第36話

「アン、少し尋ねたいのだけれども」


エリックが退室した部屋で、アンが淹れ直してくれた紅茶を飲んで一息ついたケイトは、膨れっ面をしながらお仕着せの皺を伸ばしているアンに声をかけた。


「エリック様は、この後宮の者を一度解雇して、来週の視察に連れて行くというようなことを仰っていたけれど」

「……はい」


振り向いたアンは、どことなく困ったような、言葉に悩む顔をしている。

アンの表情の変化を見逃さないように、ケイトは言葉を続けた。


「ねぇ、アン。あなたは以前、レナード様には味方が多くない、というようなことを言っていた気がするのだけれども。……それと今回のことは関係がありますか?」

「…………そう、で、ございますね。おそらくは」


突然の問いかけに、暫く押し黙った後でアンは言葉少なに答えた。

それ以上話す様子のないアンに、ケイトは慎重に言葉を重ねていく。


「この国に入った時の歓声や、春の宴の様子を見るに、レナード様は、国民からも臣下からも大変好かれているようだけれども、……けれども『味方』は少ない、と?」

「……」


ケイトの問いに答えることなく口を閉ざし、アンは手にしていた服を畳んでテーブルに置いた。

考えこんでいるアンを見つめながら、ケイトは更に口を開いた。


「それは、……例えば、皇太子として、皇帝陛下の他の側室のお生みになった皇子様を、擁立しようとする動きがあるだとか、そういうこと?それとも、潔癖すぎるレナード様を疎み、陥れようとする勢力があるの?」


これまでケイトは、帝国に比べて皇国は非常に穏やかで、平和すぎるほど平和な国だと感じていた。

毒と刺客、陰謀と裏切りが日常茶飯事だった帝国の頃とは違い、あまりにも日々が平穏に流れていたから。


けれど、帝位を望む姉に命を狙われていたという、現皇帝の話を聞き、ケイトは皇国に対する認識を改めた。

この国でも、一度気を抜けば、あっさり足元をすくわれて死の沼に沈み込むこともありうるのだ、と。


「教えて頂戴な、アン。レナード様のために、私は知る必要があります」


情報は、命だ。

レナードを守るために、レナードを取り巻く状況と敵について知る必要があると、ケイトは感じていた。


苦悩の表情で俯き考え込んでいるアンを、ケイトは静かに待つ。

長い無言の後、アンは言葉を選びながら口を開いた。


「……いえ、ケイト様が仰るようなことはございません。宮廷の者たちはおおむね、殿下を歓迎しております」


眉を落としたアンは、まるで諦めたような顔で深く息を吐いた。


「これは、おそらく……どちらかというと、殿下側の問題です」

「え?」


思いもかけない言葉に、ケイトは息を飲む。

ケイトの驚愕を見たアンは、苦笑混じりに続けた。


「味方が少ないというよりも、殿下が『味方だと思える人間』が少ないのです。……あの方は、なかなか人を信用されませんので」


どこか哀れみすら感じる悲しげな声で、アンは続けた。


「おそらく、殿下の『確実な手駒』は、この後宮でケイト様がお会いになった方と、あとは……きっと、両手で数えられるほどかと」

「なっ、それでは、今、レナード様の身の回りは……!」


その少なさと、現在レナードを取り巻く状況にぞっとして、ケイトは凍りついた。

皇太子として高い位置に立つレナードの周りこそ、信の置ける者達で固めるべきのはずだ。

高い位置にいればいるほど、突き落とされた時の損傷は大きいのだから。


「ご心配なさることはございません、ケイト様。宮廷に、もう今更レナード様を陥れようと思う者はおりませんよ」


アンは、ケイトを安心させるように、穏やかに笑いかけた。

これまでには何度も罠があったのだと、そしてそれらは既に解決したのだと匂わせながらも、既に今の宮廷に、レナードを陥れるほどの手強い敵はいないのだ、と。


「……今だから、申し上げられますが、この後宮で勤める人間は、非常に少数で、けれど驚くほどに厳選されております」


アンは観念したような目で、まっすぐにケイトを見つめた。


「レナード様はケイト様がいらっしゃった当初より、ケイト様の身の回りは、信用のおける人間で固めてらっしゃいました」

「……それは」


不可解そうに眉を寄せるケイトに、アンは「あくまでも私の想像ではありますが」と断った上で、静かに説明を続ける。


「最初はおそらく、帝国から『捨てられた』寵姫に対する思いやり。次は『男でありながら側妃となった』ケイト様の情報が外へ漏れることへの配慮。今は……ケイト様自身を隠そうとされているのかと」


目を見開くケイトに、アンはどこか悲しげな顔で微笑んだ。

ケイトを、もしくはレナードを、哀れむように。


「殿下は『間違いなく』裏切らないと確信の持てる人間しか、信用なさいません。ましてや、信頼している者など、更に少なくなりましょう。そして……きっと、ケイト様は、レナード殿下の、数少ない『信頼する者』の一人ですわ」

「ど、うして」


カラカラに乾いた喉から疑問を絞り出せば、アンはこともなげに答えた。


「きっと、『勘』です」

「え、勘?」


あっさりと言うアンは、何を知っているのか、己の答えの正しさを確信しているようだ。


「レナード殿下が持つ『為政者の勘』。人の上に立ち、国を守るべき者として生まれ育ったあの方の持つ、直感です」

「直感……」


抽象的ながらも、妙な説得力を持って、アンの言葉はケイトの胸に響いた。


確かにレナードはケイトに対しても、帝国で得ていたであろう情報や、側近達の評価よりも、ケイト自身と話し、接して対応を変え、決めていったように思われる。

レナードはおそらく、周囲に惑わされることなく、己の目で見て、己の耳で聴き、己の心が感じた通りに行動しているのだろう。


そう同意すると、アンは少し奇妙な顔で、「ケイト様は殿下を美化しすぎている気も致しますが……」と呟いてため息を吐いた。


「まぁ、何はともあれ、レナード殿下は、ご自身の直感が是と言わない限り、その人がどれほど尽くし、国のために生きる様を見せつけようと、真実の信頼は与えません。だから信頼の出来る味方が非常に限られはするのでうが、……これまでその感覚が『誤った』ことはございません」


迷いなく言い切って、アンはケイトの目を見据える。

アンの話す言葉の意味が、しっかりと通じるように。


「今回のような、非常に危険の大きい戦いに出向くからには、おそらく殿下はご自身の信用できる人間だけで固めるおつもりでしょう。ですので、……僭越ながら、私はおそらく最初から数に入っていたように思われます」


肩を竦めてみせるアンに、ケイトは穏やかに頷いた。


「アンは真面目な忠義者ですから、さぞ信頼されているのですね」

「いえ、私の場合は、……殿下への忠誠というよりも、私自身の『目』と、醜いものへの嫌悪の強さを、信頼されているような気がいたします」

「え?」


苦笑まじりの言葉が理解できずケイトが首を傾げれば、アンは何かが吹っ切れたような顔で笑った。


「私は、幼いころからひたすら、美しいものが好きなのです。そして醜いものを激しく疎み、憎悪に近いほど嫌っていました。その対象の最たるものが、人間です」


心根の醜さを感じると、吐き気がしていられないのだ、と続けるアンに、ケイトは絶句する。

アンの言動に、これまでそれほど激しい感情を見かけたことがなかったからだ。

動揺するケイトに、アンは少し照れたような顔で、明るく種明かしをした。


「ふふ、だから私は、ケイト様をお慕いし、お仕えしているのです。ケイト様は、これまでお会いした誰よりも、……いっそ、かなしいほどに、お美しいので」


冗談めかした声で話すアンの思いもよらない告白に、ケイトは何と言えばいいのか分からず、途方に暮れる。

自分がちっとも綺麗な人間ではないことを、誰よりもケイトが理解しているからだ。

けれど、ケイトの内心の葛藤や衝撃を知らず、アンはレナードの話に戻った。


「殿下は綺麗なお方です。僅かの曇りもない透明な水晶のような、光を乱反射して目を潰すほどに輝く金剛石のような、硬質な美しさをお持ちです。だから私は殿下を敬愛し、そして臣下としてお仕えしてもおります」


己の『目』に絶対の自信をもつアンの言葉に、ケイトは同意を込めて小さく頷く。

レナードはとても綺麗だ。

どれほど傷つき、どれほど泥を被ろうとも、その輝きは失せないだろうと信じられるほどに。

首肯するケイトを認め、アンはどこか苦しげに言葉を繋いだ。


「けれど殿下の進む『正道』は、殿下の信じる『正しさ』は、時にとても危険にも思えるのです。誤ることを認めず、間違えることを許さないあの方は、時にとても脆い」


レナードを称えながらも、アンは、レナードの持つ揺らぐことのない『絶対』を、同時に危ういと断ずる。


「曲がることも、傷つくこともない殿下は、『間違った』ことが出来ない。それは大きな短所でもあるとも、思っております」

「……アンは、とても優しいのね」


悲しげに厳しい評価紡ぎ、唇を震わせるアンに、ケイトは優しく笑いかけた。


「大丈夫ですよ。レナード様には、エリック様も、バートン様も、アンも、……そして、及ばずながら私もいるのだから。正しさを曲げられないあの方の代わりに、歪んでしまった部分は私たちが担いましょう」


汚いこと、醜いこと、間違ったこと、歪んだこと。

綺麗でないものも、正しくないものもこの世にはたくさんある。

それを許せず、そのために進めなくなってしまうなんて、そのために汚れてしまうなんて、馬鹿馬鹿しい。


そんなものを相手にするのは、もう汚れている人間がやればいい。

そんなものの存在を、レナードは知らなくてもいい。


もしかしたら、そのために自分がいるのかもしれない、とケイトは思った。


「……ふふっ」


アンが伝えたかったこととは、少し違うかもしれない。

けれど、ケイトは未来に光が見えた気がした。


この皇国で、ケイトの居場所が見つかるかもしれない。

レナードのそばに。

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