第42話
夜を跨いだ華やかな宴も、そろそろ終わろうとする頃。
人々の騒めきの声を遠くに聴きながら、ケイトは周囲を気にする様子もなく夜深い城の庭園を歩いていた。
「……赤い薔薇」
庭園に咲く薔薇の美しい蕾を、ケイトはそっと手に取った。
指先で花弁を辿り、ふわりと微笑む。
「これにしましょうか」
手際良く棘を処理し、根元のところでパキッと折った。
内ポケットから取り出した布でくるりと花の枝を巻き、胸元に挿す。
「ふふ……」
顔を上げて月を眺め、ケイトはニコリと笑った。
ただ穏やかなばかりの皇宮暮らしでは感じなかった心地よい緊張感と、ぞくぞくするような興奮が身を包む。
ぺろりと舌舐めずりをして、ケイトは妖艶に目を細めた。
視線の先には、庭園の全てを見渡せる位置に設えられた、アデの私室がある。
薄暗い部屋は、まだ無人のようだった。
「さて、伺いましょうか」
迷路のような生け垣の中へ、ケイトは躊躇なく足を進める。
足音もなく歩いていると、生け垣の向こうから、時折男女の密やかな睦み合う声が聞こえてくる。
男の背丈よりもはるかに高い生け垣で構成されたこの薔薇の迷路は、一夜の恋を楽しむ者たちのための隠れ家でもあるのだろう。
貞節を重んじる皇国にしては、随分と気の利いたことだ。
アデの『気配り』なのだろうと推測しながら、ケイトはするすると薔薇の迷路を進んでいく。
常人なら迷いこむであろう夜の迷路も、帝国で最新の建築と最先端の遊戯を極めたケイトにとっては可愛らしいものだ。
ほとんど躊躇うこともなく足を進めていると、ふと背後に気配を感じた。
「お客様、失礼いたします」
「……はい」
突然後ろからかけられた声に、ケイトはゆっくりと振り向いた。
「宴のお客様でいらっしゃるかとお見受けいたします」
胸に手を当て、慇懃な仕草で頭を垂れているのは、騎士服を纏った男だった。
「これより先は薔薇も見頃を過ぎており、見苦しゅうございます。どうか広間へお戻りくださいませ。お迷いのようでしたら、私がご案内いたしましょう」
丁寧ながらも有無を言わせぬ口調で、男が告げる。
これ以上先には進むなと言わんばかりの様子に、ケイトは微笑んだ。
「おや、この先では、高貴なお方がどなたかと睦んでいらっしゃるのですか?」
「まさか」
冗談めかして首を傾げてみせると、騎士は感情を見せない真顔のまま首を振る。
「こちら、お客様の肥えた目を満足させるようなものはございませんゆえ、どうぞお戻りを」
「それは困りましたねぇ……」
道を塞いだまま、淡々と言う騎士に、ケイトはゆるりと眉を下げて苦笑した。
そして、胸元に挿していた薔薇をすっと抜き取り、赤い花弁に唇を寄せた。
「先程庭で摘んだのです。美しいでしょう?」
「……はぁ」
どこか警戒したように眉を寄せる男に、ケイトはするりと妖艶な流し目を送る。
「一生懸命選んだのですよ。『暁の薔薇』を望まれた、美しいお方のために」
「……なるほど、失礼いたしました」
微笑を浮かべて囁いたケイトに、男は再び表情を消し、綺麗な敬礼をする。
「どうぞ、奥へお進みください。……主人がお待ちです」
「よく辿り着けたわねぇ、賢い坊や」
「貴女様に焦がれる私を憐れんだ薔薇の女神のお導きでございましょう、紅薔薇の貴婦人」
「あら」
薔薇の迷路の中心で、アデは優雅にベンチに腰掛けてグラスを傾けていた。
くすくすと笑いながらグラスをテーブルに置いたアデは、うっそりと目を細めてケイトを見る。
「こちらにいらっしゃいな、あなたにも私の自慢の葡萄酒を用意しているのよ」
「ありがたき幸せに存じます」
アデと向かいの椅子にするりと腰掛けてケイトは微笑んだ。
「伝説の美姫とグラスを交わせるとは、私の寿命が今宵限りで消えてしまっても、文句は言えませんね」
「流れるような美辞麗句だこと。まったく、甥御殿の周りにはいなかったタイプねぇ」
おかしそうに笑いながら、アデはグラスを揺らす。
ケイトが自らのグラスに血のような色の酒を注いだところで、白魚のような手がグラスを掲げる。
「可愛らしい坊やとの愉快な出会いに」
「慈悲深い女神のお導きに」
乾杯、と囁き、カチリとグラスを合わせる。
一息に葡萄酒を飲み干して、ケイトは笑みを深めた。
「さすが、アデ様。これはもしや、神酒と呼ばれる皇国最高級の葡萄酒では?」
「ふふ、随分と舌の肥えた侍従さんねぇ」
艶やかな流し目を送りながら、アデも優雅にグラスを傾ける。
真っ白な喉が、こくり、こくり、とゆっくり嚥下した。
無防備に晒されたなまめかしい首筋にさらりと視線を向け、ケイトは無言で微笑む。
誘惑めいた仕草にもまったく動揺の色を見せないケイトに、アデは満足げに笑い、口を開いた。
「宴はいかがだったかしら?」
小さく首を傾げ、しっとりとケイトを見る目に宿るのは冷静な興味。
観察者の目で尋ねる妖艶な貴婦人に、ケイトは落ち着いた微笑を浮かべて答えた。
「領主であられるアデ様の財力、影響力、そして美意識を窺わせる、洗練された宴でございました」
「あら、帝国育ちのあなたには、物足りなかったのではなくて?」
ケイトの賞賛に、アデはゆるりと目を細める。
「あなたならばきっと、もっと華やかな、贅の限りを尽くしたような帝国の宴も
「まさか、私のような者にそのような機会があるはずもございません」
探る眼差しを笑みで受け流し、ケイトは肩をすくめる。
揺らぐことのないケイトの表情に、アデは面白そうに唇を緩め、「まぁいいわ」と呟いた。
「そうそう。先程はレナードに随分きつく当たられていたけれど、あなた一体何をやらかしたの?」
しどけなく背もたれに身を預けながら、アデはくすくすと笑う。
さも愉快そうに見つめるアデに、ケイトは軽やかな仕草で肩をすくめて苦笑してみせた。
「私が悪うございました。……アデ様のご用意くださったお料理に毒味が必要とは思わず、そのまま出してしまいました」
「あら。毒味は必須ではないことよ?それに葡萄酒はレナードも気にせず飲んでいたはず。……あなた、
ぐわりと心の奥を覗き込もうとする深い瞳。
上に立ち、下の人間を従える者の目だ。
一筋縄にいかない、それなりのご婦人らしい、と内心で思いつつ、ケイトはにこりと微笑んで無邪気な顔を作る。
「特に何も。私はただ侍従の務めを果たそうとしていただけでございますよ。……あぁ。もしかしたら、憧れの貴婦人に見えた喜びで、ついアデ様を見つめる瞳に熱が篭もってしまったことにお怒りなのかもしれません。お美しい叔母君は殿下の憧れでございましょうから」
「ふふ、おやまぁ、可愛らしい理由だこと」
ふぅ、となまめかしい吐息をつきながら、アデは頬杖をついて物憂げに呟いた。
「ますます、ただの侍従とは思えないわねぇ。レナードが警戒する訳だわ」
「心外にございますね」
平然と答えるケイトに幾分呆れた様子で、アデは尋ねた。
「レナードに、ここに来ることは言ったの?」
「いいえ。けれど、夜に少々『息抜き』の散歩をするくらい、問題ございませんでしょう」
「あら、私との逢瀬を散歩扱いだなんて、酷い子」
飄々と嘯くケイトの言葉にアデが眉をひそめれば、ケイトは清艶に微笑む。
そして、玄関で初めてアデに出会った時のように、洗練された仕草で胸に手を当てた。
「運命の女神の導きで、夜に咲く薔薇姫にお会いできたのでしょうね。幸運なことです」
「ふふ」
少女のように無垢で残酷な笑みをひらめかせ、アデは甘ったるく囁いた。
「私とあなたの出逢いは偶然?」
「ええ、神々の導きでしょう」
「ふふ、『神々』ね、……帝国の、あなたの神々?」
「えぇ。……おそらくは」
二人の視線が混じり合い、周囲の空気が密度を高める。
互いに真意を読み取ろうと瞳の中を探り合いながら、アデは蕩けるような声で尋ねた。
「あなた、『昔』は帝国に居たと言っていたわね?……帝国は広いわ、どこにいたの?」
「幼い頃は覚えておりませんが、物心ついてからは帝都に」
覗き込もうとするアデに飲まれぬように、ケイトはアデの蒼い目から視線を外さず、宵闇に溶けるように囁き返した。
「都一の豪商と謳われ、貴族位に叙せられたサレハ家に」
サレハの名を出した瞬間、アデの目がかすかに見開かれた。
しかし、瞬き一つで驚愕を押し隠し、アデはふんわりと微笑む。
「そう……サレハ家のどなたの元に?」
「はい、……アサド様の元に」
ケイトは、サレハ家に仕えたことなど一度もない。
けれど、サレハ家のことはよく知っている。
そして、サレハを大陸で一、二を争うまでに成長させた前当主のアサドのことも。
アサドは、大陸に名を馳せたサレハ商会を取り仕切る豪傑であり、史上最大の紅玉をスルタンに献上してケイトとの一夜を得た幸運な男だ。
そして、その夜を忘れられず、更なる一夜を欲してスルタンに貢物を続け、身を持ち崩しかけた愚かで哀れな男でもある。
数年前に有能な息子の手により実権を取り上げられて、隠居に追い込まれたと聞いた。
「アサド殿のお名前は、私も聞いているわ」
アデが感情の読み取りにくい微笑を浮かべながら、ふわりと呟いた。
アサドは、大陸有数の規模の商会の頂点に何十年と君臨した男だ。
この大陸の人間ならば、当然名を知っているだろう。
けれど、それだけではない。
「アサド・サレハ……大陸を揺らす男と呼ばれた方ね」
「はい。偉大なお方です。……色々ございまして、今はもう、かつてほどの威光は失われてしまいましたが……千里の先を見透かし、未来までも見通すあの方の
歌うように囁いて、ケイトは薄い笑みを浮かべた。
アサドは、凄腕の戦商人だ。
戦争の始まりは常に、アサドの右手から。
アサドが動けば国が沈む。
戦の影にはアサドあり。
そう言われていた男だ。
そして今もなお、彼の影響力は絶大である。
アデも、その名をよく知っていたのだろう。
もし
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