雨を降らす傘

藤堂こゆ

雨を降らす傘

 煙る雨の中。濃紺のブレザーを着た青年が、傘をさしてうつむきがちに歩いています。

 彼は閑散とした商店街を通り、住宅街を通り、いくつかの路地を曲がり、やがて一件の家の前に立ち止まりました。

 青年は軒下に入り傘を畳むと薄汚れた引き戸をがらりと開けて中に入りました。

 初めてこの家に入った人は驚くことでしょう。なぜなら家の中は外の見かけとすっかり違って、近未来的な研究所なのですから。

 けれども青年は露ほども驚きません。傘立てに傘を置き、ぐっしょり濡れたスニーカーを脱ぐと、用意されていた『急速乾燥機付きスリッパ』をつっかけました。すると水びたしの靴下は一瞬にしてからりと乾いてしまうのでした。

 青年は感慨もなく白い廊下を進みます。きっかり五歩。つきあたりの扉を押し開けました。

 何やら機械音がしたりピコピコ光るものがあったりする研究室の奥。背を向けて熱心に手を動かす人物に、青年は声をかけます。

「博士」

 白髪の小柄な博士はひょいと振り向くと、

「ああ、君か」

 と言いました。

「新しい発明品はできましたか」

 と青年はことわりもなくガラクタの山を押しのけて荷物を置きます。

 博士は頓着もせず、

「少し待ちたまえ」

 とそのあたりの山をごそごそやって一本の細長い物体を取り出しました。

「なんですか、それは」

 青年は怪訝な顔をして黒い物体を見つめます。どうやら畳んだ傘のようです。

 博士は机の上のガラクタを押しのけて空いた場所に傘を置きました。ガラクタはけたたましい音を立てて床に落ちますが気にしません。

「これは『雨を降らす傘』だ」

 高らかに言う博士に、青年は耳を触りながら首を傾げます。

「と言うと」

「この傘をさすとどんなに晴れていてもたちまち雲が発生して雨が降り出すのだ」

「へえ」

 青年は眉を上げて興味を示しました。

「博士はいつだって、何の役に立つのかわからないものを作りますねえ」

「それが、そうでもないかもしれないぞ。特に君のような若者にはな」

 博士は悪巧みをする小僧のような顔で青年にささやきかけます。

「それは一体どういうことです」

 青年は眉をひそめます。

「前に好きながいると言ってただろう」

「何ですいきなり」

「この傘は相合傘にうってつけなのだ。よく考えてみたまえ」

 言われた青年はしばらく思案顔をしていましたが、やがて傘を手に取りました。

「むふふ、たのんだぞ」

 ニヤつく博士から実用実験のバイト代をもらい玄関に向かいます。

「そうだ、これだけは覚えておきなさい」

 靴を履く青年に博士は言います。

「くれぐれもその傘を人に貸したりただの雨の日にさしたりするんじゃないぞ」

 青年はひとつ頷くと、二本の傘を持って研究所を出て行きました。


 次の日。青年はさっそく博士が発明した傘を持って学校に行きました。雨予報は出ていないのでひどく目立ちますが、そんなことは構いません。

 薄汚れた傘が何本か放置された傘立てに新しい傘を置くと、何食わぬ顔で教室へ上がって友人たちに挨拶をしました。

 高校生の一日は目まぐるしく過ぎます。青年が次に傘のことを思い出したのは終業の鐘が鳴ったときのことでした。

 思い出すと途端に胸がドキドキしてきます。青年は挨拶もそこそこに階段を降りると、昇降口のそばの柱の陰でその時を待ちました。

 十五分後。青年の想い人、エヌさんが一人で階段を降りてきました。

 エヌさんは大人しい女の子で、大抵の時間を一人で本を読みなどして過ごしているのです。

 エヌさんが階段を降りてくるのを見て、青年は一足先に靴箱に向かいました。靴を取り出したところでエヌさんがやってきたので会釈します。そのまま何気ない様子で靴を履き、傘を持って外に出ます。

 そして傘を開きました。そうっと慎重に。

 一、二、三。ぽつり。

 ぽつぽつと雨が降ってくるのを見て、青年はひとまず息を吐きます。博士の発明品はどうやらうまく働いたようです。

 しかし青年にとってはここからが本番です。

 エヌさんが出てきました。雨が降ってきたことに気づいて困った様子です。しかも雨はだんだんと強くなります。

 困っているエヌさんに、青年はそれ、と気合いを入れて近寄りました。

「傘、ないの?」

 と声をかけるとエヌさんは伏し目がちに頷きます。

「うん。困ったわ」

「この傘貸そうか」

 青年は開いた傘を揺らします。

「でもそれじゃあなたが濡れちゃうでしょ。申し訳ないわ」

 エヌさんは困った顔をします。

「それなら駅まで一緒に行こう」

 青年はそう言って、エヌさんの頭上に黒い傘をさしかけました。

 エヌさんは傘と青年とを交互に見ていましたが、やがて微かに頷きました。

 青年ははちきれるような喜びを感じましたが、それを隠すように口を引き結んでエヌさんと一緒に雨の中へ歩き出しました。


 そんなことが何度かありました。もちろん不審がられないように、慎重に。あくまで偶然を装って。

 それは大変な忍耐を必要としましたが青年はなんとかやり遂げました。ついに青年とエヌさんとは、傘の中で堂々と肩を寄せあえる仲になったのです。

 待ち望んだ恋人と過ごす日々は想像以上に楽しいものでした。青年は傘のことなんかすっかり忘れて青春を謳歌していたのです。


 ある日の放課後。

 青年は昇降口の傘立てに黒い傘があることに気づきました。すっかり忘れていたあの傘です。いつか傘立てに置いたきり持ち帰るのを忘れていたのです。

 青年はふふっと笑い、思いつきで傘を手に取りました。外に出て開くとまもなく雨が降ってきました。

「あら、雨? 予報にはなかったのに」

 隣のエヌさんが言いました。

「大丈夫だよ。傘がある」

 青年はためらいなく傘をエヌさんの上にさしかけました。

「うん。帰りましょ」

 エヌさんの笑顔は世界一かわいいと、青年は常々思うのでした。

 他愛もない話をしているうちに駅につきました。

 青年はふと思いつきました。傘を閉じても外の雨はすぐにはやみません。エヌさんは駅から家まで歩くでしょうから、その道中で濡れてしまうでしょう。

「この傘、貸すよ」

 考えるより前に青年は畳んだ傘を差し出しました。

「でも」

「僕は走ればいいからさ」

 明るく笑って見せると、エヌさんは伏し目がちに、けれども嬉しそうに小さく頷きました。

『その傘を人に貸したりただの雨の日にさしたりするんじゃないぞ』

 電車に乗ってから博士の言葉を思い出しましたが、それも目まぐるしい景色とともに流れ去ってしまいました。

 

「別れましょう」

 黒い傘とともに押しつけられたその言葉に、青年は愕然としてエヌさんの顔を見ました。

「ど、どうして?」

 何やら怒っている様子のエヌさんに恐る恐る聞きます。

「その傘を開けばきっとわかるわ」

 さよなら、と言うやエヌさんはにべもなく帰ってしまいました。

 一体何が悪かったのか青年にはわかりません。呆然としたまま靴を履きかえ外に出ると雨が降っています。青年は受け取ったばかりの傘をさして校門を出ました。

 黙々と歩いていると、上からぽたりと滴が落ちてきました。傘に穴があいているのかと見上げますが違うようです。気のせいかと顔を下ろしかけるとまたぽたりと落ちてきました。

 そのとき青年は妙なことに気づきました。

 傘の外の雨がすっかりやんでいるのです。滴をつけた草やアスファルトが日に照らされてきらきらと光っています。だというのに青年の頭や手にはぽたぽたと水が落ちてきます。それはみるみる量が増え、やがて本物の雨のようになりました。

「なんてことだ」

 濡れそぼった青年はしょんぼりと傘を畳みます。ややあって再び降りだした雨の中、青年は博士の家へと走りました。


 青年が研究所に入ると、ごおっと熱い風が吹いてきました。

「わっ、なんだっ」

 風がやんで見てみるとびしょぬれだった制服や鞄はすっかり乾いています。

「やあ。どうかね、全身自動乾燥機は」

 玄関を上がったすぐのところに四角い白い物体があって、博士がその上に手を置いてこちらを見ていました。

「どうもこうも」

 と青年は頭をかき、それから右手にひっつかんだ傘を博士の眼前に突き出しました。

「一体これはどういうものです」

 博士はしかし、悠長に首を傾げます。

「彼女とはうまくいったのかね?」

「そりゃあもう」

 青年は険しい顔で頷きました。

「でもフラれたんです、今日」

「それはまたどうして」

「それを聞きに来たんですよ」

「……まあ上がりたまえ」

 二人はつきあたりの研究室に入り、ガラクタをどかした机を挟んで座りました。

「もしやその傘を彼女に貸したんじゃなかろうね」

「ええ貸しました。昨日の今日でこのザマです」

「そりゃいかんな君」

 博士は眉間に手をあてます。

「いやはっきり言わなかった私が悪いが」

 と目を上げて青年を見ました。

「この傘はな、登録した者以外が開くと傘の中に雨が降ってくるのだ」

「そりゃまた何のために」

「盗難防止だよ」

「はあ。ではただの雨の日に開いてはいけないというのは」

「この傘は雨雲を引き寄せる。もともと雨が降ってるところにさしたら天空の雨雲を傘の中にすっかり吸い取ってしまうのさ」

「それで外は晴れて中が雨降りなんてことになるんですね」

 青年は呆れを通り越して納得してしまいました。

「おそらく君の彼女は一つ目の理由で雨にしまったんだろう。それでうんざりして、君もとな。ハハハ」

「うまいこと言わないでください」

 恨めしげに言う青年に、

「なに、女の子なんてどこにでもいるさ。もう一度これを使ってみるかい?」

 博士は机の上の傘をつんつんとつつきます。しかし青年は首を振りました。

「雨に降られて頭が冷えました。とりあえず彼女に謝ってみます」

「そうかい、まあそれがいいだろう」

「僕は彼女でなきゃ嫌なんです。博士みたいなスケベじゃないんだから」

「なんだって」

「ふふふ、じゃさよなら」

 青年は面白がるように、けれども少し恥ずかしそうに笑って、研究所を出て行きました。

「若いってのはいいなあ」

 老博士はその背中を見送って呟きました。

 町にはしとしとと雨が降っています。

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雨を降らす傘 藤堂こゆ @Koyu_tomato

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