第47話
アデがケイトに堕ちるのは、あっという間だった。
アデにとってケイトは、自分が求めるものを差し出し、長年の夢を叶えてくれようと言う、若く美しい男だ。
そして、どれほどアデが渾身の誘惑をかけても鼻で笑い、他の者のように自分を神聖視して心酔することも、逆に警戒して距離を取ることもない。
アデなどいつでも切り捨てられるとばかりに笑う、酷薄で残忍な陰を見せる男。
敬う姿勢は見せても、本心ではこちらを見下していることを隠そうともしない、傲慢な男。
アデにとって、ケイトはただの手駒の一つのはずだった。
アサド・サレハとの繋ぎを取るための手段に過ぎなかったはずなのに。
アデは、すっかりケイトそのものに堕とされてしまったのだ。
本人も気づかないうちに。
なりふり構わず、誘惑せずにはいられないほどに。
「ねぇ、今夜は私の褥にいらっしゃいな」
まったく靡く様子のないケイトに業を煮やしたアデは、とうとう直接的な誘いをかけた。
「おや、随分と積極的なお誘いで」
体の関係があれば安心できる愚かな女なのか、それとも己の体で堕とせる自信があるのか。心の中ではそう嘲笑しながら、ケイトは顔では困ったように笑って見せた。
「レナードも
「ありがたいお誘いですが、夜は侍従としての務めもございますので」
「あら、そんなもの……」
「さすがにそこまで勝手してしまうと、疑われますからね。今くらいの塩梅がちょうど良いのですよ、アデ様」
納得できようはずもない理由であっさりと流されて、アデは屈辱に顔を歪める。アデはこれまで、求められて焦がれられて、寝台に上がることを許す立場だった。自分から誘ったり、はたまた縋ったりするなど、初めてだったのに。
「……女に恥をかかせるなんてっ」
「ただの女ならば、もっと簡単にあしらいますよ。貴女だからこれほど扱いが難しい」
困った子供をあやすように苦笑してため息をつくケイトに、アデは真っ赤になって激昂した。
「あなた、本当に言動が不敬よ!手打ちにしてやろうかしら!?」
「あははっ、出来もしないことを仰いますな。お可愛らしいだけでございますよ」
どれほど怒鳴りつけても、笑って流し目を寄越すケイトには動揺など欠片も見えない。
潜り抜けてきた修羅場の違いを感じて、アデは歯軋りするしかなかった。
ケイトは挑発的な言動を取るくせに、なかなか最後の一線を越えようとはしなかった。
「私に嵌ると危のうございますよ?」
冗談めかして笑いながら、瞳の奥には冷たい品定めが見え隠れする。
この男はまだ自分のものではないのだ、いつ裏切るか分からない。
この男を完璧に手に入れなければ、自分は欲しいものを手に入れることは出来ないのに。
そんな危機感が、アデをどんどんと大胆にさせた。
「ねぇ、レナードは何をしているのかしら」
「さぁ、私も日中はこちらに侍っておりますし。私はさっぱり信頼されておらず、あまり詳しいことは聞かせて頂けないので」
強く引き留められ、とうとうアデが眠るまで部屋に居ることになったケイトが肩をすくめる。すでに日は落ちて、貴人の部屋にしては妙に薄暗い。アデはまだケイトの誘惑を諦めていないのだろう。月明かりといくつかの灯りだけに縋る部屋は、芳しい香りと怪しい気配に満ちていた。
「レナードは、私を警戒しているのかしら」
「おや、思い当たる節がおありで?」
「あなたがそれを言うの?」
「ふふふ、そうでございますね」
しどけなく長椅子に横たわるアデは、手を伸ばしてケイトを呼び寄せる。
「喉が渇いたわ」
「はい、ただいま」
用意されていた瓶を傾ければ、杯には最高級の果実酒が注がれる。甘い果実の香りの中で、かすかに薫る違和感に、ケイトは目を細めた。おそらく少量の媚薬が溶かされているのだろう。アデはケイトをよほど籠絡したいようだ。
当然のように二つの杯に注ぐと、ケイトは自然な仕草でアデの隣に腰をかけた。
「私の有能な仔犬ちゃんに」
「薔薇の女神の美しき未来に」
カチン、と硝子の触れ合う硬質な音が響く。ケイトが躊躇いなく飲み干すのを満足げに眺めて、アデもこくり、と口に含んだ。
「レナード様を恐れていらっしゃるのですか?」
「いえ、まさか」
躊躇いなく核心を突いたケイトに、アデは余裕ある笑みを見せる。
「あの子がこの地で兵を向けてきたところで、辺境騎士団に鎮圧されるのは時間の問題よ」
「ここはアデ様の領土、地の利はございますからね」
「ここで何か起こされたところで、私が負けることはないわ。ここの者たちは、みんな私のモノだもの」
自信に満ちた言葉は、確かに真実なのだろう。辺境騎士団は皇国一の精鋭揃いと名高い。そして、この地の者は、確かにアデに心酔しているようだから。
「でも、皇都に呼び出されてしまうと困るわねぇ。あちらは兄とあの子の陣地だから」
甘い酒を口の中で転がしながら眉を顰めるアデに、ケイトはあっさりと言った。
「なに、簡単なことですよ」
「え?」
「やられる前にやれ、と下賤の者たちは言うのですよ。先手を打つのが勝利の秘訣、とね」
思いがけない言葉だったのだろう。アデは困惑するように目を瞬いた。
「正々堂々宣戦布告など、馬鹿のすること」
きっと皇国育ちの清らかなアデの価値観にはないのだろうが、帝国では普通のことだ、と唆す。
「さぁ、アデ様。早くご決断なさいませ」
「で、でも、帝国からの助けがなければ、私だけの戦力では……」
尻込みしているアデに、ケイトはさもおかしさことを聞いたかのように、クスクスと笑った。
「おや、私が何もせず、ここで昼はただ侍り、夜はただ惰眠を貪っていたとでも?」
「え?」
冷たい笑みを閃かせるケイトに、アデは目を奪われる。そして、続く言葉に息を呑んだ。
「我が主人は、既に
「ええ、一応勉強はしているから……読める……けれど……ま、さか」
暗い寝室で枕元の灯りを頼りに書状を見つめていたアデは、徐々に驚愕に目を見開いた。
「あなた……ッ!あなたの主人はスルタンなの!?」
「おや、どうしてそうお思いに?」
愚かな女狐を揶揄うように首を傾げれば、アデは興奮した顔で書状の最後を細い指で差した。
「だ、だって!これは、スルタンの御璽じゃないの!」
よくお分かりで。
それはケイトが手ずから細筆で描いた、スルタンの御璽の
複雑極まるこの御璽は、特別な職人にしか印鑑を掘ることは不可能と言われているが、それを十年弄んでいたケイトは、模写程度ならば容易い。
些細な違いはあるが、比べて見なければ分かるまい。かつて皇国宛の書状で見ていた程度では、この部屋の暗さではなおさら分からないだろう。
「我が主人の主人は、たしかに、そうかもしれませんねぇ」
曖昧なことを言いながら、ケイトは笑って書状を摘む。
「こちらは先ほど届いたモノです。お読みになったら、今すぐ燃やして下さいませ」
「わ、わかったわ」
帝国と勝手に通じていると分かれば、いかに皇国の皇妹といえど極刑だろう。青白い顔で蝋燭に近づき、震える手で書状を燃やしている。
帝国の豪族であれば、皇妹であるアデは、力はあろうとも所詮ただの平民、と思っていたのだろう。自分の方が上だと。
けれど、スルタンは別格だ。彼の人は、この大陸で最も強大な王者にして、この世の覇者なのだから。
「さて、ご決断を」
「えっ?」
淡々と告げるケイトに、アデは青い顔で動揺を露わにした。展開の速さについていけないのだろう。だが、猶予はない。こんな
「我が主人に、お返事をお持ちせねばなりません。薔薇の女神からのお言葉を待っている哀れな男に、お手紙を書いて下さいませ」
「そ、そんな、急には無理よ!スルタンに……」
「おや、貴女ともあろう方が、何を仰いますやら」
己が薫いた媚香に思考力を奪われているらしい愚かで憐れな貴人に、ケイトは甘く囁く。
「我が主人は既に決めてらっしゃいます。そして……待つのがお嫌いでいらっしゃいますよ」
「ひっ」
蕩けるような優しい声で、高慢な皇妹を脅迫する。普段は驕っている女がみっともなく悲鳴をあげるのを、ケイトは大した感慨もなく見下ろした。
「スルタンは先の皇国からの贈り物がたいそうお気に召したと伺っております。皇国を手に入れれば、もっと気儘に手に入ると、呟かれていたとも……手足になる、優秀な駒が欲しいなぁ、と」
山より高い歪んだ誇りを持つアデに、告げてやる。スルタンは手足として動く駒を欲していると。お前はその駒に選ばれたのだ、と。
そして、この皇国はもう終わりなのだ、と。
「選択肢など、ごさいますか?」
恐ろしいほどに優しい微笑みを浮かべて、ケイトが唆す。そっと手にペンを握らせて、己の手で描かせる。闇に包まれた終焉への道を。
「貴女の言葉で仰いませ。……全て帝国の望みを叶えるから、この国を私に寄越せ、と」
催眠術にかかったように、のろのろとペンを握るアデに、ケイトは優しく褒めるように囁いた。
「それだけが貴女の生き残る道にございますよ」
栄えある破滅への門出を祝って。
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