第6話 中途覚醒

 そんな、

「西洋の城」

 というものが、

「見上げている自分、見下ろしている自分を、ほぼ同時に見せる」

 という夢の正体であるということを感じると、

「夢というものが、目が覚めるだけのために見るような感じでいたが、それがすべてではない」

 などということを感じさせるようになってきた。

 それは、夢というのものが、前述のような。

「都合のいいものであり、限界を感じさせるものだ」

 ということであるということを、ひょっとすると、

「この時に感じさせられるというものではないだろうか?」

 と感じさせられたのだった。

 だが、子供の頃は、最初は。

「夢は、見るものなんだ」

 と、漠然と考えていた。

 そのうちに、

「どうして夢って見るものなのかしら?」

 と考えるようになったのは、

「夢」

 というものが、

「怖い夢だけしか見ていない」

 と感じさせられるということからであった。

 しかし、実際に、

「覚えているのが、怖い夢だけで、あとの夢は、目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」

 と感じさせられたからだといってもいいだろう。

 夢というものが、

「潜在意識のなせる業だ」

 ということを感じさせるようになると、

「夢というものが、どういうものなのか?」

 というそのメカニズムは、いつのまにか、

「都合のよさ」

 というものと、

「限界を感じさせる」

 というものから、

「夢は支配されている」

 と感じるようになったのだった。

 夢というものを、早い段階から意識していたかすみは、

「最初に意識したのが、たぶん、幼稚園にも上がる前だったのではないか?」

 と感じたのだ。

 それは、大人になってからの記憶が、ほとんど、小学生からのものであったのに対し、一つだけ、意識として残っているものがあった。

 その時は、シチュエーションまでは覚えていないのだが、結論として、

「ハチに刺された」

 ということであった。

 スズメバチのような危ないものではなかったので、事なきを得たのだが、その時に嗅いだ薬品の臭いを一生忘れないと自分で思ったのだ。

 その臭いは、アンモニアの臭いで、昔から、

「ハチに刺されたら、アンモニアが特効薬だ」

 ということを聞かされていたことで、アンモニアだというのを理解したつもりだったが、物心もついていない子供に、そもそも、アンモニアなどという薬品のことが分かるわけもない。

 もし、意識としてあったのだとすれば、

「ハチに刺されたら、おしっこを掛ければいい」

 という風に、男の子は言われていた。

 もちろん、大人の、

「罪もない冗談だったのだろう」

 しかし、あとから思えば、

「何が冗談なものか」

 と思ったのだが、それ以上怒る気にはならなかった。

 というのも、

「おしっこというのがアンモニアのことであり、だから、アンモニアを縫ったのだ」

 ということが後になって分かったということであり、

「だから、あの時」

 という妙な納得をしたのだったが、それが、自分の中で、

「時系列が初めて崩れた時である」

 と思ったのだった。

 しかし、この、

「時系列が崩れた」

 というのは、その時が、

「最初で最後だ」

 ということを自分で分かっているような気がしたのだった。

 というのも、

「大人になるにつれて、いろいろ分かってくるところで、時系列というものが、次第に、間違いのないものだ」

 という理屈になることを、分かるようになる。

 つまり、大人になるということは、

「時系列をはじめとして、世の中の理屈というものを、自分の中でしっかり解釈として分かることができるようになることだ」

 と感じることができるものではないだろうか?

 そんなことを感じていると、

「夢というものの正体も、次第に分かってくる」

 と感じていたが、その

「分かってくるはずだ」

 と考えた時期を、

「すでに通り越している」

 と感じるのだと思うと、どうしても、不可思議に思えてくるのも、仕方がないことであった。

 そんな西洋の城を見ていると、今度は別の夢を思い出した。

 その夢というのは、空の夢で、下から自分が見上げているところは一緒であり、そして、向こうから、後光が差しているように、逆光に見える顔が、表情が分からないままに、こちらを見下ろしているのだ。

 それは、自分なのかどうなのか分からない。自分の中で、

「もう一人の自分だ」

 という意識がなかったので、それは自分ではなかっただろう。

 そう思うと、今度は、その人が、

「私の夢に入り込んでしまったのかしら?」

 と考えるようになった。

 それは作為的か、無作為か分からない。無作為のような気がする方が気持ち的には強いのだが、相手は、人の夢に入り込んでいるのを分かっているようには思えた。

 なぜなら、逆光で見えない表情であるが、想像することはできた。その顔が、ニンマリとしていて、

「これ以上ない」

 というほどに気持ち悪い表情に感じられて仕方がなかったのだ。

 その顔を見ていると、

「大丈夫なんだろうか?」

 と感じるのだが、その思いが、

「相手は、人の夢に入り込んでいる」

 という意識を、最小限であるが持っていて。最小限であるがゆえに、自分でも手探りな気持ちが強いからか、相手に負けないようにという思いから、精一杯の虚勢を張っているということなのかも知れない。

 それを思うと、かすみは、相手の顔を意識することができなくなってしまい、その向こうに意識を移すかなくなっていたのであった。

 その向こうには、青空が広がっていた。

「澄んだ青空を見ていると、そのうちに、目の前のこちらを見ている人間から、逃れられるような気がする」

 と感じたのだ。

 しかし、

「ではなぜ、最初から、相手を自分の視界に入れないように、その場から立ち去るか、顔をそむけるかができないのか?」

 ということになるのだが、それができないのは、男の顔が、こちらを覗いていながら、その視線に、

「ヘビに睨まれたカエル」

 のようになってしまった自分がいるのだった。

 かすみは、どちらかというと、臆病なのだが、時々、恐怖に感じる時に、相手の顔を見ると、急に余計なことを感じ。その時は、

「まるで三すくみのようではないか?」

 と思ったのだ。

 確かに突飛な考えだが、考えてみれば、

「ヘビとカエルとくれば、ナメクジが入ることで、三すくみの関係ではないか?」

 ということが言えるだろう。

 三すくみというのは、それぞれに、等間隔に距離を取った、正三角形の形にいるとして、それぞれが、けん制しあうというよりも、自分から見ると、それぞれに、

「自分の苦手な相手と、得意な相手がいる関係から、円を描くように、力関係が決まっている」

 という場合をいう。

 だから、どれも、それぞれに、力関係に対して、けん制しあうということで動けないのだ。

 動いてしまって、自分が得意な相手を潰したとしても、次に潰されるのは、自分でしかない。

 つまり、勝者は、絶対に、

「最後に動いたものだ」

 ということになるのだ。

 だから、動くことができない。これを、それぞれに、

「抑止力」

 ということであり、

「完全に我慢比べになるということで、忍耐が強いものが、勝つということになるのである」

 ということだ。

 ただ、その力関係を、それぞれが認識しているかどうかなのだが、それぞれに、本能というものであったり、遺伝子というものの影響からか、抑止力はあるようだ。実際に、相手に対して、絶対的な力があるからこそ、成り立つ関係が、この、

「三すくみ」

 というものなのだ。

 三すくみというものが、

「生き物」

 であるなら、その力関係は、忍耐力というものに、限られてくるだろう。

 しかし、

「生き物でない場合は、絶対的な力関係」

 ということで、そこに、何らかの意思が働かない限りは、破られるものではない。

 それが、

「じゃんけん」

 のような関係であり、だから、

「ルール」

 として使われるのだ。

 これがモラルというものであれば、それぞれに違う感覚を持っているということで、モラルは、人それぞれだが、

「ルール」

 というものは、法律のようなものなので、万人に共通したものでなければいけない。

 それが、

「法治国家」

 というものであり、

「法律が絶対的な存在であることから、法律を作ったり、運用する人間が、大切になってくる」

 ということになるのだ。

 それを考えると、法治国家の大切さと、政府の大切さというものが、誰の身にも明らかといえるだろう。

 そんな三すくみの関係を考えていると、三すくみのそれぞれの抑止力が、自分の考えよりもさらに大きな力となっていることが考えられた。

 だから、それぞれに、本能だけで、動くことができなくなってしまうのだろうと思うのであって、それが、自分にとって、不思議な感覚になるのだった、

 三すくみによる力が、

「空をぶち破る」

 という妄想に駆られた。

 そもそも、三すくみになっていると感じたことで、

「これが夢なんだ」

 と感じた。

 そのおかげなのか、空というのが、

「まるで、張りぼて」

 のように感じられた。

 それは、薄い膜になっていて、ドームになっていることを感じたのは、学校から出かけていった、

「プラネタリウム」

 というものを思い出させたのだ。

 ドーム型の天体に、機械によって、夜空が映し出されるというのが、プラネタリウムで、夢の中も、

「都合よく見るものは、限界がある」

 ということで考えると、その向こうに見えるものが、まるで、

「作りもの」

 という風に感じられるのだった。

 そう、空というものが、

「卵の殻」

 のようなもので、

「その向こうから、くちばしのようなものでつつけば、簡単に割れてしまう」

 という感じであった。

 そして、差し込んでくるのが、

「本当の太陽の光」

 その威力は、

「張りぼての空」

 とは比べ物にならない。

 それを思うと、恐ろしさから、目を瞑ってしまったとしても、しばらくの間は、目を開くことができないくらいにはなるだろう。

「それを考えると、三すくみによる力というよりも、何といっても、太陽のような、絶対的な力があることで、三すくみの関係など、簡単に終わらせることができるのではないか?」

 と思うのだった。

 ただ、これが

「夢による妄想なのか?」

 あるいは、

「夢だから、見ることができるということなのか?」

 といろいろ考えることもできるのであった。

 夢から覚めた時、眠れなくなるという症状になると、

「中途覚醒」

 というそうだが、それが、どんな意識を自分にもたらすことになるのか?

 そんなことを考えるのであった。


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