第37話
「お初にお目にかかります、ケイト様。本日よりケイト様付きに配属されました。若輩の身ですが精一杯努めさせて頂きます」
エリックに伴われてケイトの部屋へ入ってきた少年は、静かに頭を下げた。
年齢の割には堂に行った優雅とも言える仕草に、ケイトはかすかに笑みを浮かべ、エリックを見る。
満足げなケイトの表情にエリックは一つ頷き、淡々と告げた。
「それではケイト様、後のことはお任せいたします」
「承知いたしました」
ケイトの返答を得て、少年を置いてさっさと退室したエリックは、今日も随分と草臥れた様子だ。
来週からレナードが帝都を離れ、政務が停止することを考えると、今はおそらく寝る暇もなく仕事に追われているのだろう。
足早に立ち去る背中に横目に、ケイトは目の前の少年を観察した。
「私はレナード殿下の第一の側妃の位を賜っております、ケイトです。よろしくお願いしますね」
「は。ご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます」
エリックに連れられたのは、ケイトとそれほど背丈の変わらない、華奢な少年だった。
サラサラの黒髪を緩く一つに結え、涼しげな一重の目元に、薄い唇、象牙色の肌。
いかにも東の国の人間らしい容姿の少年は、まだ十代半ば頃に思われた。
身のこなしも、どことなく上品な顔立ちも、それなりに名のある家の出であることを感じさせる。
「あなた、名は何と言うのですか?」
ソファに腰掛けたまま、頭をさげている少年に声をかければ、少年は歌うような声音で答えた。
「我が名は既に捨てました。ケイト様がお与え下さいませ」
「おや」
少年はわずかに顔を上げ、面白そうに片眉を上げたケイトを認めると、再び夜空のような瞳をそっと伏せて、身の上を語る。
「私は東の果てから参りました。元は小さな部族の族長の息子でしたが、父が争いに敗れ、命からがら逃げ出して来たのです。故郷を捨てた時に、私は名を捨てました」
「まぁ」
まるで吟遊詩人の語る物語のような身の上に、ケイトは淑やかに袖口で口元を押さえて驚きを表し、ゆるりと目を細めた。
「それはそれは、随分と大変な道を歩いて来たのですね。……そんなあなたが、どうしてこの国に?」
「昔、レナード様が南の王国にいらっしゃった時にお会いしまして。引き抜かれたのです。それ以来、私はレナード様にお仕えしております」
「まぁ。……そうなのですね」
おそらくは様々な経緯が省略された答えに、ケイトは苦笑する。
きっと、『色々』あったのだろう。
それに。
「顔をお上げなさい。……あなたとは、会ったことがありませんね」
小首を傾げて告げれば、少年は優雅に首肯する。
「はい、お会いしたことはございません。私は、あまり表では動きませんから」
「おや、そうですか」
やっぱり。
ケイトは袖で口元を隠したまま、笑みを深めた。
この少年は、闇に属する人間だ。
おそらくは、レナード個人が飼っている、裏の者。
身のこなしはそつがなく洗練されてはいるが、そこかしこに隙が見られる。
暗殺稼業などではなく情報屋として働いているのだろう。
情報は力であり、生命線だ。
帝国でも、一定以上の力を持つ貴族は、必ず子飼の密偵を持っていた。
ケイトの身の回りにも、よくそういった者たちが入り込んでいたものだ。
帝国では、油断をしていれば、簡単に命を落とした。
死なぬために、必然的にケイトは注意深くなり、そういった偽りの者を嗅ぎ分けるのが得意になった。
随分と鼻が効くようになったケイトは、当時スルタンから重宝がられたものだった。
もっとも、別にケイトに特別な才能があったわけではない。
生死がかかってかかっていれば、能力の向上は早い。
それだけの話だ。
「あなたはレナード様を、殿下とは呼ばないのですね」
何気ない口調で尋ねれば、少年は無邪気なほどににっこりと笑って肯定した。
「私はレナード様にお仕えしているのであって、この国の皇太子に仕えている訳ではありませんから。……それに、ケイト様も同じじゃありませんか」
「ふふっ、それもそうですねぇ」
どこか反抗的に真っ向から見つめてくる少年の幼い敵対心に、ケイトはコロコロと軽やかな笑い声を立てた。
なかなか気骨のある、面白い少年だ、とほくそ笑む。そしてケイトは、さも困ったように言葉を続けた。
「けれど、名前がないと不便ですねぇ。私には名付けのセンスはありませんから……犬や猫ならともかく人の名前は荷が重いこと。……普段、レナード様には、何と呼ばれているのです?」
暗に、犬や猫のような名前をつけられたくなければ答えろ、と告げれば、少年は嫌そうな顔をした後で諦めたように答えた。
「そうですね……レナード様は、ルイとお呼びになりますよ。あまりこの名前を呼ぶ人はおりませんが」
教えたくなさそうに告げたルイに、ケイトはクスクスと笑う。
おそらくその名前は、レナードが与えたものなのだろう。
ケイトと同じように。
貰った名前への思い入れは理解出来たから、どこか挑戦的なルイの態度をケイトは不問に付した。
ただ、少しだけ面白くなかったので、大輪の薔薇のように華やかに、ゆるりと笑んだ。
「ではルイ殿、とりあえず……服を脱いで頂きましょうか」
「……え?」
***
華やかで裾の長い帝国式の衣を纏い、ルイはまっすぐに立っていた。
あまりに普段と違うデザインの衣服に、僅かに戸惑いを浮かべている。
「聡明なルイ殿はもうご理解されているでしょうが。明日、北の宮に移る際には、この部屋を出る瞬間から、私の代わりを務めて頂きます」
「はい」
「細かい仕草や身のこなしなどは、北の宮に行ってからゆっくり覚えて頂きますが、とりあえず歩き方から」
パシリ
ニッコリと微笑むケイトの手には、長い木製の定規。
「時間がありませんので、厳しくいかせていただきます」
「……はい、よろしくお願い致します」
凛と背筋を伸ばして立つケイトの気迫に、一瞬気圧されたルイだったが、すぐに余裕のある微笑を呼び戻した。
「帝国の文化の最先端にいらっしゃった方から薫陶を受けることができるとは、幸せでございます」
「それはよかった」
お互いに微笑を崩さず向き合った後、ケイトはルイから一歩離れた。
ケイトが鋭い視線を注ぐ中、ルイはゆっくりと歩き始める。
一歩踏み出した瞬間、ケイトの手の中で高い音が鳴った。
「背筋を伸ばして!もっと余裕を保って、ゆったりと歩いて下さい」
「は、い」
脚に纏わり付く布を捌きながら、苦心して歩くルイに、ケイトは容赦なく指導を続ける。
「あぁ!それでは足の開き方が大きいでしょう。裾の長い衣であっても、なるべく引き摺らないで!歩き方の問題です。廊下を掃除するのではないのですから」
ピシリ、ピシリ、と肌を打つ高い音が、時々室内に響き渡る。
その度、かすかに体を強張らせながらも、ルイはゆっくりと足を動かした。
次第に衣捌きに慣れ、足運びが自然になってくる。
覚えの良さに、ケイトは内心で舌を巻いた。
「歩くことだけに集中しないで。からくり人形のような動きになってますよ、みっともない。会話をしながらでも優雅に足を進めて」
「はい、ケイト様」
ケイトには遠く及ばないが、違和感なく歩けるようになったルイに、ケイトは雑談を持ちかける。
話すことに気を取られながらも、危うげなく足を進めるルイに、ケイトは顔には出さずとも感心した。
「随分と慣れるのが早いですね。ルイ殿は帝国の服を着たことが?」
「はい。ここまで裾の長い、高貴な方が纏うようなものではありませんが……」
言葉を濁すルイに、ケイトは察した。
「おや、もしかして、帝国に住んでいたのですか?」
「……一時的に」
おそらく、平民、もしくは貴族家の使用人などとして帝国で暮らしていたのだろう。
その国に住み、まるで土地の者のように暮らす諜報員。
ルイは美しいから、きっと高貴な家にもさぞ『需要』があったことだろう。
そんなことを、レナードが命じるとは思えないが。
「なるほど、その日焼けはそのためですか」
「え?」
片眉を上げ、納得したような声音でケイトは呟いた。
小さな声を聞き取ったルイは、訝しげに首を傾げる。
「まだ皇国は春になったばかり。……それなのに、もう真夏の日差しに焼けたかのようですから。あなたの肌には、帝国の太陽は厳しかったでしょう」
「……お気遣い頂きありがとうございます」
にこにこと話すケイトに、ルイは強張った微笑を浮かべた。
けれど、肯定も否定もせず笑みで誤魔化したルイに、ケイトは更に会話を続けた。
「帝国にいた貴方が、どうしてわざわざこちらに?」
「もちろん、ケイト様にお仕えするためでございます。私はそれなりに帝国の文化にも慣れてもおりますし、年の頃もちょうど良かろう、とレナード様のお言葉で」
言外に、ケイトの影武者として呼び戻されたと告げながら、ルイは優雅な歩みを続ける。
「そうだったのですか。……次は私を真似て動いてください」
歩き方に加え、様々な動作を真似させる。
椅子に座る、ペンを取る、紙を拾う、扉を開ける……日常の些細な仕草を、ケイトはルイへ、丹念に観察させ、模倣させた。
まるで舞を舞うように室内を動き回るケイトの後を、ルイが追う。
次第にルイの足運びも踊るような優美なものとなる。
ケイは満足し、動線を指示しながらも話を続けた。
「ルイ殿は、帝国ではどちらに?」
「たいていは帝都に。活気ある市場をぶらぶらしては、帝国の国力に圧倒されておりました」
苦笑しながら話すルイは、ケイトのことを帝国の人間だと感じているのだろう。
帝国を持ち上げるように話す。
あまり、深い話に突っ込まれたくないからかもしれないが。
「宮廷に遊びに来たことはなかったのですか?」
戯れに尋ねれば、ルイはハハハッと笑って首を振った。
「私の身分では、スルタンにはお目にかかるような機会もありませんよ、ケイト様」
冷め切った眼差しで、ケイトの影のように同じ動作を繰り返しながら、ルイは薄い唇を軽やかに動かす。
まるで、スルタンの後宮で夜の花として咲き誇っていたケイトを見下すように。
「私は帝国で市井に混じり、帝国の生活を学びました。市井の留学のようなものです。いやはや、文化と文明の水準の違いを感じましたね。宮廷に上がるような機会があれば、もっと学べたのでしょうが、あいにく私は平民でございますので、そのような機会もなく」
「……そうですか」
さして残念そうでもない口調で歌うように言い切ったルイを、平静な顔で見返してながら、ケイの内心はざわついていた。
身分の低さゆえだと言うが、きっと違う。
ルイの能力と容姿があれば、時間をかけて準備さえすれば、高位貴族や豪商の家、……いや、宮廷へも入り込めたはずだ。
高位貴族や豪商達は、スルタンへの貢物を常に探し求めていたのだから。
市井の諜報員などを任せるには役不足だったろうに、けれどおそらく、レナードはあえて命じたのだ。
ルイは、美しい。
スルタンが見れば、夜伽の相手にと欲するだろうほどに。
レナードは、スルタンからルイを守るために中央から遠ざけたのだと察し、ケイトの胸は鈍い痛みを覚えた。
それは、羨望と、嫉妬に似た感情だった。
そして。
「……なるほど」
ケイトは一つ得心したことがあった。
帝国の離宮のそばで、聞こえた二つの声。
ケイトを、スルタンが使い古した年増のように言っていたのは。
「ルイ殿でしたか」
「え?」
そうか、この少年だったか。
私怨をこめて、満面の笑みでルイを見つめれば、急に空気の変わったケイトに怯えた顔を見せた。
まだ年若い少年相手に大人げない、と思いつつも、ケイトはまるで春の散策へ誘うかのように朗らかに告げた。
「さぁ、ルイ殿。あと数日しかありませんから、私に仕込まれて下さいね」
「は、はい、もちろん……」
「よろしい、では」
ケイトは、顔を隠すための分厚いヴェールを取り出した。
かぶってしまえばルイの顔立ちは透けて見えない。
つまり、中からも見にくいということだ。
「ある程度歩けるようになりましたので、次はヴェールを被りましょう。周囲が見えにくくなりますが、優雅さを失ってはなりませんよ。……躓くなんてもってのほかです!足元を見ない!」
苛烈さを増した指導に、ルイが焦りながら食らいつく。
「熱血のご指導というか……地獄の特訓ですわね……」
冷めた目で見守るアンは、何事もないかのように紅茶の準備を進める。
何も指示しなくても、机の上には二人分の茶器が並んでいた。
察しの良い侍女に、ケイトは笑みを深める。
次はティータイムの作法でも教えよう。
「及ばずながらも、帝国文化の最高峰に十年身を置いた私が、ルイ殿を『帝国後宮に出しても恥ずかしくない』お方にして差し上げますよ」
「は、はいっ。よろしくお願い致します!」
多少の意趣返しをこめて、ケイトはルイに行儀作法と身のこなしを厳しく熱烈に指導したのだった。
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