第7話 大団円

「ここで寝てしまうと、目を覚ますことができなくなるかも知れない」

 ということを、かすみは、時々考える。

 それが、中途覚醒において、目を覚ました時なのだが、中途覚醒で目を覚ますと、

「このまま眠れなくなる」

 と考える方が普通だというのだが、かすみの場合は、

「眠たいのだが、眠ってしまうのが怖い」

 と感じるのは、前述のせいであり、それを人に話すと、

「眠れなくなる時でも、本当は眠たいんですよ。でも、寝ようと思えば思うほど、目がさえてしまうようで、何ともいえない、寸止めをされている感じだと言えばいいですかね?」

 ということであった。

 寸止めというのが、どれだけ辛いかというのは、かすみにも分かっていた。

 同じように、眠らなければいけないのに、眠れないという、

「不眠症」

 という経験を今までにしたことがあったのだ。

 そんな不眠症というものを考えると、

「結構皆、苦しんでいる人も多いんだな」

 ということが、いろいろな資料で分かってくる。

 本屋にいけば、医学書のところには、

「不眠症」

 という本がいろいろあって、その原因も、多種多様であるということであった。

 それを踏まえて、医者に行こうかと思ったのだが、まず、

「どの医者に行けばいいのか分からない」

 ということであった。

「内科なのか? 心療内科なのか? それとも、精神科なのか?」

 そのどれかであろうことは分からないでもなかった。

 確かに、不眠症の原因の多くは、

「精神的なものが、存在する」

 ということは、ほぼ間違いないだろう。

「眠れない」

 ということで、睡眠薬を増やせばいいというものでもない。

 人によっては、一度に、10錠近くの薬を飲むという人だっているではないか。

 それを見ただけで、ゾッとした気分になってしまうというのも、無理もないことであり、不眠症というものを、舐めてはいけないということになるということは分かるのだった。

「まずは、生活リズムを戻すしかないか?」

 という努力をしてみるが、なかなかうまくいかない。

 ひどい時には、

「眠れない」

 という夢を見ていた。

 という、

「中途覚醒」

 をすることがあったのだ。

 ここでいう

「中途覚醒」

 というのは、間違っても、

「目覚めではない」

 目覚めというと、睡眠が終わって、目が覚めるというもので、夢も、最後まで見ているのであろう。

 ただ、覚えていないだけのことで、そうなると、中途覚醒なのか、目覚めなのかということは、

「夢では判断できない」

 ということになるであろう。

 それを思うと、

「夢というものが、最後まで見ることができない」

 というのは、

「都合のよさによる。限界」

 というよりも、

「中途覚醒」

 というものは、誰にでもあり、目を覚ました時に、どっちなのかということを判断できる。できないということが、大きく影響しているということではないだろうか。

 中途覚醒した時、

「夢を見た」

 ということは、自分の中で、

「百パーセント見た」

 と思える。

 それは覚えている。覚えていないに限らずのことであるのだ。

 それを考えると、

「中途覚醒」

 というものが、目覚めに比べて、いかに苦しいかという前提がある以上。

「夢を見るということは、それなりのリスクを伴うということであり、覚えていないという理屈は、都合のよさや限界というだけでなく、中途覚醒のせいではないか?」

 ということになるであろう、

 夢を見ている時に、

「中途覚醒をしているのかどうか?」

 ということが、分かる時があるようだ。

 それは、目が覚めた瞬間に、

「これは中途覚醒だ」

 ということを、一瞬にして感じるかどうかということであった。

 一瞬にして感じなければ、そのまま目覚めに移行したまま、意識は、次第に夢を忘れるというところに入っていくのだった。

 だから、この一瞬というのが、どれくらいの一瞬なのかということだが、その一瞬は、本当に短いもののようだ。

 だからこそ、

「中途覚醒」

 というのは、少ないのであり、さらにそれが、

「不眠症に繋がる」

 という確率はさらに低くなる。

 それでも、

「不眠症の人が結構多い」

 ということは、それだけ、思っているよりも、中途覚醒が多いということであり、夢を見る確率というのも、多いということになるのであろう。

 かすみは、自分が中途覚醒をしていることに、大学生になってくらいから感じ始めた。

 大学時代には、どうしても、

「不規則な生活になりがちだ」

 講義もない時があったり、友達にリズムを合わせてしまったりすることで、

「夢を見る時間というのが、不規則になる

 と考える。

 かすみは、

「夢を見るのには、タイミングがある」

 と思っている。

 いつも夢を見ているのに、そのタイミングというのは、

「見る見ない」

 というものではなく、

「覚えているかどうか?」

 というのが、大きな問題となるのだった。

 そんな中途覚醒であるが、夢を見ている時、

「眠れない」

 という夢を見ているという、滑稽な夢を見たことがあった

「まるで、四コマ漫画のようだ」

 という感覚で、四コマというのをよく見てみると、それが、小説などでよく言われる、

「起承転結」

 になっているのが分かってくる。

「夢にも起承転結というものがあるんだろうか?」

 と考えるようになると、夢のその外側にある、

「睡眠」

 というカテゴリーが、さらに、

「起承転結」

 をつかさどっている。

 ということを感じるのであった。

 それは、まるで、

「マトリョシカ人形」

 のようであり、今までに見た夢は、どこか、すべて、この、

「マトリョシカ人形」

 という発想に結びついてくるような気がした。

 その謎を解くカギというのが、

「起承転結」

 という発想であり、その発想が、

「夢というものをつかさどっている」

 と感じさせるのだった。

 マトリョシカ人形というものを考えていくと、

「どんどん小さくなっている」

 ということを感じることができる。

 そして、次に考えるのが、

「それは無限なのだろうか?」

 と考えるのだ。

「いや、夢は都合よく見るものだから、限界なければいけない」

 と思うと、

「無限はありえない」

 と感じる。

 だから、

「マトリョシカ人形」

 を思い浮かべるのだった。

 似たような発想で、

「合わせ鏡」

 というのがある。

 合わせ鏡というのは、前後に鏡を置いた時、自分の姿が、前からと後ろからとが交互に、果てしなく映り続ける」

 というものをいうのであった。

 これを、発想として、

「限りなくゼロに近い」

 というものになっていくことで、

「無限を表現している」

 と考えるのであった。

 そのことが、

「夢を無限」

 と考えるのであれば、

「目覚めというのは有限なので、マトリョシカ人形であり、中途覚醒というのは、無限なので、合わせ鏡のようなものではないか?」

 と考えられる。

 そして、

「目覚めが都合のいいものであるのに対し、中途覚醒は、都合に関係なく、三すくみであったり、それを美ち破る太陽の光のような絶対的なものがかかわっていることで、無限になるのだ」

と考えるのであった。

 そこに、キーワードとしてかかわってくるのが、

「夢」

 というものである。

 夢を都合よくできるかどうかで、無限かどうかを判断する。ただ、有限であっても、果てしなくゼロに近づくということに間違いはなく、中途覚醒は、ひょっとすると、ゼロになるのかも知れないと思うと、

「一勝目が覚めない」

 と考えることに、無理はないと思えるのであった。

 かすみは、自分の中にいるであろう。もう一人の自分が、

「ジキルなのか、ハイドなのか?」

 ということを、夢の中で探し続けているのであった。

 ただ、それは、すでに、すべての答えは頭の中に出来上がっているという前提であることなのであったのだ。


                 (  完  )

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夢による「すべての答え」 森本 晃次 @kakku

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