第5話 西洋の城
西洋の城というものを思い浮かべると、日本の城との共通点はいくつかある。
特に、
「天然の要塞」
ということで、大きな川のほとりのあたりの、崖になったあたりに築かれている。
日本でも、濠の代わりに、
「天然の濠」
という形で、裏が、大きな川だったりする。そこに、断崖絶壁がある辺りは、日本の城と、ほぼ変わらない
といってもいいだろう。
しかし、日本の城が、
「裏なのと違って。西洋の城は、前に川が流れていることが多いような気がする」
と思えた。
そして、日本の城のように、本丸、二の丸。三の丸と言った。いわゆる、
「縄張り」
と言った。城郭があるわけではなく、一種の、
「天守だけがそびえている」
という感じであった。
これは、日本の城と、西洋の城とでの決定的な違いがある。
日本で、天守がある城が少ないということも、その一つといえるのではないだろうか?
日本の場合は、城が一つではなく、支城と呼ばれるものがたくさんあるのだ。
ということは、日本の城というのは、
「戦う」
ということを基本としていて。それが、
「攻城」
であるか、
「籠城」
であるかということは、その時で違ってくるのだ。
だから、籠城の場合など、攻め込まれないように、いろいろな仕掛けがしてあったりする。
「途中の道が、足元を見ないと進みにくいような作りになっていたり、橋が架かっていて、一か所を潰せば、崩れ落ちる設計になっていたり、門があって、そこをくぐると行き止まりで、四方八方から、狙い撃ちにされる」
という形になっているのであった。
しかし、西洋の城というと、完全に、
「住居」
として作られているようで、もちろん、そこに籠城して戦うということもあるだろうが、どちらかというと、
「政務」
を行ったり、周りの領民に対しての、権威を示すためのものの方が、役割としては、大きいだろう。
日本の場合もその背景はあるだろうが、戦国時代などは、完全に、戦うための城だったといってもいい。
それが、日本の特徴といってもいいだろう。
日本のお城は、
「要塞」
という形で見るが、西洋のお城は、
「住居」
あるいは、
「実務室」
というイメージなのであるが、西洋の城を見た時、そんな雰囲気には感じられるというわけではなかった。
というのも、西洋の城というと、イメージとして、陰湿で、暗いという雰囲気がある。
それは、中世の城のイメージと、もう一つは、
「牢獄のイメージがあるからではないか?」
とかすみは感じていた。
牢獄というと、どうしても、フランスの、バスチーユのイメージが強く、映画やドラマやマンガで描かれるのは、そのほとんどが、
「西洋の城」
という雰囲気であった。
さらに、もう一つ考えられることとして、
「物語に出てくる城としては、ドラキュラ伯爵の城」
という雰囲気が強い。
ドラキュラ伯爵のイメージは、どうしても、コウモリのイメージである。
コウモリというと、思い出すのが、
「イソップ寓話」
の中に出てくる。
「卑怯なコウモリ」
という話である。
この話は、
「鳥と獣が戦をしているところに通りかかったコウモリだったが、鳥に向かっては、自分のことを鳥だといい、獣に向かっては、自分のことを獣だといって、立ち回っていたのがコウモリだった」
というところから始まって。
「いずれ、戦は終わるのだが、その時、コウモリの話題が出てきた時、双方から、あいつは卑怯だということになり、鳥からも獣からも相手にされず、暗く湿気た洞窟の中で暮らすようになり、夜の誰も活動しないところで、人知れず生きている」
というのが、コウモリだということであった。
しかし、これは、コウモリとしては、逆の意味で、
「鳥でもなく、獣でもない」
ということで、
「どちらにも味方ができない」
という発想になることだろう。
鳥を相手に仲間になろうとしても、獣を相手にしたとしても、結局、中途半端でしかないわけで、本当の鳥や獣から、次第に相手にされなくなることを思えば、
「君子危うきに近寄らず」
という言葉通り、
「うまく立ち回る」
ということが一番いい生き残りになるのではないだろうか?
例えば、戦国武将の、真田正幸が、
「表裏比興の者」
と言われたというが、これは、
「卑怯」
という言葉の当て字とも言われているが、実際には、戦国武将には誉め言葉となる、
「知略に優れた食わせ物」
というような意味であるが、そういう意味でいけば、
「卑怯なコウモリ」
というのも、
「知略に優れている」
ということで、一歩間違えると、
「卑怯もの」
という形ではなく、
「敵に回すと恐ろしいが、味方につけると、頼もしい」
と考えられるのではないだろうか?
そんなコウモリが住んでいる城のイメージであるが、とにかく、
「普通の人が入れる場所ではない」
ということであった。
しかし、そんな場所にいる夢を見る。それも、
「住んでいる」
というわけではなく、
「閉じ込められている」
という感じである。
というのも、それは完全に、
「牢獄に閉じ込められている」
ということであり、それこそ、ルイ王朝時代の、
「バスチーユ牢獄」
のイメージであった。
しかし、牢獄の割には、そこに誰か、他に収監されている人がいるわけではない。しかも、看守もいなければ、
「建物の中に、人が住んでいる気配がしない」
という感じであった。
だから、いつも、まわりばかりを気にしていて、
「真っ暗でだだっ広いたてものだ」
と、ずっと思っていたのだ。
だから、
「コウモリがいるような、広さと湿気で、気持ち悪くなる」
と感じていた。夢の中のくせに、臭いがする。
その臭いは、初めて嗅ぐ臭いのはずなのに、
「カビ臭い」
と感じるのであった。
この臭いの酷さで、吐き気がしてくることで、呼吸困難になってくる。そうなると、前や下ばかり向いていることが苦しくなって。まるで、
「池の鯉が、餌をもらいに、水面に出てきて、口をパクパクしているかのようではないか?」
という感覚になるのだった。
上を向いていると、次第に、
「空ってあんなに遠かったのか?」
と感じるようになり、思わず手をかざして、空を掴んでみたくなるという感覚は、無理もないことではない。
そんなことを感じていると、空の明るさが、それほどでもないような気がした。
「空気が澄んでいるような気がするな」
とかすみは感じた。
「そういえば、秋になると空気が澄んでくるというではないか?」
と感じていた。
中学の頃に、特別活動の授業の中で、自分が選択できる活動があったのだが、その時、かすみは、
「俳句」
を選択したのだ。
「少し高貴な気分になれる」
ということであったが。実際にやってみると、結構楽しかった。
「まるで、平安時代の貴族のようではないか?」
と感じた。
あちらは、短歌なので、俳句とは違うが、俳句の方が、文字数も少なく。さらに、
「季語」
というものが必要だということで、親しみを感じるが、その分、難しくもある。
それだけに、
「できなくても当然」
と思えば、結構楽しくできるものだった。
最近、
「自分のまわりの人が、自分よりも、よくわかっている」
そして。
「すべてのことを把握しているのではないか?」
と感じるのだった。
城の中にいると、ずっと、その場所がどこなのか、分からないでいた。
「ここは一体どこなんだろう?」
と思っていると、例のカビ臭いと感じさせる臭いが襲ってきて、むせ返るような雰囲気に、吐き気を催すのであった。
だが、その臭いの雰囲気から、次第に、そこが、まわりをすべて、コンクリートのようなものに取り囲まれているところであることが分かった。ただ、どうしても不思議なのは、そこに誰かがいるという気配をまったく感じないことだった。
そして、実際にその場所で誰かと会ったという感覚がない。
というよりも、そこで、真っ暗になったという記憶がないのだ。
確かに明かりのようなものはあり、申し訳程度に電球のようなものはあった。しかし、日が暮れると、どれほどの暗さになり、明かりがつけばどれくらいのものなのかということも少しは分かる気がしたのだ。
しかし、そのわりには、明るさがまったく感じられず、その暗さにびっくりさせられることは分かっていたのだ。
実際に、その暗さを感じたつもりといると、影が足元から伸びていた。
その足元から伸びる影は。自分が思っていたよりも、明るい部分と暗い部分が、思ったよりもしっかりしている。
ということは、
「自分が思っているよりに、当たっている明かりが力強い」
ということであり、
「この暗さが、電球によるのもではなく、太陽の光によるものだ」
ということを感じさせたのだ。
そして、いつも、こう感じた瞬間に、目が覚めてしまうのであったが、その時、
「ああ、夢を見ていたのか?」
と感じるのだが、それは、最後に感じたのが、
「明るさの種類が違う」
と感じたからではなかったのだった。
それがどういうことだったのかというと、その明かりが自分の知っている電球の明かりではないと思うと、まず確認しようと思うのは、
「日が沈んだのだろうか?」
と、いう太陽の位置であった。
そのためには、まずは、中庭か、バルコニーのようなところに出なければいけない。実際に、この建物の中をほとんど把握できていないくせに、なぜか、バルコニーか、中庭に出る道は分かっているのだった。
しかも、毎回、同じ道ではないということもなぜか分かっていた。
いやいや、それよりも、
「この同じような夢を、何度も見ているのだ」
ということを把握しているということなのか?
それを自分で分かっているというのが、不思議で仕方がないのであった。
そして、ベランダに出てくると、
「そこにいるのは、誰だというのか?」
まず、最初にそう感じる。
つまりは、
「そこに誰かがいる」
という前提なのだ。
実際に行ってみると、明かりは感じなかった。
だが、表に見える空を見上げると、そこには、何か後光が差しているのを感じ、丸い大きな頭のようなものが、太陽を遮っているのだった。
「今は夕方でも、夜でもないんだ」
と感じ、感じたその向こうに見えるのが、人間であるということも分かる気がした。
その男、
「いや、男だということはなぜかわかる」
と思って、見てみると、最初はどちらを向いているのか分からないが、瞬時に、
「こちらを向いている」
ということが分かると、その顔が、おぼろげに分かってきた。
「あっ、あれは、私では?」
と、かすみはそう感じると、思わず、目を瞑ってしまった。
すると、今度は、急に視線が別に行ってしまったのを感じたのだが、その視線は、自分の身体から離れ、目の前の上から見落としている自分にあるのを感じたのだ。
そこにいるのは、実に小さな自分だった。
下から見上げている時に、そんなに感じなかった距離の長さを、上から見下ろしているという、
「自分」
は感じたのだ。
そして同時に感じたのが、
「恐怖」
だった。
その恐怖は、自分の目が、
「いや、目を通しての神経が、別の方向に行ってしまった」
ということに恐怖を感じたということではなく、単純に、
「上から見ることへの恐怖」
であった。
それは、単純な、
「高所恐怖症」
というもので、上から見下ろすということが、その範囲を示しているということで、遠くに見えているということが、そのまま高さの恐怖になっているということでおまけに。見えている自分がいるこそが、中庭であったり、バルコニーのようなところであったりすることが、恐怖を感じさせるのであった。
その恐怖がどこからくるのかということを、自分でも分かっているのかいないのか、正直分からなかった。
しかし、
「自分が高所恐怖症である」
ということと、
「見えている自分の姿が、小さく見える」
という感覚は、分かっていたのだった。
しかも、交互に下から見上げる自分と、下を見下ろしている自分とが、目線というもので、瞬時にして入れ替わっているということが分かっていた。
それは、
「瞬きをするタイミングで入れ替わっている」
といってもいいくらいだったのだ。
ゆっくり見ていると、次第に、自分の身体の平衡感覚がなくなってくるのを感じた。
「目を覚まそうとしているのかな?」
ということが分かったかのようだった。
そう感じると、今度は耳鳴りがしてきた。
「平衡感覚を失うということは、耳の中にある三半規管というものが、よからぬ状態になっているからだ」
ということを聞いたことがあった。
その時、急に耳に痛みを感じた。
子供の頃、小学生の頃だったか、よくなっていた、
「中耳炎の症状」
というものに似ていた気がする。
そう思って、耳をまた澄ませてみようと思うと、痛みが耐えられない感覚になり、その感覚がマヒしてきているということを感じたのだった。
そして、
「どちらかが、消えようとしている」
ということが分かると、それが、
「上から見ている自分なんだ」
と感じるようになり、案の定、上から見ている自分の感覚がなくなってきて、昼間の明るさが、下から見上げている自分に一気に襲ってきた。
なぜなら、真昼間の太陽をまともに見ようとしたからだった。
その状態に耐えることができなくなった自分を感じた、かすみは、
「これで、夢から覚めるんだ」
と感じ、しかも、最初に、
「夢から覚める」
と感じたその後に感じた、
「上から見ている自分というものを見たという夢」
それが、
「第二次の夢だったのではないか?」
と感じた。
夢というものは、
「すべてを把握して見るのものだ」
ということを、いつ頃からであったか、感じていた。
それは、小学生の頃からだったような気がする。そう、
「思春期の前だったような気がする」
という、漠然としてではあるが、その割には、根拠のようなものがあったかのように感じたのであった。
思春期を感じるようになると、
「目の前にいる自分が急に消えた」
ということが分かったことで、
「夢を見ているという自分も消えてしまった」
ということを感じるようになった。
根拠がないはずなのに、今度は、自信がある気がする。それだけ、
「夢には、見ているということでの自信が必要なだけで、根拠は必要ない」
と思うのだった。
何に対してなのかというと、それは、
「夢の内容を、目が覚めても覚えている」
ということに対してであって、
「それだけのことだ」
という思いが、夢というものをすべて支配しているように思えたのだった。
「人間は、自分が人に気持ちを伝える時には、すでに、自分の中で結論が出ている」
という感覚になるというのだが、まさにその通りだといえるのではないだろうか?
城の外にいる自分と、城の中から見上げている自分とが、同じ人物であるということは分かり切っていたのだが、この夢の恐ろしさは、
「もう一人の自分の恐ろしさ」
であるということに、最初は気づいていないということであった。
漠然と、
「何かの恐怖を感じる」
と思ったのだ。
そして、
「怖い夢ほど、忘れないものだ」
ということを、思春期になったから感じるようになった。
それは、思春期前までは、絶えず自分のことしか考えていない。
というよりも、
「自分だけのことしか見えていない」
ということの証明であり。
「自分以外の誰がそこにいるのか?」
ということを、思春期前には感じなかったのだ。
思春期になると、急に自分の身体の変化にびっくりさせられる。
女性の場合は、
「初潮という、れっきとした体の変化なので、これ以上のハッキリとしたものはない」
ということであるが、男性はどうなのだろう?
これは、他の人から聞いた話だったが、
「男性も、主春季になると、思春期になったことで。身体の変化に敏感になり、それが、ダイレクトに精神を犯すということになる」
というのだという。
だから、
「男は耐えることを知らないので、思春期になってから、恋愛を覚えるまでに、他でストレスがあった時、耐えることができなくなるので、女性がターゲットになることが多いので、気を付けなければならない」
ということを言い聞かされた。
かすみは、なぜか、そんな男性の気持ちも分かる気がした。
しかし、分かるといっても、許せることと許せないことがある。
この場合は、明らかに、
「許せない」
ということで、そのことは、
「女性全員が、掌握していることだろう」
と信じて疑わなかった。
男性と女性の違いは、
「身体だけではなく。その身体の変化についていけるかどうかという精神的なことも、身体の変化に、微妙な影響を与えているに違いない」
ということであった。
男にとって、
「女というものが、ターゲットに見える」
というのは、
「気持ちいい」
という感覚が、癒しを求めているものだという。
これは、女性でも同じだと感じるが、男性の場合は、女性に比べて、その抑えが利かないということであるが、それは、別に、
「男性の快楽が、女性よりも強い」
というわけではないようだ。
逆に。
「快楽という意味では、女性の方が何倍も強い」
ということであり、しかも、男性の場合は。
「賢者も^ド」
というのがあるというではないか。
「賢者モード」
それは、前述のように、
「快楽の絶頂に達した時、男性は、女性にはない、身体から発出する欲望がハッキリしている」
という。
発出してしまうと、身体は、一気に、それまでの興奮が冷めてしまい、逃れることのできない、憔悴に駆られるというものであった。
その状態になると、倦怠感であったり、どこか、虚空のものが、頭の中をめぐり、
「一体、俺は何を求めていたのだろう?」
と我に返ってしまうのだという。
それを賢者モードというようで、
それだけ、急に、失っていたプライドのようなものが戻ってくることで、
「俺は、もっと、賢い人間だったはずだ」
とでも思うということなのか、それを感じると、
「何が怖いといって、我に返ったことで、身体が完全に敏感になりすぎているので、女性であれば、快感の余韻に浸っているのだろうが、男性は、それどころか、肌に感じる必要以上の快感が、却って、鬱陶しく感じられるということであった。
それが、
「男女の間の快楽の違い」
と男女ともに感じるのだろうが、男性の場合は、気持ちが沈んでいるので、中には、
「一刻も早くここから立ち去りたい」
と思う人もいるだろう。
特に、快感を得るために、必至になって頑張り、汗が滴るほどに、快楽を求めた自分をさらに、賢者モードが襲うことで、
「まわりのすべてが嫌になる」
という、一種のうつ病のようになっていると、男性は勝手に思い込むのであった。
確かに、すべてが嫌になることで、うつ病の様相を呈しているのだが、本当のうつ病とは違うのだ。
うつ病となると、
「隣に誰かがいるというだけで、我慢できないほどになる」
ということであるが、実際にはそこまでではない。
うつ病のように感じさせるのは、あくまでも、
「賢者モード」
という、
「男性であれば、誰もが感じるもの」
ということであり、うつ病のように、
「一部の人間に起こる」
ということではないということであろう。
いや、
「実際には、男性皆が、その瞬間だけうつ病を発症し、すぐにその意識がなくなるという、一過性のうつ状態」
なのではないかと、勝手に思い込んでいる男性もいるような気がするということを、かすみは感じていたのだ。
実際に、かすみは、大学時代には、何人かの男と付き合ってきて、
「これが賢者モードというものかしら?」
と感じたことがあったのは、間違いのないことであった。
しかも、それが、
「ロストバージンの時だった」
ということをハッキリと覚えている。
あの時は、自分でも、気持ち悪くて、吐き気を催していたのだ。
初潮の時から、生理になった時の臭いや、その前後での、身体から発する鉄分を含んだ、薬品のような臭いに、実際には、自分でも、
「気持ち悪い」
と思っていた。
しかし、実際に、処女ではなくなった瞬間の出血で感じたその臭いは、
「今まで感じた。生理の時の臭いとは、若干違っていた」
何が違うのかは、正直言葉にできない気がするが。
「その違いというのは、薬品の臭いの違いだ」
といって、しかるべきだと感じていたのだ。
処女を失ったその時に感じたのは、虚しさなどではなく、
「生理の時の自分と、別人のような気がする」
という、まったくセンチメンタルな気持ちとは違った、
「微妙な感覚だった」
といってもいいだろう。
「生理の時の自分がそんな自分だったのか?」
ということを、処女を失った瞬間の自分は、思い出そうとしても思い出せなかった。
ただ、その時に感じたことを、
「これ以降も、同じことを考えるようになるかも知れない」
と感じたのだ。
その思いがどこから来たのか?
ということであるが、その答えが、
「西洋の城」
ということで、
「もう一人の自分を感じさせる恐怖の夢」
というものを見せるこの時だったのではないだろうか?
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