白アスパラと黒い熊 By BLEND COMPANY

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1.白アスパラは苦悩する

 想像してみてほしい。

朝起きたら、同じベッドに美男が寝ていた。しかも、こちらを腕に抱いて。

――羨ましいって?

ふむ。淑女の皆さんはそうかもしれないが、これはそれほど甘い状態ではない。

不肖、ニム・ハーバーはベージュの髪に森のようなグリーン・アイが自慢のスリムなボディだが、そのあだ名は不名誉な白アスパラガス。

要は貧相ということだが……、一方の美男は熊に例えられること数多しの巨躯。

想像してみてほしい。逃れるのは不可能、且つ下手に逃げて寝惚けた彼に捕まれば、骨を折砕かれる危険性限りなし。

……羨ましいって? ならば僕から申し上げることは何も無い。

そうしたわけで眠気も吹っ飛んだ白アスパラガス――じゃない、ニムは親友の美貌をじっと見つめた。

無造作な黒髪が掛かった容貌は、白人系にアジアの血が少し交じったそれだ。

三十半ばは過ぎている男なのに、彼のトレードマークである香水がふんわり香るばかりで、ハーブやオークモスは匂えど、オッサン臭さは微塵もない。既に寝ている間に散々嗅いだ為か、いつもは肺腑になだれ込んでくるその香りは、今は静かな寝息と共に優しい。

さて、彼がベッドに潜り込んできたのは初めてではないが、深い眠りについているのはとても珍しい。たまに疑われるが、お互い、男色のがあるわけではない。こんな事態を前に弁解するのはかなり不都合だが、彼はあくまで友人であり、彼もこちらをそう認識している筈だ。

嘘に聞こえるなら考えてみてほしい――もし、熊と戦えるほどの剛腕である彼がその気なら、白アスパラガス如きに勝ち目なぞ無い。添い寝などせず、今頃は欲望のままにぺろりと喰われているだろう。

……うーむ、それにしても骨格、肌、睫毛に至るまで実に洗練された寝顔だ。

彼の目は黒に黒を塗ったような色なので、開いていると深い穴の底を覗くようで常人ならざる気配がするのだが、今は他の人間と何ら変わりない。それに、ずっと浮かべている薄笑いも、さすがに寝ているときは見られない。笑顔は悪いものではないが、彼の場合、幼少期からの虐待を軽減させるために貼り付いてしまったもので、本心からの笑みではないことの方が多い。それを思うと、今こうして穏やかに休んでいるのはとても良いことに思える。

どうせ、今日は日曜だ。

作家稼業は深刻な締め切りと共に在るが、今日は急ぐ案件もないし、起きるまで眺めているのも悪くない。

そう思いながら無防備な寝顔を見つめ、ふと、彼と会った頃を思い出した。


あれは冬の初め――いい加減、秋のジャケットから、冬のコートに切り替えた辺り。

その頃のニム・ハーバーは、まだ作家ではなかった。

本や文学は大好きで、いつか自分もと思いつつ、個人的に書き溜めるだけに留まる、妄想癖のビジネスマンに過ぎない。

入口に捨てられたえんで育てられた調査会社BLENDブレンドにて、市場調査やランキングの作成などをしながら、たまに妙な危険に巻き込まれ……ロンドンのアパートに独り、それなりに楽しい日々を過ごしていた頃だ。

その日、久しぶりに出張に出ていたボスが帰ってきた。

ブレンド社の代表にして、王室御用達とナイトの称号まで得ているボス・スターゲイジーは、ラガーマンさながらのボディに陽気で豪快な人柄を湛えた紳士だ。

いつもなら皆に明るく挨拶しながら帰還する彼は、今日はどうしてか、髪と同じストローイエローの顎髭を撫でながら難しい顔付きだった。

「お帰りなさい、ボス」

誰もが声を掛けるのを躊躇う中、いつも喪服を着た麗人が、帽子の下から、気遣うと言うよりは威圧的な声を掛けた。

「おう、ペトラ。留守をありがとうな……」

「いいえ、溜まった書類を片付けて頂ければ済むことですから」

社の実質的な女王だの女帝だのと言われるペトラ・ショーレのにこりともしない一言に、一瞬、スターゲイジーは首を絞められたような顔をしたが、すぐにいつもの彼らしくニヤリと笑った。

「フフン……全く、お前は容赦ない。悪いが少し待ってくれ」

「構いません。後で大変なのはボスですから。ラッセルはどうしたんです?」

本当に容赦のない返答に、上司は苦笑混じりに首を振った。

「例の軍事会社の全滅は確認できたが、予想外の事があってな……病院に行った」

「えっ! ラッセルが病院……!?」

思わず声を上げたのは、ペトラではなかった。

すぐ近くでデータ入力するフリをして聞き耳を立てていたニムである。女は仕事に集中しろという顔をしたが、他のスタッフも驚いた顔をしている。

ラッセルは普通の社なら引退を考える年齢でありながら、我が社で一番の武闘派、且つ英国一の紳士と思われる教養と知性を備えた一流エージェントだ。今回の件が危険を伴う仕事だったのは主要なスタッフは知っているが、彼が病院に掛かるなど、一体どんな事件が――……

すると、ボスが軽く咳払いをした。

「あー、スマンスマン、俺の言い方が悪かった。ラッセルは五体満足、健康そのものだ。病院には調査の一環で行った。すぐに戻る」

弁解に、皆が胸を撫で下ろす。ラッセルの能力と人望が窺える中、ニムもホッとして仕事に戻ろうとしたときだった。

「ペトラ、話がある――それと、ニム、ちょっと来い」

「え、僕ですか?」

何だろう? 何か叱られることをしたかと真っ先に悪事の如何を振り返るが、思い当たることはなかった。訝しみつつ、ペトラと共にボスの部屋に入ると、彼はコートを脱いでから再び顎髭を撫でつつ、向い合わせのソファーにどっかり座った。

「まあ、座れ。急で悪いが、お前らを見込んで頼みがある」

ペトラは黙って促し、ニムは生唾呑み込んだ。

「知っての通り、俺は今回……某国の民間軍事会社・ジュガシヴィリの全滅を確認しに行った。情報は確かだった――某国は連中を裏切り、爆撃機で一掃した。雪が降らなけりゃ、ひどい有様だったろうな」

民間軍事会社ジュガシヴィリは、裏社会をも長いこと悩ませてきた悪質極まる戦争屋だ。主に某国にくっついて輸送や戦闘活動をしてきたが、そのやり方は赤軍クラースナヤ・アールミヤ並、ナチやチェカが可愛く見えるレベルの残虐非道なもので、作戦の如何に関わらず、暴行、虐殺、強奪、誘拐、強姦など悪行の限りを尽くした。恐らく、実質的な雇い主である某国も扱いに困っていたのだろう、この程、ある戦争犯罪の贖罪の羊スケープ・ゴートとして、ついに殲滅された。

裏切り者として葬られたのは気の毒だが……彼らの蛮行に傷付く人々がもう現れずに済むのは何よりだ。

「……そこで何か有ったのね?」

勘の良い女にボスは頷いた。

「一人だけ、生き残りが居た」

「……え? それじゃあ全滅ではないのでは?」

呑気に言った男に、横で女が鼻を鳴らし、ボスは今度は首を振った。

「いーや、ニム……“全滅”だ。それは間違いねえ」

謎かけのように言い、スターゲイジーは雄牛めいた鼻息を吹いた。

「そういうわけで今、病院に新入社員が一人居る。かなりタフだが、凍傷が有ってな。通訳及び付き添いで、ラッセルが付いていった」

「そ……それってまさか……」

「ペトラ、お前はラッセルと共にコイツを鍛え直せ。俺も手伝うが、なるべく早くモノにしたいんでな……かなりハードになりそうだが、ビシバシ頼む」

「……Yes, Boss.」

何か言いたいことが有りそうな女が素直に頷くと、ボスはぼさっとしていた男に振り返った。

「ニム、お前はそいつと友達になるんだ。いいな?」

「な、何ですって? ど、どうして僕が……!?」

今の話で、新入社員が何者かわからぬほど鈍くはない。死の宣告でも受けたような顔のニムに、ボスは真面目な顔で言った。

「お前が適任、且つ必要不可欠だと俺が見込んだ。他の理由が欲しいか?」

「は……はひ…………」

あまりの驚きに噛んだが、ボスは苦笑して首を捻った。

「そいつは親の顔も名前も、何なら出身地も知らないそうだ。お前と同じ、正体不明の天涯孤独だぞ。気が合うと思うぜ」

「そ……それはそうかもしれませんが、いくらなんでも育ちが違い過ぎますよ!」

「阿呆、そうじゃなけりゃ困る。お前にはぐくんでほしいのは戦場の友情じゃあなく、ごく当たり前の一般的な友情だ」

「できると思います……!? いくら僕が呑気でも、その軍事会社がどんな連中かぐらいは知ってますよ!」

「落ち着けよ、ニム。安心しろ、お前は俺やラッセル、隣のペトラを始め、ブレンド社が育てた超健全な男だ。これ以上の適任は居ない」

「そっちの心配じゃありませんッ! 僕はそいつが暴れたって止められませんし、揉めて殴られるのは御免です!」

「ハハハ……お前に喧嘩やその仲裁なんざ期待するわけがねえ。ニム、そいつと友達になるんだ。いいな? 俺に何度も同じことを言わせるな」

「……うぐぅ……い、いえす、ボスゥゥ……!」

奇怪に身を捻りながら答えた男の肩を、ボスはズバン!と叩いた。

「頼んだぞ、ニム」

どん詰まり。お先真っ暗。絶対絶命――この時、想像していた相手は、筋骨隆々とした、女と酒とギャンブルが好物のクズ野郎だった。きっと腕や背中は攻撃的な刺青だらけで、気に入らないことがあると怒鳴ってパンチをお見舞いし、ルールにルーズで金に汚く、テレビならセリフが規制に引っ掛かり続けてピーピーピーピー鳴る男。

おお……考えるだけで恐ろしい。

と、既に妄想だけで肋骨数本を折られた気持ちで病院に行ったニムだったのだが。



 「ああ、二人とも御苦労様です」

病室の前で世界一の紳士的な笑みに迎えられ、ニムは泣き付きたい気持ちを抑えて会釈した。一方のペトラは、病院でうろつくには非常に顰蹙ひんしゅくである喪服姿の帽子の下から、切れそうな目で紳士こと、ラッセルを見た。

「凍傷と聞いたけれど、どの程度なの?」

「雪の中に居た時間が長かったので酷いかと思ったが、診断は予想より軽度だった。偏った食生活の割には大変頑丈です。二、三日中には退院できると」

「良かったわね。戦争犯罪者にベッドを占拠されるのは迷惑だもの」

歯に衣着せぬ物言いの女に、ラッセルは苦笑混じりにノックをし、ノブに手を掛けた。

「眠っていたら、もう少し寝かせてあげよう」

散々な悪事を働いていた相手にも配慮するラッセルに感服しつつ、ニムはペトラに続いて個室へと入った。ラッセルがベッドに近付き、執事めいた動作でそっとカーテンを開ける。ニムは思わず口を押さえた。

想像以上のイカつく毛深い髭面ひげづら――とは全く正反対の青年が眠っていた。

いや、身体は予想通りの巨躯だった。

端から端まで乗っかっているので、ベッドが小さく見えるほど大きく、しっかりした首だけでわかる筋肉も、それはもう鍛えられたそれだ。

しかし、何よりまじまじと見てしまったのは顔――ボサボサな黒髪で尚、驚く程の美男だった。白人系の透明感ある肌だが、目鼻立ちはどこかアジアの血も混じって見える。閉じている唇や睫毛の整い方は、まるで絵に描いた王子様――いや、男の自分が言うと気持ち悪いが、それが最もわかりやすい。

「一度、食事に目を覚ました後は寝ているんだ。看護師と普通に話しても起きないので、よほど疲れているのだろう」

「そう……思ったより呑気ね」

女は何故かこっちを見た。ニムが負けじと睨み返す傍ら、ラッセルは言った。

「組織が全滅したからだろうね」

どこか気の毒そうな響きで続ける。

「全滅した仲間を前に、雪の中で何もすることなく、座っていた。最後の待機命令に従っていたと本人は言っている」

「何故、コイツは死ななかったの?」

「空爆の際、地下壕で荷の整理をしていたそうだ。終わったら上に戻って待機するようにと指示を受けて」

「幸運ね。かなり違和感があるタイプの」

「……ボスも“その可能性”を考慮していますが、ペトラ、ひとまずそれは置いておこう。我々の任務は、ボスの意向通りに彼を育てることだよ」

紳士の穏やかな取り成しに、彼女は頷いた。

「起きたら呼んで」

王子様など微塵も興味がないらしいペトラが出ていくと、ニムは苦笑いのラッセルに促されるまま、椅子に座った。

「本当に、あの軍事会社の軍人なんですか?」

「体を見ればわかるよ、ニム。首から下は傷だらけだが、顔はこれだからね、気を遣われた様だ」

生唾呑んで見る寝顔が安らかなので、彼がひどい目に遭った実感が湧かないが――男性中心の社会でこれほどの美形だ、性的暴行は確定、しかも相手は究極の暴漢たち……想像もつかぬ虐待に遭ったろう。髭面の暴力男から一転、翼をもがれた天使を前にしたような気になりつつ、溜息混じりに寝顔を見つめた。

「ラッセル、僕なんかが友人になれるのでしょうか……」

「ニムは誰とでも友人になれるよ」

慈父の如き笑みを自信無さげに仰ぐと、彼は可笑しそうに笑った。

「心配することはない。彼は君が思うほど狂暴でもなく、物静かで頭も悪くはない。問題なのは、彼がおよそ……人間的な要素に欠けるということです」

「人間的な要素……?」

「まだ全てを聞き出せたわけではないので憶測の域を出ないが、一切、愛情の類いを受けていない様だ。記憶の定まらない幼少期に何処かから誘拐、または拾われたか……ともかく、人間ではなく、犬――愛犬やパートナーとしての猟犬でもなく、隷属的な関係のみで育てられている。無論、働きに対する正当な報酬は得ていません。彼はそれが当然で、それが日常だった為、組織に対する怒りや、彼らを失った喪失感さえ曖昧です」

「なんてひどい……」

「ええ、許し難い。ニム……ボスが期待するのは、君が素直に発するその気持ちだ。彼を一人の人間として尊重し、共に過ごせばいい。君が良かれと思うことなら、一緒に取り組むのもいい」

「そのぐらいなら……僕にもできますかねえ……」

「ニムなら大丈夫。私が保証しよう」

「わかりました、ラッセルがそう言うなら、やってみます」

ペトラの罵声やボスのボディーブローを食うよりは安いものだ。

その時、見下ろしたまぶたがぴくりと動いた。ニムの決意表明を聞いたかのように、ぱちりと開いた目は――夜の海よりも、深い穴よりも尚暗い闇だった。

思わず臆したニムだが、ラッセルは闇を穏やかに覗き込んだ。

「おはよう、ブラック。気分は如何かな?」

ラッセルの問いかけに、彼はやんわりと笑みを浮かべ、そっと目礼した。

「少し起きられるかい?」

彼は頷くと、眠っていたわりにスッと上半身を起こした。

「寝起きのところすまないが、人を紹介させてほしい。これから君と多くの時間を共有する人間の一人です。挨拶を」

目覚めると更に色香が漂う男の視線に気圧されつつ、ニムは片手を差し出した。

「ニム・ハーバーだ」

彼は柔和な目でこちらを見て、差し出した手を見て、目をぱちぱちし……薄い笑みで見ているだけで動かない。

「えーと……ラッセル?」

「握手を知らない様だ。彼は英語も、使っていた言語も読解力は園児並みです。順を追っていこう」

気長なセリフにも結果を求める調子に、前言撤回をしようかと本気で悩んだが――

すっと彼は片手を伸べ、握手ではなく、指でちょんと触れた。

やんわり浮かべられた笑みを見て、ニムは前言撤回をやめた。

「……宜しく、ブラック」

あまりにも劇的に見えてしまったファーストコンタクトに、流されてしまったわけではない。

……断じて。




言葉も倫理も通じない男との友好は、言うまでもない……否、言えない故に難航した。彼は退院後、散髪し、衣服を整えると、ますます磨きが掛かった。

マイ・フェア・レディならぬマイ・フェア・ジェントルマンである。身分証明も兼ねてブレンド社に正式採用されたが、当面の精神状態は、とても仕事に使えるレベルではなかった。

――いや、常にとっても落ち着いているが……要は落ち着いて老若男女をぶん殴れるわけで……何が駄目で、何が正しいのかを自身で判断することができない。

ボスの指示通り、ブレンド社の精鋭中の”精鋭”は、彼の教育に乗り出した。

まあ、自分は教育ではなく友情を結ぶのがミッションなのだが……まずは同レベルになって貰わないと話にならない。

ひとまず、食事でコミュニケーションをとろうとして、彼は食事=報酬の感覚を持っているとわかった。

「ンンー……じゃあ、何か食べたいものある?」

そう訊ねると首を捻るばかりで、提案すると何だかわかっていなくても了承する。

注文と会計のシステムぐらいはさすがに理解していたが、どうも彼は「選ぶ」という行為が苦手らしい。メニューが多い店はもちろん、少ない店でも混乱したので、ニムは「 Today's special(本日のおすすめ)」や、「most popular dish(人気メニュー)」などの魔法の言葉を伝授した。とことん自由を制限された人間である故に、いざ食べようにも犬のように「よし」と許されるまで手を付けない。

美味しいかどうか尋ねると、肯定しか知らない人間のように頷く。

どう見てもこちらの倍は必要だろうに、ずっと顔色を窺っていて、こっちが先に終わってしまうと彼も途中でフォークを置いてしまう。知らない食べ物も多い上、飾りのハーブはむしゃむしゃ食べた。

体形からして大食漢の筈――そう思って肉料理が自慢の店に行くも、肉はあまり食べさせてもらっていなかったか、菜食主義者のように野菜ばかり齧る為、「肉も野菜もバランス良く食べなさい!」などと、結婚さえしていないのに子育てめいたセリフを吐く羽目になったが、ブラックは逆らわなかった。

それも何だか決まり悪い。何を考えているのやら、例の貼り付いた薄笑いを浮かべて、指示されれば美味いとも不味いとも言わずに食べる……

「ニム、何読んでるんだい?」

ある日の休憩中、社の休憩スペースで熱心に本を読んでいたニムが顔を上げると、ギブソンがパソコンを小脇に抱え、コーヒー片手に立っていた。インド系イギリス人である彼は、浅黒い肌とはっきりした目鼻立ちに人懐こい笑みが素敵な、我が社の歩くスパコンだ。如何なる時も手放さない……じゃない、手放せないそれをテーブルに置き、向かいに腰掛け、本のタイトルに唖然とした。

「『子供への声掛け知識』?――え、ニム……まさか……?」

「やめてくれよ、ギブソン……僕が産むわけないだろ」

「ン……? 君が産まなくたっていいと思うけど、じゃあ例の彼か。難航していそうだね」

ニムは開いた本を置き、両手を頬に当て、頬杖ついて頷いた。

「カマラに借りたんだけどさあ……読む度に挫けそうになる。世の親たちは色々考えて子育てしてるんだねえ……」

どれどれと同じく子供の居ないギブソンが開いたページを覗き込む。食事に関する声掛けについて載っていた。


――「何食べたい?」と言うのは特別な時以外は避けましょう。好きなものしか食べない子にしない為にも、毎日の栄養バランスは親が管理するのが大切です。


――「美味しい?」と聞くのはNG、子供はYESかNOで答えるしかなくなります。「どんな味?」など表現させる機会を与えましょう。


――「食べなさい!」は逆効果です。食卓を嫌な記憶にし兼ねません。

食べられないなら調理を工夫し、間食が多すぎないか見直し、食べられたときは褒めましょう。


「ギブソン……僕は既にコレを破ってしまっているんだ……」

教育ノイローゼに掛かった若い父――というよりは母のような顔をして本を見下ろすニムに、ギブソンは笑いを堪えて肩をすくめた。

「気にし過ぎだよ。そもそも彼は子供じゃないんだしさ」

「いや、でも、僕の所為でブラックが食事嫌いになったら一大事だ‼」

勢いよく本に両手を叩きつけて吠えたニムに、数名の視線が集まった。

「ま……まあまあ、落ち着いて。僕は君と食事をするのは楽しいよ?」

病み上がりのような目に見つめられ、少々臆しつつもギブソンは続けた。

「自信を持ちなって。大抵の人は、君と食事をするのは楽しいはず。暇があると水集めに行っちゃうタイラーだってニムとはお茶を飲むし、その本を貸してくれたカマラだって子育てで忙しいのに自宅に呼んでくれるだろ? 子供たちも懐いてるって……――要するに、君は穏やかで優しいし、誰の話もきちんと聞いて、読書家で物知りだ。ボスの見立ては正しいと思うな」

「ギブソン……」

感涙なのか感傷なのかわからない感情に、森のような目を潤ませる男を宥め、ギブソンは自身のパソコンを立ち上げて言った。

「戦場暮らしじゃ……やっぱり色々食べに行くのが良いんじゃない? 彼はアジアの血も混じってるそうだから、日本食とかどうかな? ハンナにお勧めしてもらった店を送るよ。あと、この間行ったタイ料理も……」

「うう、ありがとう、ギブソン……子育ては周囲の助けがありがたいね」

「ニム……子育てじゃあなくて友達になるんだろ? 正気に戻ってくれ」

苦笑したギブソンが、素早く情報を送りながら言った。

「報告がてら、ボスにも聞いてみたら? 一応、子育て経験者だ」

確かにそうだ。

それこそ子育てに関する価値観の違いで離婚してしまったスターゲイジーだが、愛娘に対する愛情は本物だ。同意したニムは平素にはない素早さで立ち上がると、ギブソンに礼を言ってボスの部屋を訪問した。

今日はパソコン画面に向き合ってボスらしく仕事をしていたスターゲイジーは、手を休めて話を聞いてくれた。

「案外、俺と同じ趣味かもしれんぞ」

傍らのコーラとクリスプを掲げたので、ニムは即座に却下した。

「ダメです。お菓子は決められた量まで。添加物は控え、たんぱく質やポリフェノール、カルシウムをしっかり――……」

「ニム……俺は友人になれと言ったんだ。専属栄養士にならんでもいい」

苦笑されるが、せっかく綺麗に生まれたのに、既に傷だらけの体の内側まで苛んでは気の毒だ。今有るシックスパッドも大事にすべきと講釈し、正論を唱えたつもりが、スターゲイジーはニヤニヤ笑って言った。

「シックスパッドが無え奴がよく言うぜ」

そう言う男は、ジャンクフードを食べつつもシックスパッドは維持している。

釈然としない。世の不条理はこんなところにも現れるのか。

新たな哲学を見出だす中、ボスは炭酸を呷ってから言った。

「ニム、事実報告はとりあえず置いといてだな、お前は奴をどう思う?」

「どうもこうも……赤ちゃんと向き合ってる感覚ですよ。幼稚園児の方がずっと小生意気で自己主張もします」

「そうか。そんなら赤ん坊のつもりでやれ」

「へ……?」

突き放すような言葉に狼狽えるが、彼はストローイエローの顎髭を撫でて笑った。

「安心しろ、俺は怒ってもいねえし、イカれてもいねえ。俺も最近わかってきた……お前の言う通りなんだ、ニム。奴の精神は所々が大人で、所々がとんでもなくガキだ。バゲットやチーズみてえに穴だらけ……仮のつもりで“ロス”って名付けたのはそのまんまだった」

彼は組織でも黒を示す名で呼ばれていたようだが、英語での「ブラック」に置き換え、姓は不明だった為にロスとした。出自が不明で「ニックネーム」を略したニム、くるまれていたタオルのメーカーからハーバーと名付けられた自分とどっこいどっこいの安直ぶりだ。

「心が欠けたまま、体だけ大人になってるでっけえガキだと思え。俺からすりゃあ、お前もなかなかのガキだから丁度いい。アジア料理も良い、大好きな昆虫採集でも、図書館でも、お前が良いと思う場所に連れてってやれ。今の奴に必要なのは、空いた穴を埋めて豊かにしてやることだ」

昆虫好きも本好きもガキではないと講釈したかったが、大人しく頷いた。

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