純粋な気持ちを紳士的に伝え続ければ、いつかニムも許してくれるかもしれないよ」
「紳士的に……そうか――わかった。ありがとう、師匠」
にこりとするや、ぱっと立ち上がった男に、ラッセルはハッとして片手を伸べた。
「ブラック……もしや、今から行こうと?」
「ああ」
「積極的なのは悪いことではないが……今夜はやめておきなさい。大事な話には、タイミングも重要だ」
苦笑しながら宥める師に、弟子は浮かべた笑みにつまらなそうな色を足しつつ、大人しく着席した。
その頃、ニムはよっぽど恐ろしいものと謁見していた。
ディナーを奢る代わりに悩みを打ち明けると、彼女は黙ってショートパスタを口に運んでいたが、明快に眉を寄せた。
「あんた……スタッフ総出でカサノヴァでも作ったの?」
ペトラの蔑む目は傷に海水をぶっかけるほど痛い。相談するのではなかったと後悔しつつも、どうしたわけか“この手”の相談は昔からペトラにしてしまう。
わかっているからだ。
今の自分には、ボスやラッセルの優しい気遣いよりも、遠慮無しにボディーブローを食らわしてくる正論が必要だということが。
そして大抵、この喪服の魔王――じゃない、麗人は、良き知恵を与えてくれる。
「ペトラ……僕は間違っていたんだろうか……?」
「それは、ブラックが取った行動が間違っていたと思うから言ってるの?」
「う、……うん、だってマズイだろ……? 僕に頼み事をする為にそのぅ……」
もじもじすると、麗人はすっと繊手をかざした。
「二度も言わなくていい。あんた達が性的行為に及んだところで私はどうでもいいけれど、想像させるのはやめて。気色悪い」
語尾にしっかりと苦言を串刺し、ペトラは優雅に腕組みして背もたれに寄りかかった。
「ニム、それが本心なら、あんたは最初から間違えてる」
「ど、どういうこと? 僕はブラックの愛を受け入れて抱かれた方が良いってこと!?」
バシン!と息もつかせぬ平手打ちが襲い掛かり、ニムは頬を押さえて呻いた。
周囲の視線が集まったが、通いなれた店のこと、むしろオーナーやスタッフの小さな笑い声が漏れた。何故、寄りかかった姿勢からそんなに早く動けるのだろう……これでもだいぶ目が良いのに、ペトラの攻撃は未だに見えた試しがない。
視線の冷気を2℃ほど下げた目をしつつ、ペトラは椅子にもたれ直した。
「気色悪いと言った」
「……痛い……申し訳ありません……」
「あんたが間違えてるのは、ブラックに対する姿勢よ」
「む……?」
「あんたは今、ブラックが自分の思い通りにならないから、動揺していると言っているの」
さっそく、重い一撃が腹に入った気がして、ニムは顔をしかめた。
「そ、それじゃ僕は……ブラックをペットか何かみたいに思ってるってこと……?」
「思っていないと断言できる?」
二発目が腹を抉った。女は優雅にフォークを使って野菜を口に運び、厳かに言った。
「私は友人関係に、一定の指標は無いと思っている。あんたはその辺、ちょっと神経質すぎると思う。数分の会話で友人になる関係も、長い年月を過ごしたから友人だと判断する関係もあるでしょう。親しさの度合いもそれぞれ。私だって、ハグしたくなる友人なんて何人も居ない」
逆に何人か居ることに衝撃を受けたが、それを言ったら反対側の頬も悲鳴を上げる羽目になりそうなので黙っておいた。
「ボスはあんたにブラックと友人になるようにと言ったけど、あんただって苦手な相手は居るし、そこはブラックも同じ。付き合ってみたけれど合わないことは珍しくない筈。私は、変な使命感で無理やり結ぼうとする友情が上手く行くとは思えない」
今日も良いパンチがクリーンヒットする麗人を、ニムは徐々に整理される思考のまま見上げた。
今、避けている美男が苦手かどうか? ……いや、そんなことはない。
彼の性根は恐れていたそれよりずっと優しく、ずっと大らかだ。先日のスリの件もそうだが、木から降りられなくなった時も、ちびっ子たちの攻撃を受けた際も、こちらをよく見ていて、何か有れば助けようとしてくれる。
「僕……ブラックのことが嫌いなわけじゃないんだよ。むしろ、彼の人柄は好きだ」
「それなら難しい話じゃないと思うけれど」
「そ……そう……?」
「嫌いな相手に歩み寄るのが難しいのはわかる。好きな相手と話し合うのは、それに比べてどうなの?」
衰えを知らない攻撃を繰り出した麗人はエルダーフラワーのハーブコーディアルを飲み、殴打が急所に入ったようにノックアウト――押し黙った男を見た。
「あんたがブラックのフィールドで戦うのは無理よ。でも、あんたのフィールドなら話は別。言葉が通じる相手なんだから、どうにかしなさい」
内心ボコボコにされつつも、白アスパラガスは顔を上げた。
「……僕、もう一度――いや、分かり合えるまで、彼と話し合ってみるよ」
「そう。それは何故?」
厳しい灰色の視線はよく切れる刃物だ。ぼさぼさに伸び生えた森の枝葉を剪定し、良い風が通るようにしてくれる。
おかげさまで、両眼に湛えた森の息を吹き返らせたニムは言った。
「ブラックと、友達で居たいから」
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