第45話

「間者、ですか?」


 毒に反応する銀で薔薇が描かれた器を出された時から、あからさまに疑われていると察していたケイトは、とうとう本題に入れると喜びながら首を傾げた。


「アデ様、どうしてそのようなことをお思いに?」


 さも心外そうに、わざとらしいほど幼さを醸し出して不服を訴えるケイトに、アデは愉快そうに尋ねた。


「だって……あなた、レナードの影でしょう?」

「……影、とは?」


 確信を持った問いかけに、ケイトは心の中で笑いながら、表情は変える事なく言葉を紡ぐ。そして、獲物を捕らえるための網を少しずつ広げていった。


「レナードがやけに有能な東の少年を飼っていると聞いたことがあるわ。それがあなたなのではなくて?」

「はてさて、何のことやら」

「ふふ、可愛らしいおとぼけね」


 はらりと夜着が床に落とされる。肌が透けるほど薄い肌着一枚となったアデの妖艶な姿を前にしても、ケイトの微笑は揺るがない。明らかに只者ではない侍従姿の少年を前に、アデはほぼ裸身とも言える姿を隠すこともなく、歌うように尋ねた。


「拾ってくれるかしら?」

「御意に」

「ふふっ」


 床に膝をつき、丁寧に高級な薄衣を手に取るとそのままアデを見上げる。女神のような裸身で差し出される明らかな挑発にも反応せず、穏やかな顔で次の指示を待つケイトに、アデはコロコロと笑う。そして楽しげに目を細めて首を傾げた。


「ねぇ、可愛らしい坊や。ここで私が悲鳴をあげたらどうなると思う?」

「さて、どうなるのでしょうね」

「ふふふふっ」


 とろりと瞳に闇を溶かして見つめ返せば、アデと視線が絡み合い、まるで共犯者同士のような親密さが醸し出された。


「本当に、賢くてふてぶてしい子」


 白魚のような指先が、煽るようにケイトの顎にかかり、くいと上向ける。跪いたまま自分を見上げるケイトに、勝利を確信したように囁いた。


「……あなた、欲しいわ。私のモノになりなさい?」


 断られることなど思いもしていないアデの笑みに、しかしケイトは揺らぐことのない微笑で応える。


「さぁ、それは難しいご相談で。私は既に全てをに捧げておりますれば……」

「あら」


 神がレナードを指すと思ったのだろう。不満げなアデは、扇子を手に取ると、パチリ、とケイトの首を叩いた。


「それはそれは……あなたが死んだら、レナードは悲しむことでしょうねぇ」

「ふふっ」


 トントン、と繰り返し扇子で頸動脈を叩かれて、ケイトはふっと笑ってしまった。随分と気軽な殺害予告なことだ、と。


「何がおかしいのかしら?」

「いえ、アデ様のお優しさに、つい」


 不愉快そうな表情が、ケイトの言葉に不可解なものに変わる。ケイトは穏やかに微笑み、表情を変えぬまま、さらりと恐ろしい予言を口にした。


「レナード様が悲しむ……?いえいえ、そんなことはございませんでしょう。なにせ、私が死ぬということは、この国の終わりが近いということ。瑣末な事柄には構っていられますまい?」

「え?」


 堂々と言い切るケイトのとんでもない発言に、アデは固まってケイトを凝視する。


「どういう意味かしら?」

「さぁ、私は私が消えた後のことにさほど興味はございませんので。ご自身でお考えくださいませ」


 取りつく島もないケイトの言葉に、アデの表情に焦燥が混ざる。

 もしかして自分は何かを間違えているのではないか、見落としているのではないか。そんな焦りだろう。

 あと一息だな、と思いながら、ケイトはもう一枚の札を切った。


「それにしても、さすがは情報通のアデ様、殿下の子飼いの東の人間など、よくご存知でしたねぇ!……えぇ、確かによ」


 にんまりと笑い、残酷な嘲笑を浮かべる。ただの侍従が浮かべるはずもない、冷酷で傲慢で、人の命を何とも思わない、圧倒的強者の微笑みを。


「愚かにも虎の巣穴に入り込み、大虎に食われた哀れな黒兎が!」

「っな」


 息を飲んだアデの前で、ケイトはシュッと手元に小刀を取り出す。


「ねぇ、アデ様」


 どこから現れたのかもわからない刃に、アデが動揺してその場に情けなく座りこみ、後ろの侍女は慌てて騎士を呼ぼうと声を張り上げようとする。しかし。


「お静かになさいませ。貴女を傷つけるつもりなどございませんゆえ」


 ピタリと首元に当てられた薄刃に、アデは息を飲み、後ろの侍女も凍りつく。


「人を脅迫なさる時は、同じことをされる覚悟をお持ちになるとよろしいでしょう」


 幼児に対するような優しい声で忠告して、ケイトは「くくくっ」とあからさまに馬鹿にした声で笑った。


「あはははっ、それにしても、殿下に忠誠を捧げていたはきっと思いもつかないことでしょうね。代わりに私のようなものが入り込むことになるなんて!」


 ケイトの言葉に、アデは半信半疑の目で問いかけた。


「まさか、レナードの本物の影と、入れ替わったとでも言うの?」

「それこそまさか!レナード様は入れ替わりに気づかぬほどの愚か者ではございませんよ。……残念ながら、ね」


 嘲弄の言葉を吐き捨てながら、ケイトはにんまりと目を細めて、歌うように言葉を続ける。嘘で作り込んだ真実を、アデに信じさせるために。


「今は、自分の元に侍従として入ってきたという異質な人間を見極めている最中でしょう。己のとして使える人間なのか、それともなのか」


 ひゅ、と息を吸うアデに、ケイトは尚更優しく、分かりやすく語りかけた。


「レナード様は、先代の侍従長の紹介で引き立てられ、どれほど怪しい過去の出てこない私が、本当にな人間なのか、まだ疑ってらっしゃるようですが。厳しい側近の目をくぐり抜けたと言うことで、ひとまずお側に置いて下さっております。ありがたいことです」


 礼儀正しく慎ましい侍従の顔で、嬉しそうに頬を染めた後で、ケイトは残忍な顔で嗤い混じりに吐き捨てる。


「まぁ、正解がどちらかなのかは、言わずにおきましょう」


 冷ややかな声の嘲弄と首筋に当てられた冷たい刃の感覚に、顔色をなくしているアデに、ケイトは再び優しく言葉をかける。恐怖と優しさの緩急は、相手を支配する上で大事なコツなのだから。


「私が間者だとしてもうまく使えばよいと、とて使いようだと、そう考えていらっしゃるのでしょうね。自分ならばができる、と。……レナード様は、賢く傲慢で、愚かしくも豪胆なお方のようですから」


 大熊を一人で倒してみせると意気込む幼児を評するようにレナードについて語り、ケイトはクスリと残虐な笑みをこぼした。


「私なら、危険なモノなど、さっさと首を刈ってしまいますがねぇ。刃物を使いこなす能力のない者ほど、刃物を使いたがるものです。……その刃が己を傷つけるだなんて、想像もせずに、ね」


 固まったまま震えているだけのアデに、ケイトは穏やかな声で語りかける。これが最後の仕上げだ、と思いながら。


「ねぇアデ様、私がお仕えしている方が、本当にレナード様だけだとお思いでございますか?アデ様ともあろう方が、私が、レナード皇太子殿下のような真面目でつまらないお方に、衷心からお仕えしていると?」

「ま、さか……」


 カタカタと小刻みに震えるアデは、信じられないものを見るようにケイトを見上げる。その瞳が興奮と昂揚の熱で潤んでいるのを見て、ケイトは獲物が網にかかったことを確信した。


「アデ様、は、退屈をお厭いです…そして、面白みのない真面目なだけの男より、 才気溢れ野心漲る美女の方がお好きですよ」


 その言葉に確信を得たのか、アデは紅を刺さずとも紅い唇を僅かに噛む。そして、そっと震える唇を開いた。


「ねぇ……あなたは、『どちら』からいらしたの?」


 震え声の問いかけは、おそらくは興奮のためだ。


「よくその言葉をご存知で」


 まるで幼児を褒めるように耳元で囁きながら、ケイトは蕩けるような美声で鼓膜から毒を流し込む。破滅に導く致死性の猛毒を。


「私は『都の外れから。最も熱き血を求めて』、我が主人の命を受けて参りました」


 それは、サレハと通じた者にのみ知らされる暗号。

 かつて寝台の上で囁かれたそれを、ケイトはこの場で歌うように口ずさんだ。


「大陸の覇者が『お前だけは手元から逃したくない』と笑った、人の血を啜って生きる悪魔が、あなたに手を差し伸べます。いかがなされますか?」


 ひゅっと息を飲んだアデが見つめるのは、ケイトの首元。

 ケイトがリーとして振る舞い始めてから常に首からぶら下げている、帝国の神を祀る聖典の書物。

 その書の後ろ半分が、カチリと音を立てて開くと、そこからチラリと覗くのは、大陸最大級の紅玉だ。


 スルタンでもなければ手に入らない、とんでもない大きさの玉は、宝玉蒐集家であるサレハの手の者である証と、アデにはことだろう。


 実際この石は、サレハがスルタンに献上し、ケイトのモノとなった石。とてもこんな片田舎の皇国で目にするはずもない、この大陸広しと言えどもサレハにしか手に入らない極上の一品だ。


「信じていただけましたか?お美しいお方?」

「あぁ……私にもやっと運が回ってきたということが、ようやく」

「ええ、は最も強く美しい者の味方ですから」


 光り輝く金剛石を思いながら、ケイトは喜びに頬を染める虚飾に満ちた紛い物の紅玉を抱きしめる。

 もう少しでレナードの求めるが手に入ることに、喜びを感じながら。

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