第31話

春の宴がはじまった。

招待客たちは、広間の様子があまりにも例年と違うもので、戸惑い騒めいていた。

会場には、いたるところに見たこともないような繊細で作り物めいた花が生けられ、中央に設えられた二つの小さな噴水には、紅玉色の水と琥珀色の水が湧き出ている。

そして広間の高い天井には四つの大きな玉が吊り下がり、そこからは謎の紐が垂れていた。



「……あら、この花」


皇族の登場を待つ広間で、社交界に出て間もないと思られる少女が、香りに惹かれたように花に近づき、幼い仕草で香りを嗅いだ。


「甘い匂い……砂糖菓子だわ!」

「まぁ!」

「おぉ!」


弾んだ声が響くと、紳士淑女たちは感嘆のため息をつき、少女たちの中に押し殺した歓声が上がる。

皇族一族の座る席でも、幼い皇子皇女たちは、今にも駆け出したいような素振りで、そわそわと広間を見渡している。

皆が、例年と趣の異なる春の宴に、昂揚していた。

騒めきの広がる中、皇族の末席に座るケイトは、帝国風の衣装に薄い藍色のヴェールをかぶって、ひっそりと堪え切れない笑みを漏らした。


ドーン ドーン

鐘が鳴らされ、騒めきがぴたりとおさまる。

皇族の席に座していた者たちが一斉に立ち上がり、ケイトも合わせて起立する。

重々しく開いた大広間の中央扉から、皇家が姿を見せた。


「皇帝陛下、皇妃陛下、皇太子殿下のご入場にございます!」


朗々とした宣言とともに、ゆったりと三人が歩んでくる。

広間全体を見渡す上座へと数段の大理石の階段を上り、皇帝は己の椅子の前に立つ。

皇帝を挟んで皇妃とレナードが立ち、広間を見回した。

捧げ持たれた盆から皇帝がなみなみと酒の注がれた杯を手に取ると、広間の人々もいっせいに杯を掲げた。


「皆、よく集まった」


穏やかで力強い皇帝の声が、広間に響き渡る。


「さぁ、今日は無礼講だ。麗しき春の訪れに感謝し、この国と民の健やかな繁栄を願って」


乾杯!

弾んだ声の大合唱とともに、あちらこちらで軽やかに杯が鳴る。

ケイトは静かに皇帝一家に向けて杯を掲げると、一息に飲み干した。


「あぁ、おいしい」


甘い果実酒は北の皇国の名産で、帝国にいた頃からケイトの気に入りの一つでもあった。

満足感の中で囁けば、自然と唇が弧を描く。

広間の中心では、好奇心を押さえきれない若い少女達が花を食い入るように見つめ、噴水へは美酒の香りに誘われた紳士淑女たちが集っている。

皆が、果たしてどう対応していいのか悩んでいることが分かり、ケイトはクスリと笑った。

そろそろ、レナードの出番だろう。


「頃合いかなぁ」


取り繕うこともなく、素の声でケイトが呟いたのと同じ頃、カタン、とレナードが席を立った。


「さて、例年の出し物には飽きたと仰る陛下のために、私は此度の宴に、特別な趣向をご用意いたしました」

「おい、レナードよ。いくら春の宴は無礼講とは言っても、まだ酒もそう入らぬうちから、なかなかに無礼だぞ」

「これはこれは、失礼いたしました」


皇帝の笑い交じりの苦言にレナードがふわりと微笑むと、令嬢たちが陶然としたため息を吐いた。

冗談めかしていても、思わず頬を赤らめたくなるような艶やかな美声が、広間を包み込むように響いた。

あの美しさであれば道理だと納得しつつ、現状とアンの言葉から推測するに、これまで若い婦人たちの誘惑にかすりもしなかったと思われるレナードの朴念仁ぶりを、ケイトはひっそりと苦笑した。

広間中の視線を一身に集め、レナードが言葉を繋げる。


「中央の噴水には、我が国自慢の美酒が湧きだしております。ご自由に汲んでお飲みください。花瓶に生けられた花は全て甘い菓子で出来ております。摘み取って口に運ばれるがよろしい。本日の宴は、何もかも全て、和やかな春の喜びで出来ております」


わぁっと上がる歓声に、この宴の成功を確信して、ケイトもヴェールの下で嬉し気に微笑んだ。

レナードは誇らしげに言葉を終えると、再び席に戻る。

次に彼が言葉を発するのは、出し物の前になるだろう。

そう思いながら、ケイトは自らも、目の前に飾られた花瓶に生けられた花を一輪手折り、口に運んだ。


「……美味しい。料理人たちも、随分と頑張ったみたいだね」


帝国とも遜色のない味わい、深い甘みと、しつこさのない濃厚さに、ケイトは素直に感嘆した。

生菓子は難しい中で、これだけの種類と数を、よく揃えたものだ、と。


「まぁ、皇太子殿下直々に任せられたら、気合も入るかなぁ」


くすくすと笑いながら、ケイトは口の中で甘みを転がす。

花の蕾を象った飴が口の中で溶け、中から薔薇の香りが立ち上る。


「随分と、気が利いたお菓子じゃない」


残った欠片をカリ、と奥歯で噛み砕いて、ケイトは広間の昂揚を眺めて目を細めた。

ここ最近、心を砕いていた成果が十分に表れた景色は、とても心地よかった。

ひとまず半分といったところだが、とても上手く行っている。

レナードも、きっと満足してくれているだろう。

そう思うと、なぜか居ても立っても居られないような気分で、レナードと早く言葉を交わしたくて仕方なかった。

喜びを共有し、そして彼に晴れやかな顔で笑いかけてほしかった。

それは初めての感情だった。


慣れない動き方をする自分の心に戸惑いながらも、ケイトは目立たぬように、ただ物静かに座っていた。

傍目には、いっそ無関心にすら思えるほどに。

実際に周りが、「贅の限りを尽くした帝国の後宮に慣れた者には、さぞ北の蛮国の宴はつまらぬのだろう」と僻み交じりに噂をしていることには気が付いていたが、どうでもよかった。

今更気にするまでもないことであったし、曲がりなりにもケイトは現在、この国で皇家に次ぐ高位にある。

ケイトから声を掛けなければ、彼らはケイトに話しかけることは出来ない。

害がない小物であれば、ほんの小声の雑音など、ケイトにとっては気にするまでもないことだった。


ケイトはぼんやりと広間を眺めながら、復習がてらに最近頭へ叩き込んだ貴族の名と顔を一致させていた。


「……おや?」


こちらへ向かってくる、どこか懐かしい印象のある壮年の貴族にふと目を止め、ケイトは眉を寄せた。

かなり高位の貴族であろうことは、身なりを見れば分かった。

しかし。


「誰だろう……記憶にないってことは、初めて見るはずだけれど」


自分の記憶力にそれなりの自信のあるケイトは、かえって首を傾げた。

見たことはないはずなのに、何故か慕わしい印象を受ける顔立ちに、ケイトが考え込んでいると、その男を見つけたレナードが驚いたように椅子から立ち上がった。


「叔父上!今年はいらしていたのですか!」

「ええ、久しゅうございますな、殿下」


レナードの言葉に、ケイトは納得する。

楽し気に笑む男の顔は、どこかレナードに似ていたのだ。

叔父だったのか、と納得し、以前アンが言っていた皇弟のことかと見当をつけた。


「陛下も、お久しぶりにございます」

「おお、お前は公爵領に引っ込んで、なかなか出てこないからなぁ。ゆっくりしていけ」

「申し訳ありません。なにせ我が領は西の端、色々と、大変でございまして」


西の端にある公爵領は、帝国と、そして南の王国との境界だ。

領主である公爵がなかなか離れられないのも理解できる。

皇国と周辺国の関係は、良好とはいいがたいものであったから。


「お久しゅうございます、叔父上。楽しんで頂けておりますか?」


無邪気に問うレナードに、皇弟は楽し気な含み笑いを返した。


「ええ、存分に。この度の宴は殿下の御考えで?随分と斬新で、気が利いているじゃないですか。真面目一辺倒のレナード殿下とは思えませんな。あなたに任せられたと聞いた時から、今年の宴は確実に面白みのない、つまらんものになると確信していたのですがね」

「痛いところを突きますね」


叔父の揶揄いに苦笑いしたレナードは、軽やかに肩をすくめて告げた。


「実は頼りになる味方を得ましてね」


どこか自慢げなレナードの言葉に、こっそり聞き耳を立てていたケイトは、どきりと心臓が跳ねた。

思わず動揺を隠すように手元の酒を煽る。


「ほぉ、また有能な臣下を手に入れましたか。あなたのところにいるのは、洒落っ気のない者ばかりだったが、今回は毛色の違う洒落者のようだな」

「……宮廷一の粋人で通っていた叔父上には、私の武骨ぶりは目に余るものだったようですね。ご安心を。今後はその者の助けのもとで、もう少しマトモなものをお見せできるでしょうから」

「はっはっは、そりゃ楽しみだ」


小耳に入ってくる会話にちらり、と様子を窺えば、ちょうどレナードも広間を見渡すふりをして、一瞬ケイトに視線を向けていた。

目が合った瞬間、細められた瞳に、まるで悪戯が成功した子供のような色を見つけて、ケイトは慌てて顔を伏せた。

たとえヴェールで隠されていても、紅潮している頬を見抜かれたような気がして、恥ずかしくて仕方なかった。

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