第9話 ハッピーエンド
アレクサンドラは大きく眉根を寄せて目をつぶり、まるで犬の仔にでもするように片手を突き出していった。
「ちょっと落ち着こうね、ルキウス」
「私は至極冷静です!」
「うん。きみ、わたしが誰とも結婚する気がないということを忘れているだろう?」
「覚えていますとも。殿下は生涯結婚されないおつもりなのでしょう? 私は殿下の婚約者ですので、貴女が語らない理由まで理解しております。殿下が結婚しないのは、騎士という職務に人生を捧げるつもりだからでしょう?」
アレクサンドラは深緑色の瞳を少し困ったように下げた。
第一騎士団に所属していた頃のアレクサンドラは、魔物の襲撃の知らせを受けては戦場へおもむく日々を過ごしていた。第三騎士団の団長となってからは、魔物出現の予測調査のために国内のあちらこちらへ足を運んでいる。
いずれにしろ、仕事上やむを得ず王都を離れることが多い。
独り身のまま、王都に戻ったときだけ王宮の私室で寝泊まりしている生活なら、せいぜい両親と長兄から小言と心配をもらうだけで済む。しかし、結婚するとなったらそうはいかない。名家の奥方になったら長期的に家を空けることは難しい。
騎士を辞める気はない。だから結婚はしない。
アレクサンドラが昔からそう考えていることをルキウスは知っていた。知っていたし、その点については何の障害にもならないと思っていた。
「私は貴女に騎士であることを捨ててくれなんて申し上げる気は一切ありませんよ。貴女の性格上、そんなことは不可能だと重々承知しております。私は殿下のことをよく理解している婚約者ですので」
「なら結婚が難しいこともわかるだろう?」
「いいえ? 殿下と私は結婚し、殿下は今まで通り第三騎士団の団長であり続け、私は名門公爵家当主かつ天才魔道具開発者としてあり続ける。それで万事解決です」
アレクサンドラは頭を抱えた。
「ルキウス……、そんな簡単にはいかないことはわかっているだろう」
「殿下が難しく考えすぎなのでしょう。いつも大雑把なのですから、この件も楽天的に考えればよろしい。奥方が不在でも我が公爵家はつつがなく回ります。今までだってそうしてきたのですからね。我が家には金に飽かせて集めた有能な人材がそろっていますから、何も心配せず調査へ行ってきてください。あぁ、後継者問題なら、分家筋から優秀な子供を選びますからご心配なく」
そこまで冷静に話してから、ルキウスはコホンと咳ばらいを一つしていった。
「……ま、まあ? もし、もしも殿下が……、殿下はその、王太子殿下の御子を可愛がっておられますし? 貴女は昔から子供好きでしたし? もしも貴女が人生で一度くらい我が子をこの手に抱いてみたいとお考えでしたら私はいつでもどんなときでも万難排して協力しますから遠慮せずに気兼ねせずに率直にいってくださって構いませんけどね!?」
「いやでも、その条件なら、もっといい相手がほかにいるんじゃないか?」
アレクサンドラはとても真剣な顔でいった。
ルキウスはさすがに許せない気持ちになった。いくら最愛のアレクサンドラでもいっていいことと悪いことがあるのだ。ルキウスは脳内の『殿下の許せない発言語録』に今回の失言を書き加えた。
ルキウスは天才であり粘り強い性格であるので、腹が立ったことはいつまでもねちこく覚えているのだ。これは決して粘着質なわけではない。粘り強いのである。
アレクサンドラは真摯に考えこんでいる様子で、口元にこぶしを当てていった。
「きみの話を纏めると、公爵夫人となっても家を空けて良いし、子供も無理には望まないということだろう?」
「ま、まあ、無理にはという話であって貴女が望むであれば私としてもまったくやぶさかではありませんが!?」
「きみがそこまで譲歩するつもりでいるなら、わたしよりずっと条件の良い姫君を望めると思うよ。わたしには相続できる領地も事業もないんだ。本当に血筋だけだ。王家の持参金だって、きみからすれば大した金額じゃないだろう」
「持参金だけで十分です。……べつになくても構いませんけどね。ええ、私は魔道具開発の天才ですから、財産ならすでに唸るほどあるのですよ。いつでもその身一つで嫁いできてくださって構いません」
「エズモンド家の発展のためなら、領地か事業、せめてそのどちらかを相続できる女性がいいんじゃないか?」
「私の話を聞いていらっしゃいますか、殿下?」
アレクサンドラは大真面目な顔で「聞いている」と頷いた。
ルキウスはそのお堅い表情をめちゃくちゃにしてやりたいと腹の底だけで思った。
だいたい、アレクサンドラはわかっていないのだ。ルキウスは譲歩しているわけではない。
ルキウスだって愛する妻(予定)と朝から晩までイチャイチャしたいという願望はある。街中を視察したときに見かける恋人たちのように指を絡ませて歩きたいし、美しい深緑色の瞳を間近で見つめていたい。その柔らかそうな唇に触れたい。二人で食事を取って、たわいないことで笑って、夜には二人で一つの寝台に入りたい。彼女に求めてほしいし、その肌に触れることを許してほしい。そして朝にはアレクサンドラの隣で目覚めて、彼女の寝顔を愛おしく見つめていたい。
……そういった愛ある新婚夫婦暮らし妄想なら、吐いて捨てるほどしたことがある。何なら腹心の部下を相手に語ったこともある。腹心の部下は死にそうな顔色をしていた。
しかし、だからといってアレクサンドラに騎士を辞めてほしいとは思わなかった。
ルキウスが知るアレクサンドラという人は、決して己の意志を曲げない頑固者だ。その頑固さのために自分自身がボロボロになろうとも、誰かの盾であろうとすることをやめないひとだ。
ルキウスはそんなアレクサンドラを守りたいと思い、そのための力を必死で手に入れたのだ。アレクサンドラから何かを奪うためではない。盾であろうとする彼女を、隣で支えるための力だ。ともに戦うための力だ。
……もしも、いつかアレクサンドラが戦うことに疲れ果てて、もう休みたいといったなら、ルキウスは彼女を世界のすべてから隠すだろう。
アレクサンドラを苛むすべてから遠ざけて、彼女が心穏やかに過ごせる家を用意するだろう。そこが彼女の楽園となるように手を尽くして、世界と彼女を分かつ扉を創るだろう。いつかそんな日が来たなら。
……一生そんな日は来ない気がするが、いつか来てしまう気もする。
いずれにせよ、ルキウスはどこまでいってもアレクサンドラを愛していて、どこまでいっても彼女の味方だ。毎朝アレクサンドラの寝顔を見守りたい気持ちは溢れんばかりにあるが、そのために彼女が大切にしているものを奪おうとは思わない。
ただし、それらはすべてアレクサンドラとの将来を考えての話であって、条件の良い女性と結婚したいだとかそんな話ではないのだ。どうしてアレクサンドラは騎士のときの察しの良さを発揮して気づいてくれないのだろうか。騎士じゃないときの彼女ときたら海亀以下である。
まあ「政略結婚がしたい」などとほざいたのは自分だが。それはそれとして雰囲気を読んで『ルキウス、きみ、もしかして、わたしのことを愛しているの……?』とキュンとした顔になってくれてもいいのではなかろうか。
ルキウスはそう神に祈ったが、日頃から信心を持たない男であったので、神の奇跡が舞い降りてアレクサンドラがキュンとしてくれることはなかった。
ルキウスは憮然とした顔でいった。
「殿下もご存じの通り、私は天才です」
「突然なにをいい出したの?」
「天才の私が、国内外の状況、今後の予想、その他ありとあらゆる要素を考慮に入れて計算を重ねた末に出した答えが、殿下との結婚なのですよ。殿下の浅知恵でほかの令嬢を勧められては困ります」
「浅知恵っていうな。これでも一生懸命考えたんだぞ」
「殿下が思いつくようなことは、私はとうに視野に入れて計算しております。その上で求婚しているのですよ」
嘘だが。まさかアレクサンドラに『もっといい条件の令嬢が』なんていい出されるとは思わなかった。正直にいうととてもつらい。この報復として、いつかアレクサンドラが自分にキュンとしてくれるようになったら「あのときの貴女ときたら、私の胸をたやすく切り裂いたんですからね」と大人の余裕を持ってネチネチと責めてやりたい。その場合の状況はムードたっぷりな寝台の上などが望ましい。深緑色の瞳が少し恨めしそうになって「きみがはっきりいわないからだろ。いってくれたらわたしだって……」と恥ずかしそうに語尾を濁したりするのだ。そういう己に都合の良い妄想ならいくらでもできる。早く現実になってほしい。
しかし現実のアレクサンドラは、胸の前で腕組みをして唸っていた。
「きみと結婚かぁ……、う~ん……」
うーんうーんと唸り続ける彼女を前に、ルキウスはごくりと息を呑んで、恐る恐る尋ねた。
「どうしても嫌なのですか……?」
嫌だといわれたら、ここは引き下がるしかない。嫌なことを無理強いはできない。一度は引き下がろう。これは戦略的撤退だ。諦めはしないが、体勢を立て直す必要がある。
そう絶望的な未来を予想して覚悟を固めていると、穏やかな声があっさりといった。
「嫌じゃないよ」
ルキウスの世界は薔薇色に染まり、天使が祝福のラッパをかき鳴らした。
「ただ、結婚するということを考えていなかったからね。うーん……、どうしたものかなあ……」
「この結婚は殿下にとっても利があります。エズモンド家の奥方となることは、第三騎士団の団長として殿下が成そうとしていることを大きく助けるはずです」
いずれ教会と衝突するときが来たら、アレクサンドラの身分は八番目の末の王女のままより、エズモンド公爵夫人になっていた方がはるかに安全だ。
先ほどアレクサンドラ自身がいった通り、王家はいざとなれば彼女を切り捨てることができる。教会はそれを見越して動くだろう。
だが、エズモンド公爵夫人であれば話は別だ。ルキウスは妻を害する者を決して許さないし、教会は手出しを躊躇するだろう。ルキウス・エズモンドの名には、それだけの力がある。
聖女リティ・ロフェとて───今となってはどう心境が変化したかは知らないが───当初はそれを見越してアレクサンドラに近づいたはずだ。
もっともアレクサンドラ自身は、昔から、誰かがルキウスを利用しようとするたびに明確な拒否を示していた。リティ・ロフェに対しても、婚約者は巻き込まないと明言した上で協力を申し出た可能性は高い。
実際、今アレクサンドラは、ひどく複雑そうな顔をしていた。
「ルキウス、それは……」
やんわり否定しようとする空気を察して、ルキウスは退けるように片手を振った。
「今さら隠そうなんて無駄なことをなさらないでください。私が知っていることに、貴女だって気づいているはずです。殿下、私はエズモンド家当主として、貴女の力になりたいと思っています。この国と民のためにも」
「そう、か……」
アレクサンドラは瞠目したようにこちらを見た。
それから、まるで眩しいものでも見つめるように眼を細めていった。
「大きくなったねえ、ルキウス」
「───……っ、……気づくのが、遅いんですよ」
「ふふっ、そうかもしれないね」
アレクサンドラは嬉しそうににこにこと笑った。
柔らかで温かな空気が満ちる。胸の内がひどく熱い。ルキウスはあえかな息を吐き出した。このくらいのことで目元まで熱く潤んできてしまう姿を見せたくなかった。両のこぶしを握り締めて、表情を厳しく引き締める。目の前の人に頼られる男でありたい。この美しいひとに協力を求められる男でありたい。そう思って背筋を伸ばす。
アレクサンドラは花びらが舞うような微笑みから、不意に表情を改めると、真剣な眼差しでこちらを見ていった。
「最後にもう一度だけ、問わせてくれ。わたしがしようとしていることが、とても危ういことだとわかっているね? きみの志は立派だが、きみはすでに多くのものを背負っている。きみがこれ以上の重荷を抱え込む必要はない。きみは、きみを一番に大切にしてくれる素敵な女性と家庭を築くことができる。わたしと結婚するのは、その未来を捨てることだ。……それでもきみは、わたしでいいのか?」
「ずいぶんと侮った質問をしてくれますね」
ルキウスは憤然としていった。
「私は貴女がいいんです。貴女でいいなんて思ったことはない。貴女がいいんだ! 未来を捨てることですって? そんなのは貴女が決めることじゃない。私の幸福を勝手に決めないでください。私は貴女と結婚して幸せになるんです。とうの昔にそう決めているんですよ。貴女にどれほど振り回されようとも、貴女のいない人生のほうがよほど不幸だ。私は貴女がいいんです!」
一息にまくしたてると、アレクサンドラは呆気にとられた顔をした。
その表情に、さっと全身から血の気が引く。しまった。露骨にいいすぎただろうか? だって彼女があまりにわからず屋なことをいうから。だけど下心のある男だと思われたかもしれない。それは否定できない。下心はある。いや、とにかく、挽回の言葉をなにかいわなくては。
適切な言葉が浮かばないまま、それでも口を開こうとしたときだ。
アレクサンドラは戸惑ったように視線を下へ泳がせ、こちらを窺うように上目遣いに見ては、すぐにまた視線を下げた。その形の良い唇は、困っているようでもあり、はにかんでいるようでもあった。その頬は薄紅色の熱を帯びているようだった。
───照れている。アレクサンドラが照れている。
ルキウスの頭上で恋の天使が祝福のラッパを激しく吹き鳴らした。
薄緑色の瞳は、動揺を隠せないまま、ちらりとこちらを見る。
「そ、そうか……」
「そ、そうです!」
「あ、ありがとう……?」
「当然のことです!」
「ルキウス」
「なんでしょう!」
「あのね───、わたしもきみがいいよ」
アレクサンドラは頬を赤く染めていた。目元には照れが滲んでいた。
そして、こちらを見つめる眼差しは真摯で温かく、とても美しかった。
「結婚を考えたことはなかったけれど……、でもね。結婚するなら、わたしはきみがいい」
ルキウスの頭上で恋の天使が集結し、楽団を結成し、盛大な祝福のメロディが鳴り響いた。天上に楽園が誕生し、草木はぐんぐん伸びて、噴水から水があふれ、虹が舞い散った。
世界のすべてが光り輝き、太陽はあまねく地上を照らし、その中でもひときわアレクサンドラは美しかった。艶やかで鮮やかな紅の髪に、温かく清廉な深緑色の瞳。彼女の照れた微笑みはこの世のすべてに勝る。
ルキウスは勢いよく立ち上がった。ローテーブルを回り込み、アレクサンドラの足元に片膝をつく。驚いた顔をしている彼女の右手を取って、懇願もあらわにいった。
「私と結婚してください、美しいアレクサンドラ姫」
深緑色の瞳は照れ隠しのように笑った。
「よろこんで、ルキウス」
※
足取り軽く───それはもう浮いているような心地で帰宅したルキウスは、屋敷の使用人たちの中でも主だった者たちを集めて、アレクサンドラがプロポーズを受けてくれたことと、結婚式は正式に決まったのでその準備で忙しくなることを伝えた。
使用人たちの中には感涙する者や盛大な拍手を送る者もいれば、これが現実かどうか訝しむ者やご当主はまた何か先走っているのではないかと案じる者もいたが、ルキウスは寛大な心で部下たちの無作法を許した。
なぜなら今のルキウスは大海よりも心が広く、どれほど不遜な物言いをされようとも許せる気分だったからだ。
───わたしはきみがいいよ。
あの美しくて頑固者で最愛のアレクサンドラが、ルキウスがいいと! このルキウスがいいと! もはやこれは愛の告白も同然だ。いや、というか、されてしまったのでは、愛の告白? もはや愛そのものだったのでは? つまりこれはほぼ両想い! ほぼ愛し合っている!
ルキウスは喜びのままにペンを握り、領地を任せている腹心の部下へ手紙を書いた。結婚式についての指示と、それから多少のノロケを書き連ねた。
さらにルキウスは冷静な男だったので、最後はこう締めくくった。
『アレクサンドラ殿下の愛はほぼ私にあると思って間違いはないが、私は慎重な男だからな。念には念を入れて、十年計画で事を進めたいと思う。なに、結婚さえしてしまえば、あとはこちらのものだ。あの人の愛を得られるように、男として見てもらえるように、間違っても離縁をいい出されることのないように、慎重に慎重に、今後の十年をかけて行動していきたいと思う』
自作の魔道具で飛ばした手紙は、数日後には返信が来た。
『愛しているの一言なら十秒で済むじゃないですか。
十秒で済むことに十年をかけるというのは、控えめにいってもヘタレすぎませんか、ご当主?』
ルキウスは、海よりも寛大な心で微笑み、そして───手紙を盛大に燃やした。
※
炎の勢いが余って書斎まで燃やしかけたこの事件は、使用人たちの間で『ご当主ご乱心放火事件』と呼ばれ、後に愛ある夫婦となったエズモンド公爵家ご夫妻の奥方の耳にも入った。
アレクサンドラはこの事件の真相を夫に尋ねたが、ルキウスは頑として語らなかった。たとえそれが、一つの寝台で夜を過ごした後という念願のシチュエーションであり、最愛の妻からのからかい混じりの問いかけであったとしてもだ。
「貴女、本当は知っているでしょう!? くそっ、あの男、貴女に喋りましたね!?」
私は貴女が守るべき子供ではなく、貴女の頼れる未来の夫です 五月ゆき @satsuki_yuki
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