第8話 海亀よりも鈍感


たとえば、四年前、ルキウスがエズモンド公爵家を手中に収め、若き当主となったとき。


あのときはルキウスが王都へ戻ってきたら婚約解消の話をしようと思っていた。

二歳年下の男の子は立派になった。父親の背中へ短剣を向けるのではなく、真っ当に戦って父親を退かせて、自らが当主の椅子に座った。


───きみにはもう第五王女の婚約者という盾は必要ない。きみは自分の力で戦うことができる。いずれ愛する人と巡り合うだろう。幸せになるんだよ。


そんな話をしようと思っていた。けれど現実には、アレクサンドラはベッドの上で包帯でぐるぐるに巻かれたミノムシのように身動きも取れずにいて、ルキウスの心配性は一気に悪化した。


自力歩行ができる程度には回復して動けるミノムシとなった後も、ルキウスの瞳は暗闇の水面のような揺らぎを映し出していた。とても婚約解消を提案できる雰囲気ではなかった。


過保護化した婚約者殿は、なにかにつけて小言をいうようになったし、後から考えるとあれがネチネチとした説教の始まりだった。アレクサンドラはリチャード・ウィンターに拉致されて負傷したことを何度も後悔した。もっと上手くやればよかった。


婚約者殿が聞いたら「まずは厄介事に関わらないという自己防衛意識を持っていただけませんか!?」と怒り出すだろうことを考えつつも、アレクサンドラはルキウスの不安が落ち着くのを待った。


彼が、もともと趣味で行っていた魔道具作りを、個人の事業として本格的に始めたときには良い傾向だと思ったし、その才能を開花させて次々と斬新な製品開発を行ったときには心からの賛辞を送った。


しかし、ルキウスの才覚はアレクサンドラの予想をはるかに超えた規格外のものだった。彼は大陸中にその名を轟かせて、一挙一動に注目を集める存在となった。


これもまた婚約解消するには最悪のタイミングだった。


変わり者の第五王女ではルキウス・エズモンドの婚約者にふさわしくないと考えている者は多かっただろうが、それでも、国外からの縁談や引き抜きじみた話が数多くある中では、すでに王族と婚約していることに安心感を覚える者は少なくなかっただろう。何なら父親である国王と一番上の兄である王太子がその筆頭だったかもしれない。


さすがにこの状況下で婚約解消へ向けて動くことはアレクサンドラにはできなかった。今ルキウスが王家の姫との婚約を解消したら、彼の国に対する忠誠心を疑う声すら上がるだろうとわかっていたからだ。


アレクサンドラは過熱した状況が落ち着くのを待った。

そして、第一騎士団を辞したタイミングで、今こそ好機と思って婚約解消を持ち掛けた。


しかし返ってきたのは、絶対零度の拒否だった……。




「エズモンド卿といえば地位に権力に財力も兼ね備えた美貌の青年。おまえという婚約者がいるにもかかわらず、彼へ舞い込む縁談は数知れず。若い娘たちの縁談を纏めるご婦人の手帳には、最高級物件としてエズモンド卿の名前があると聞くわ。誰もが彼を捕まえたいと思いながらも叶えられた者はいない、憧れの存在なのよ」


「ルキウスを伝説の食材か何かのようにいうのはどうかと思いますよ」


「彼と結婚できるなんてすごいわ! 幸運だわ! エズモンド卿の妻になることを夢見る娘は、この大陸中に星の数ほどいるのよ?」


「なら母上が良い女性を紹介してあげたらいいじゃないですか」


「娘の婚約者にほかの女をあてがう母親がどこにいるの」


「わたしは結婚する気はないと昔から申し上げているでしょう」


母と娘はしばし無言で睨み合った。


やがて王妃は慈悲深い母親の顔を捨て去り、冷徹に娘を見下ろしていった。


「ねえ、アレクサンドラ。第三騎士団設立に関して、おまえはお父様に借りがあるわよね?」


「それは……」


「王女を団長とする小規模の騎士団を作ることには、それなりに反発があったわ。でもお父様はそれを抑え込んだの」


「わたしが成功すれば国にとって利益になるし、失敗しても八番目の末の子なら切り捨てるのは難しくない。そう判断したからでしょう」


「おまえの計画に耳を貸さないという選択肢もあったわ。それが一番安全な道よ? でもお父様はあなたに力を貸すことを選んだ。おまえはどうかしら、アレクサンドラ? ルキウス・エズモンドが今や我が国にとって失うことのできない人材だということを、おまえだって理解しているでしょう?」





……そのようなやり取りがあったのだと、アレクサンドラは苦々しい顔で語った。


ルキウスは冷静な表情を保ったまま、自分がすでに人生で二度も婚約破棄の危機に瀕していたことを知って、心臓が暴れ馬のように跳ねていた。


アレクサンドラは“婚約解消”などという穏やかな言い回しをしているが、どう考えても破棄だ。こちらが望んでいないというのに婚約者という地位を失ってしまうのは破棄に決まっている。


話し終えたアレクサンドラは、紅茶を一口飲んでから、はーっと疲れたような息を吐き出した。そして、深緑色の瞳をすがめてこちらを見た。


「念のために聞いておくけど、わたしと結婚するように陛下から圧力をかけられたんじゃないだろうね?」


「まさか。あり得ませんね。陛下は素晴らしい主君であり、私は忠実な臣下ですよ。未来の義理の親子としても、関係は非常に良好です」


「つまり共犯者なんだね?」


ルキウスは薄く笑んだまま答えなかった。


アレクサンドラは軽く頭を振った。長く美しい紅の髪がふるりと揺れる。


彼女は姿勢を正し、まるで教師が幼子に教え諭すような口調でいった。


「いいか、ルキウス。わたしも多少はきみの気持ちがわかる。きみはエズモンド家の当主だから、周囲から結婚をせっつかれることが多いのだろう。きみは社交的に振舞っているだけで、社交が好きなわけじゃないからね。見知らぬ女性を妻に迎えると考えるだけで憂鬱になるんだろう? その点、わたしなら長い付き合いで気楽なものだろうね。───だけどね、だからといって、わたしで妥協しようとするんじゃないよ」


ルキウスは、このわからず屋に、どうやって“わからせて”やろうかと、脳内で百通りもの様々な方法について考えを巡らせた。


アレクサンドラは騎士団を率いる者としては実力と人柄と責任感を兼ね備えているが、ルキウスが七年間も観察したところによると、すべての察しの良さを職務で使い果たしている。


公私における私、とくに恋愛事になると、愚鈍なカメ以下の鈍さを発揮してくれる。


なお、王都は海に面しているので、海亀もときどき砂浜を這っている。地を這うその速度ですらアレクサンドラの恋愛的情緒より速かろうとルキウスは思う。



ルキウスの脳内で自分がどんな目に合っているかも知らないで、アレクサンドラは美しく高潔な眼差しで告げた。


「わたしはきみに幸せになってほしいんだよ、ルキウス」


ルキウスは腹の底から苛々した。


それなら結婚してください。今すぐ神の前で愛を誓って私を愛しているといってください。貴女を愛しているんです。一生傍にいてください。


そう叫びたくなったが、寸でのところで自制する。


いや、正確にいうなら、怖気づいた。


アレクサンドラがルキウスの想いを微塵も察しないのは、なにも彼女に一方的に咎があるわけではない。ルキウスは今まで一度も、率直な言葉を口にすることができなかった。好きです、だとか、愛しています、だとか。そういった誤解しようもない言葉を、今まで一度も告げられていない。


なぜなら。


(愛の告白なんてものをして、振られたらどうする? 何もかもおしまいだろう。抗うこともできずに、婚約者の地位まで失うことになる)


訳ありの婚約者という立ち位置のままなら、たとえ喧嘩になることがあっても修復は可能だ。


しかし振った女と振られた男になってみろ。どうしようもないじゃないか。


振られた男がいつまでも付きまとっていたら迷惑なだけだ。ルキウスはすごすごと屋敷に帰るしかない。そのまま何年も引きこもるだろう。二度とアレクサンドラに会うことはできない。振られたって愛しているから。けれど振った男に付きまとわれるのは彼女だって迷惑だろう。ルキウスはもはや何もできない。灰のようになって日々を過ごすだけだ。


アレクサンドラと愛し合う仲になりたいという欲望はもちろんある。燃え盛るほどにある。


しかしそれは、彼女の愛が自分にあると確信できるようになってから行動に移ればよい。守るべき子供としか思われていなそうな現時点で告白するのはリスクが高すぎる。


───ルキウスは己を慎重な男であると自負していた。断じて臆病者だとかへたれだとかではない。我慢強く慎重な男なのだ。


今はとにかく結婚へ漕ぎつけることが大切だ。


ルキウスは胸の内でそう意気込み、人生のかかった勝負に出るために深く息を吸い込んだ。そして、わざとらしく呆れた声を出してみせた。


「恋愛をしてから結婚するのでなくては幸せになれないと仰るんですか、殿下は?」


「そういうわけじゃないが……」


「いつから恋愛至上主義者になったんです? 貴女の姉君や兄君にだって、王妃殿下が勧めた相手と結婚された方はいるでしょう。あの方々は不幸だと仰る?」


「兄たちや姉たちだって、ある程度は自分で選んでいたんだよ。きみがまだ王宮にいた頃の話だけど、覚えているかい? ミラ姉上のときなんて本当に大変だった」


王女ミラはアレクサンドラの三番目の姉だ。五年前に他国に嫁いでいる。


「覚えていますよ。私を見て『あと五年早く生まれていたら夫候補リスト第一位だったわ』と仰った方でしょう?」


「その節は本当にわたしの姉が申し訳ない……」


アレクサンドラはウッと両手で顔を覆った。


「ミラ姉上は極度の面食いだったから……、というか我が家はみんな面食いなんだと思う……、面食いの血筋だ……、整った顔立ちに弱いんだ……」


「そうですか? 私はそのように思ったことはありませんけどね」


王家全員面食い説が正しいなら、アレクサンドラだって少しは自分の顔に靡いてくれるはずだ。


こういっては何だがルキウスは自分の顔面には自信があるし、服装や身だしなみにも気を配っている。いつだってアレクサンドラに一目惚れされる準備は万端だ。されたことがないだけだ。


しかしアレクサンドラは虚ろな眼になっていった。


「ミラ姉上の理想の男性像についての注文の細かさといったら、それはもう凄まじかったんだぞ。母上と毎日喧嘩になっていたけれど、それでも譲らずに大陸中から姿絵を集めていたからね……。それにスタン兄上だって『絶対にセクシーな美女と結婚する』といい張って、姿絵どころかきわどい絵まで大量に収集して、ギル兄上に全部燃やされていたしね……」


スタンは第二王子、ギルバートは第一王子であり王太子だ。ギルバートは結婚しているが、スタンは三十歳過ぎた今も独身のままご婦人たちと戯れている。


「あれで外交能力に欠けていたら本体まで燃やしていた」というのは王太子の弁である。


アレクサンドラは頭から嫌な記憶を追い出すようにふるふると首を振った。それから改めてこちらを見た。


「ルキウス、きみがまだ結婚したくないというならそれでいいと思う。だけど、妥協して無理に結婚するのは賛成できない。もう一度よく考えなさい」


「どうして勝手に“妥協”だの“無理”だのと決めつけるのですか? 私の思考が貴女に読めるとでも? 殿下のようにおおらかで大雑把な方が、私のような繊細で天才な思考を読めると? いくら第一騎士団の気高き薔薇と謳われた貴女でも、物事には向き不向きがあることをご存じないのですか? それともご自分が海亀よりも鈍いことを自覚されていない?」


「きみに『決闘だ、剣を取れ』と手袋を叩きつけてやりたい気持ちにはなっているよ」


アレクサンドラが目元をひくりと引きつらせて笑ってみせる。


ルキウスは、はあとこれ見よがしにため息を吐いて、人差し指でトンとローテーブルを突いた。


「まず前提からして間違っているんです、殿下は。この結婚は私が望んだものです。妥協も無理もしていません」


「本気でわたしに妻になってほしいって?」


「ええ」


「なぜ」


ルキウスは一秒間沈黙した。


その一秒の間に天才の頭脳は目まぐるしく回転し、光の速さで動き、万物を飛び越え、爆発し、月と太陽が産声を上げ、生命の誕生にまでたどり着いた。


しかし結局、ルキウスが口にできた答えはこうだった。


「私は……、政略結婚がしたいからですっ!」


アレクサンドラが「えっ?」と呟いて、正気を疑うような顔でこちらを見た。


「政略結婚の何が悪いというのですか? 結婚という契約によって両家が結びつくことによって強固な同盟関係が結ばれ、互いの領地も事業もより発展し、莫大な利益を生み出すことができます。巡り巡って民の暮らしを潤し、我が国を豊かにし、皆が幸せになれます。これは恋愛結婚では不可能です。政略結婚にしか存在しない利点ですよ!」


「それは、まあ、そういう一面はあるだろうけど」


「何より、恋愛などという一時的な熱狂に侵されることなく冷静な判断を下せます。互いの人柄、長所に短所、経済力や将来性、そういったものをシビアな眼で見定めるのは、熱に浮かされた精神状態では不可能です。しかし政略結婚ならそれができます!」


「え、いや、それは政略結婚というか、見合い結婚じゃ」


「どちらにしろ殿下は私と結婚すべきです! 国と民を想う心の強い殿下であればこそ、夫に選ぶべきはこの私! 我が国で最も夫にしたい独身貴族№1のこの私です! 私以上に殿下の欠点も無謀さも腹が立つところも知り尽くしている男はほかにおりません!」


「それは何のアピールポイントなの?」


「結婚しましょう、殿下!!」








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