2.熊は本に嵌まる

 結局、ニムが助けを求めたのは本だった。

食事に関しては、まずは楽しく食べよう! と、サイトを色々眺める内、気付いたらウサギの形をしたカップケーキだとか、火を食っているのではと思う真っ赤な激辛料理などをせっせとチェックしている自分に気付き、自己が失われそうな危険を感じてやめたのだが。

図書館に行くに当たり、選んだのはカナダ・ウォーター図書館だ。

ほんの少々足を延ばすことになるが、有名な大英図書館なんぞは観光客を含めて混雑しているし、年齢なら充分な適齢とはいえロンドン図書館はちょっぴりお堅い。カナダ・ウォーター駅から目の前に在るこの図書館は、天井の方が広い面積の変わった形の建物だが、明るく綺麗で学習スペースも充実、カフェも併設されている上、週末も開いている良心的な施設だ。

本は良い。

先人の知恵を借りるといえば格式高く聴こえるが、ブラックを迷わず連れていったのはキッズ・コーナーである。それでも大変宜しい。活字に惚れ込んだ今も、絵本は心惹かれるものがある。可愛い絵柄や図柄、簡潔な文字に籠められた豊かな表現、心を打つ物語――そこに良い年の男が二人……それでも良い、本は誰にも平等である――

筈なのだが、司書の不審そうな顔に、ニムは思わずブレンド社の名刺を出して先手を打った。「成人男性が選ぶ子供に読ませたい本の調査」という名目は、少々無理が有ったかもしれないが、そこは有名企業――納得はして頂けた。……若い女性司書に向けて、ブラックが無言で微笑んだからかもしれないが。

ブラックは本だらけの空間に不思議そうにしていたが、ニムが最初に二、三冊を選んで一緒に眺めて以降、見事に嵌まった。すぐに一人で何冊も選び出して読み始めた。ばかでかい美男が、キッズ・コーナーの隅っこにうずくまり、子供向けの本を捲る姿は奇っ怪だったが、熊が読書に勤しむような可愛さもある。

母親たちの熱い視線や、周囲でうろうろしたり騒ぐ子供には目もくれず、大人しく読みふける姿にニムは感動した。

やはり本は素晴らしい!

見ろ! 武器を手放し、本を手にした男のなんと美しい情緒の発露!

――と、思った刹那、ちょっかいを出してきた子供をハエでも払うようにぶん投げた。

「こ、こら! ブラック!」

幸い、柔らかなクッション素材のコーナーに落ちた子供はけろりとしていて、母親は自分の端末に夢中だった。もう一度とせがむ子供から慌てて彼の手を押さえ、ニム・ハーバーの「有り得ない・使いたくない語録」はまた一つ増えた。


――図書館で子供を投げてはいけない。

何故か? 図書館は静かに本を読む場所だからだ!




 いよいよクリスマスが近付いて来た頃。

初来館以来、すっかり本にハマったブラックは、好調にレベルを上げていった。

小学生程度の絵本に親しむ頃、ようやく会話らしい会話ができるようになった。

これが幼児ならば飛び級の急成長だ。ニムは「うちの子は天才だ」とわけのわからん感涙にむせびつつ、オフィスの一角で、借りて来た本――英国一有名と言ってもいい熊の本を読む彼を前に端末を見ながら、執筆中――まあ、個人的な話だが――のネタをメモしていた。ブラックは最近、この帽子とダッフルコート、古ぼけたスーツケースが特徴の熊がお気に入りで、ウエストミンスター区に有るサンドイッチを食べる姿の銅像の前に連れて行ったら、珍しく写真を撮っていた。

「そういえば……ラッセルとは、何を勉強してるの?」

「紳士の心得や、テーブルマナーなどを学んでいる」

ファーストコンタクト以来、彼はラッセルの元に居候している。

妻と死別している男やもめのラッセルだが、ニムが知る限り、あの家はロンドンでも指折りの素敵な家だ。六軒ほどが一棟として繋がる長屋タイプのテラスハウスの一つで、シンプルな家具は使い込まれた良い色だし、ウェッジウッドやバーレイの食器はピカピカ、オリーブの木の下でのんびりお茶を飲みたくなる庭も有る。春には様々なハーブが花を付け、初夏にはつるバラや白いアナベルが花開き、冬にはクリスマスローズがひっそり佇む。妖精でも住んでいそうな庭だ。

「最近は、師匠の庭仕事を手伝っている」

「へー……草むしりなら、僕も手伝ったことがあるけど」

「草むしりと、芝刈りと……剪定はどれを切ったらいいのかわからなくて難しい」

おお、なかなか難しい言葉が飛び出る。

只でさえ色気があるのに、喋るととんでもなくセクシーな彼は、ボキャブラリーが増えたことで更にイイ男になってきた。この頃、一般スタッフとの会話も増えた為、ニムが心当たりのないことも急にするので驚かされる。

ブレンド社のスタッフは優秀揃いだが、実は入社の最低条件に「特殊性癖」か「変な趣味」が必須である変な会社だ。古参のラッセルやペトラ、特例で入った自分やブラックは別として、多くのスタッフが、他人にはゴミ同然のものを集めていたり、かと思うと、心に凄惨な傷を負ったことによる異常行動が有ったりする。例えば、周囲が明るくてもランプを持ち歩く者、定期的に全力疾走しに出ていってしまう者等々。

代表のボス・スターゲイジーが、人種に関わらず、そういう連中をまとめ上げ、外部の人間を害さない限りは寛大に接し、方々ほうぼうから集めているのがブレンド社なのだ。

……何が言いたいかというと、良い面はあれど、弊社は変人の集まりということ。

あのマトモそうなギブソンさえ、デジタルまみれの反動故か、砂時計や日時計などの超アナログ時計が大好きで、砂時計に至っては家の棚を埋め尽くすほどコレクションしている。そのぐらいなら別におかしくは……と思ったら、ベランダには当然のように日時計が設置され、バケツで古代の水時計を作り、休日はそれらがゆったりと時を刻むのを見ながら酒を飲むらしい……

そんな連中と接したブラックが、おかしな趣味に走らないか、ニムは不安だった。

幸い、今のところは有名映画の主題歌を口ずさんでいたり、女性スタッフに爪をピカピカに磨かれたり、ワルツのステップを教わったりしている程度だ。

――はて、我が社は俳優養成所じゃないよな?

「テーブルマナーは懐かしいなあ。僕も基礎はラッセルに教わったんだ。厳しいかい?」

「厳しいが、師匠は優しいし、教え方はわかりやすい」

さすがはラッセル。厳しくても、納得がいくことは意欲的に学べるものだ。

「ボスとも何かしてるって聞いたけど」

「スパイの知識や、女性との付き合い方、美味いクリスプを教わっている」

……あの野郎。

菓子の食べ過ぎは気掛かりだが、ラッセルと暮らしていれば大丈夫だろうか。

「それにしても、女性との付き合い方ねえ……スパイはともかく、君は女性相手なら顔で十分通用するのに」

「顔だけではダメだと言われた。話術や男も磨くようにと。ボスには服や香水も選んでもらった」

「ああ、その香り、君に合ってるよね。オーダーメイドかと思うぐらいぴったりだ」

気付いたら香るようになっていたのは、老舗メーカーの香水だ。森のしっとりした緑を感じるウッディなオークモス。彼は低い声で「ありがとう」と答えた。なまじ微笑んでいる分、女性ならコロリと落ちるだろう。こういう返事が出るようになっただけでも、彼の成長は目覚ましい。

「ペトラとは……何を?」

「ペトラとは…………」

言ったきり黙ってしまったので、あの女が新たな恐怖政治をしていないか不安になった。

「も、もしかしていじめられてる?」

「いじめられてる?」

復唱したので、軍事会社の時と同じような目に遭っていないかと確認すると、彼はすぐに首を振った。

「そういうことは、此処に来てから一度もない」

「あー……良かったー……」

「どうしてあんたが良かったと言うんだ?」

「うん? そうだなあ……僕は君のことを友人として意識しているからね。友人がいじめられるのは気分が悪いし、頭に来るし、何かしてあげたくなるもんだよ」

ブラックは理解できなかったようだが、何となく察したらしい。

「……ペトラが言うことは、俺にはまだ難しいんだ」

「そうかあ……出来ないのと、理解が及ばないのは別のことだものね」

彼はうっすら微笑んだ。

「ニムの言うことはわかりやすい」

きっと、本心から笑ってくれたのだと思う。その違いが目に見えるのは何だか嬉しい。ニムは気恥ずかしげに頭を掻き、そろそろ昼にしようと立ち上がった。

オフィスから店が並ぶ通りに出てくると視線が集まるが、最近は気にならなくなってきた。……というのも、半ば親心――おかげさまで育ってしまった子煩悩は、

「もっとウチのハンサムを見ろ!」

「褒めそやせ!」

「どうだ眼福だろう!」と、脳内で叫ぶようになってしまった次第である。

女性がハンサムを連れて歩きたい気持ちがよくわかる。注目されるのは彼なのに、一緒に居るだけで快感だ。――くどいようだが、男色の趣味はない。

「何を食べようか……そういえばギブソンが、向こうの通りのチキンコルマが美味しくなったって言ってたっけ――」

イギリスではわりとポピュラーなカレーについてニムが白い息と共に喋る途中――突如、通行人の群れから一人飛び出して、ニムの胸に飛び込んできた。

若い女だ。胸ぐりの深いトップスにダウンを羽織り、なかなか可愛い顔をしている。

「助けて!」

女の焦った声に驚く間もなく、彼女を追ってきたらしい男が現れたが、そいつはニムが何か言うより早く、隣にそびえ立つブラックに気付いて慌てて方向転換していった。賢明な判断だ。……自分もそうする。

「大丈夫ですか?」

精一杯の紳士的な声を発すると、女は男の去った方をしばし見つめてからにこりとルージュを歪めて頷いた。

「あ、ありがとうございます。大丈夫です……」

「良かった。何処に行くところ? 送っていこうか?」

優しく訊ねたつもりのニムと、さっきから薄笑いのまま黙って突っ立っているブラックを女は見比べ、少し迷ったようだが首を振った。

「ありがとう、大丈夫です。すぐそこだから」

じゃあ、気を付けて――ニムがなけなしの男ぶりで見送ろうとした刹那、軽やかに身を翻した女の腕をブラックがむんずと掴んでいた。

ったものを返せ」

いつもの薄笑いと低い声でブラックは言った。女の顔は蒼くなったが、微かに震える小首を傾げた。

「盗ったものって、何のこと……?」

「彼の物だ。返せ」

その頃には迂闊なニムも気付いた。自身のポケットに手をやり、唖然とした。

なんてこった、財布をスられている。

「何も盗ってないわよ。放して――」

女が言うなり、ブラックはその腕を上に持ち上げた。女の体が軽々と持ち上げられ、靴のつま先がぎりぎり地に付くか否かまで引っ張られる。

「い……痛い痛いっ! やめて! 放して!」

「こ、こら、ブラック! 手を放すんだ!」

慌てて叱る調子のニムに、ブラックは薄笑いだが、ややポカンとした目をした。ちらりと女を見て、またニムを見た。

「あんたの財布を盗った。悪人だ」

「いやはや、見事にしてやられたけど……放してやってよ。頼むから」

薄笑いにもどこか釈然とせぬ色を浮かべたブラックだったが、空いた片手で女のどこぞに付いたポケットからニムの財布を取り出し、返してくれた。女の方はぽいと放り出すように手を放し、彼女が地べたに崩れ落ちるのも薄笑いで見ている。

やれやれとニムは頭を掻いた。

「えーと、大丈夫? もうこんなことしちゃダメだよ」

先ほどより雑な調子にはなったが、被害者の穏便な態度に、女は悔しげな顔を上げ、手足を痛そうにしながらも一目散に逃げていった。何事もなかったのかと通行人の波が流れ始め、ニムは溜息を吐いた。

「ありがとう、ブラック。参ったね……ロンドンも経済難なのかなあ……どうりで君じゃなくて、僕にぶつかって来るわけだ」

ひどく呑気に言うニムに、ブラックは薄笑いこそ浮かべていたが、首を振った。

「逃がして良かったのか? ああいう人間はまたやるぞ」

「ブラック、此処は戦場じゃないし、君はもう軍属じゃない。調査会社ブレンドの社員として、良識ある行動をしなくちゃ」

「良識ある行動とは、悪いことをした人間も許すのか?」

「そうじゃないけど、傲慢になっちゃあダメってことだよ。『許す』なんてのは僕らがすることじゃない。それと、悪事を働いた人間を捕まえるのは警察の仕事だ」

「……よくわからない。今、俺が捕まえなかったらニムはランチがお預けになる」

「おや、君、上手いことを言うようになったね」

面白そうに笑うと、ニムは踵を返した。

「まあ、いいじゃないか。君が盗られたら僕が奢ればいいんだし、二人とも盗られたら、警察に行く前にいつものパブに行ってポリーに泣き付けば、何か食べさせてくれるさ」

「肝心なのは食うことじゃないと思うが……」

「なんと……君の成長は目覚ましいね、ブラック。ともかく、財布の御礼だ、お預けにならずに済んだランチを君にご馳走しよう」

先にぶらぶらと歩いていくニムを、ブラックは光らぬ目と薄笑いで見つめた。

「どちらにしろ、あんたが奢るのか……」

「ん?」

「……何でもない」

首を振ったブラックは、いつもの薄笑いで呑気な背に従った。



 「ボス」

報告を済ませた筈の喪服の麗人の声に、スターゲイジーは顔を上げた。

「ん? どうした?」

「ニムのことなんだけど」

デスクの前で腕組みした女の視線はいつも氷のように冷たいが、今日は微かな人間味を感じた。

「ニムがどうした」

「本当に、ブラックと付き合わせて大丈夫なの?」

「お?」

予想外の問い掛けに、椅子にもたれた男はストローイエローの顎髭を撫でた。

「なんだ、ペトラ……何か有ったか?」

「私は何か起きる前の話をしているのよ」

「フフン、俺の人選に文句を言うなんて珍しいじゃねえか。ニムだからか?」

からかうような調子のスターゲイジーに、麗人は斜に被った黒帽子の下で溜息を吐くと、こめかみに指先を当てて眉を寄せた。

「私から見たら、あの白アスパラガスも大概ってことよ」

「ふむ……仲良くしてるように見えるがな」

「それがボスの見解なら、はっきり言うわ。欠けてるなら、ニムも同じなのよ」

並の人間ならその場で正座してしまいそうな調子に、スターゲイジーは目を瞬いて清聴した。

「アレを育てたのは私たちだけど、不十分なのは言うまでもない。現在のニムを形成したのは何よりも本。既にだいぶ触発されて、奇怪な発言をしてるみたいだけど?」

スターゲイジーは腕組みして唸った。――残念ながら、心当たりは有る。

先日、相談に来た片手には『子供への声掛け知識』などという本が有った。

「俺はマズいことを言っちまったかもしれん……」

ぼやいた上司が先日の相談事を打ち明けると、はっきりと難色を示した部下は首を振った。

「ボス――確かに、ニムは温和で優しい性格よ。ブラックに子供に対するように接するのは良い事もあると私も思う。……でも、こちらも教育を始めてわかったけれど……ブラックは子供ではないし、れっきとした大人で、”その特性”を十分に利用して生きていた。どうもニムはそれがわかっていない気がする。危険な大熊を、無垢な子熊だと思って育てている気なんじゃない?」

「有り得るな……ニムこそ、お前が”危惧する辺り”じゃ純真無垢だぞ……それに俺は、ブラックにも要らん知恵を与えた気がする……」

「――いいえ、ボスの指導はブラックには必要不可欠。問題なのは、ニムが私たちが思うより過保護な教育バカということ」

部下の冷静な指摘に、上司は片手で顔を覆って呻いた。

「はー……ままごとしてると思ったガキがベッドインしてるようなモンか……」

自分で言った例えのえげつなさにうんざりする上司に、女は首を捻った。

「私はアレが喰われても構わないわよ、ボス。嫌なのは、それによって仕事に支障が出ること」

「わかった、ペトラ……今さらひっぺがすのも無理だろ。俺も気を付けるから、お前もそれとなく見てやってくれ」

女は嫌そうな顔をしたが、二、三頷いて踵を返した。

後に残されたスターゲイジーは、報告書を前に溜息を吐いた。

「ったく……子育てってのは……スパイ業務よりハードだぜ……」




 ニムは知らなかったが、ペトラの杞憂は既に現実と化していた。

そう、知らんどころか、考えも及ばなかった。

友人関係といえば、自宅に招くのは定番だろう、と――非番の日が重なると、ニムはブラックを家に呼ぶようになった。もともと、お茶を振る舞うのは好きだ。これは自分を教育してくれたラッセルの受け売りである。彼が嗜む紅茶ではなくコーヒー派に育った原理は不明だが。

「ニムのコーヒーが一番美味い」

招待三度目にしてブラックが含んだコーヒーを前に呟いたときは、感動に目頭が熱くなった。

「泣くほどか?」

ボケだけではなく冷静なツッコミまで出来るようになった男が畳み掛け、ニムはハンカチを手にむせんだ。ブラックは薄笑いのまま困惑していたが、これに感動せずにいられようか。胡乱げな笑みを前に、鼻を啜りながら頷く。

「いいんだ、ブラック。僕は君が美味しいものを素直に美味しいと言える現状に感動しているだけだから」

「? そうか」

最近、彼はそうやって幼児さながらの無垢な発言を社内でも頻発しており、巷では「ニムが社のマスコットを育てているのでは」と噂になっているが、全く失礼な。

ペトラが忠告を持って来たのはその頃だ。

「ブラックを家に呼んでいるそうね」

「うん。この間も僕のコーヒーが一番美味しいって」

喪服の麗人は、惚気でも聴くような顔をしていたが、グサリと言った。

「あんたが味わわれないように気を付けなさい」

「は……はい?」

既に予測ができているのか、阿呆を見る目で踵を返した麗人を見送ったのだが。

果たしてその日も、ニムは友のためにコーヒーを淹れていた。

リラックスしたいとき、何かに集中したいとき、手持ち無沙汰になったとき、コーヒーを淹れるのはとても良い。正確には豆を選んで買うところから始まるのだが、芳しいそれを挽き、フィルターにセットし、湯を細くゆっくり注ぎ入れ、豆が膨らみ、良い香りが漂うと、もうそれだけでも良い気分になるものだ。

「よし。……おーい、ブラック? コーヒー入ったよ」

今や、ブラックは本格的に仕事に投入されていた。

彼は何でもなさそうな顔をして、ボスやラッセルの教育で日毎に紳士になり、短期間で随分と大人の男になった。格式ばった場所でもない限り、もう何処に出しても恥ずかしくない。ニムの家でも、最初は指示を求めるように傍に居るか、家中をうろうろして珍しそうに見回ったりしていたが、今は落ち着き払って本棚の前に居るのが定番だ。本が好きなのは好都合だったが、時間が空くと、彼は本棚の前の椅子から本当に動かない。いっそ彼の席も用意すべきかと思うほど、放っておいたらずっとそこで読み続ける。どうも書籍狂ビブリオマニアがあるようだ。

……そうなるように育てたかって? そ、そんな筈はないと思うが? いや、しかし、図書館より遥かにマニアックな本を集めたハーバー家の書棚にハマるというのは、些か変人嗜好にしてしまったきらいはある。

そして、その日――彼の好奇心は新たな作品を求めていた。

「おーい、ブラック?」

書棚の前に来たニムは、いつも彼が座っている一人掛けソファーに居ないことに首を捻った。決して広くない借家だ、他は先ほどまで居た小さなLDKと寝室、収納スペースや風呂場ぐらいしかない。

「あれ? まさか寝ちゃった?」

そうは言ったが、そんなことは一度もない。そして彼はベッドのある部屋にこそ居たが、あろうことか、ベッドに腰掛けて机の棚から引っ張り出したらしいノートを開いていた。

「ち、ちょっと! 何してるんだよ!」

慌てて掴み掛かるが、ブラックは彫像のように動じなかった。随分、昔のものだ。

最近はパソコンに打ち込んでデータ化しているそれは、昔は暇を見てノートにつらつら書いていた小説原稿である。

「面白い。読ませてくれ」

「いやいや……ダメだってば!」

悪怯れる様子もない男に、ニムはノートを持つ手を掴んだまま言った。引っ張ろうにもぴくりとも動かない。力ずくの制止ができんと見るや、ニムは両手をノートに広げ、熱弁を振るうことにした。

「ブラック、それはプライバシーの侵害ってもんだよ? 君と僕が友達だとしてもね、『良い塀が良い隣人をつくる』って言うように、踏み込まないエリアってものをきちんとしてこそ、良い関係が保たれるというもので……」

「だが、続きが読みたい。どうすればいい?」

「ど、どうかしたら読めると思ってるのか? あのね、ブラック……世の中には通らない希望ってのもあるんだ。皆がやりたいようにやったら、恐ろしいことになる」

彼は微かに首を傾げ、すっとノートを脇に置いたが、代わりに――ほっとしていたニムの片手を掴んだ。いや、掴んだというより……これは――……

「……ブラック? ち、ちょっと……?」

口ごもったのも無理はない。その大きな手のひらはこちらの手のひらとがっちり嚙み合わさり、空いた片手は肩を抱き寄せた。

「ちょ、ちょちょちょ……待っ……!」

変な声を出すニムの唇に、ブラックのそれが宛がわれた。良い香りが鼻に抜け、痺れた脳が、四肢が、いっそ心の臓まで止めた。まだ明るい内から、絶世の美男子にベッドルームで唇を奪われる、って――……いや、どういうことだ?

脳があっさりショートしたニムに対し、慈しむようなキスをしたブラックはちっとも変わらぬ表情で言った。

「どうしても頼みたいときはこうしろとボスに言われた」

――くっそ……ボスぅぅうううう……‼

「ニムは俺より何でも詳しいから、間違いがあれば訂正してくれ」

――だったら、間違いだらけだが? 女性相手では正しいのか?

何処から訂正すべきか考えが纏まらず、ニムはぱくぱくと魚類の如く口を動かした。

ブラックは小首を捻り、小娘よりもカチコチになっている男が浮遊感を感じる動作でベッドに押し倒した。

「ひえ、ブ、ブラック、待って……!――」

「頼む、ニム。続きを読ませてくれ」

こちらを黒い瞳と柔い笑みで射貫きながら、シャツの襟元に指先を宛がい、貧相な首へ肩へと這わす。要求は読書にも関わらず、やり方は性欲としか思えぬほど生々しい。二人分を想定していないベッドが重量で軋む。全力で抵抗するのが正解だろうが、彼に触れられてその香りを吸い込むと、脳がぐずぐずになるようだ。

「ニム」

耳元に唇触れんばかりに囁かれ、電気を流されたように悲鳴を上げた。

「そこで喋んないで……‼」

「YESと言ってほしい」

YESと言ったら、結婚してしまいそうな言い方をしないでほしい!

だが、NOと答えたら身ぐるみ剝がされそうな気配――いや、もっと大事なものを失うかもしれない……!

「とりアえズ……放しテ……」

顔を背け、片言で言ったニムに、ブラックは大人しく手を離した。

「ニム?」

覗き込むように訊ねてくる顔を見られぬまま、ニムはボソボソと言った。

「……出てって……」

「?」

トンと置いていた手に指が触れて、怖気が走ったニムは思い切り払いのけて叫んだ。

「Go home‼(帰れ‼)」

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