第28話

「……え?」


突然の思いがけない台詞に、ケイトは固まった。

呆然と疑問符だけを声に乗せたケイトに、アンはどこか痛ましげな表情で再び口を開いた。


「殿下はお優しい方です。真面目で、一本気で、純粋で、高潔で、愛情深い方です。けれど、……あの方は、決して、『正しくない道』は選ばれません。時に人を切り殺す刃となるほどに、あのお方は、ひたすら正しい……」

「アン……急に、どうしたのです?あなたらしくもない」


呻くように言葉を続けるアンは、まるで何かの箍が外れたかのようだ。

これまでレナードを讃え、彼への敬慕を隠そうともしなかったアンの、突然の言葉にケイトは戸惑った。

普段の落ち着きを取り戻すように促せば、アンは泣きそうな面持ちでケイトを見つめた。


「私は、誠に僭越なこととは存じながらも……どうしても、案じずにはいられないのです」

「案じる?……私を?」


首を傾げて己を指したケイトに、アンは小さく頷く。


「はい、こんな身の程を弁えぬことを申し上げるのは間違っていると、分かってはいるのです。しかし……私は」


言葉を迷うように唇を噛み締めて、アンは一息に言葉を絞り出した。


「私は…………ケイト様が、ここまで、殿下に御心を尽くされるようになるとは、思ってもいなかったのです」

「っ、ぇ」


嘘偽りの通じないまっすぐな瞳に射抜かれて、ケイトは思わず息を飲んだ。

どのように言い繕っても、真実を見透かしてしまいそうな強い視線に、ケイトはゆるゆると眼差しを伏せる。


「それは、……良くないこと、なのでしょうか?あなたは、私とレナード様の仲を取り持とうとしてくれていたのでは?」


そっと深呼吸をした後に、さも困ったような声を心がけて尋ねれば、アンは悲しげに眉尻を下げながらも頷く。


「はい、仰る通り……私は、ケイト様と殿下が親しくおなりになったら、きっとお二人にとって良いことだと、これから知る者もない皇国でお暮らしになるケイト様にとっても、……信頼できる御人の少ない、殿下にとっても」

「え?」

「いえ、……失言でした、どうかお忘れくださいませ」


ぼそりと零された最後の言葉を聞き取れず、聞き返せば、どこか自嘲するような顔でアンは首を振った。


「ただ、ここまで、とは、思っていなかったのです」

「それは、アン、どういう意味です?」


烟る睫毛に憂いを乗せて、ケイトは静かに息を吐いた。


「まるで私が、殿下と仲違いでもしていた方が良いような」

「いえ、そうではございません!ただ……」


慌てて否定したアンは、何かを耐えるようにぎゅっと瞑った。

そして少し掠れた声で、続けた。


「御心を開き、全てを持ってあの方にお仕えしても、あの方はそれに見合う心を、おそらくは返してはくれません」

「ッ、そ、れは」


厳しい現実を突きつけるアンの言葉は、ケイトの胸を貫き、肺に小さな穴を開けたようだった。

呼吸をするたびに小さく胸が痛んだ。


「……帝国の人間を、レナード様が本気で信じるはずはない、という意味?」

「いえ、出身や出自など、あの方にとっては瑣末なこと」


切れ切れの息の合間に絞り出されたケイトの問いかけに、けれど悩ましげな顔のアンはあっさりと首を振る。


「……では、何故?」


感情を含ませないように、抑えた声で問いを重ねれば、アンはどこか諦念の混じった眼差しを、レナードの去った扉に向けた。


「…………あの方が、誰よりも、皇族だから、です」

「皇族、だから?」


静かに返された答えに、ケイトは瞠目した。


「あの方が真に愛し、御心を尽くすのは、ただ、この国だけなのです。どれほど心を捧げられても、あの方の全ては既に、お生まれになった時から皇国へ捧げられておりますれば、どうしようもありません。どうか、ケイト様は、ご自身のことを、一番にお考え下さいませ」


祈るような哀切な響きでなされる懇願に、ケイトは戸惑った。


「あなたは……誰の、味方なのです?それは、誰のための、言葉なのですか」

「っ、私は……」


一瞬声を詰まらせたアンが、俯いて口を覆う。

唇を押さえた華奢な指の隙間から、『……ひとの……』と、小さく聞こえた気がしたが、アンはすぐに首を振り、その場に跪いた。


「……出過ぎたことを申し上げました。御心を混乱させ、ご不快にお思いになったとことでしょう。どうか、私に罰をお与え下さいませ」

「アン……?」


それ以上は何も語ろうとしないアンに、ケイトは困惑のままため息を吐き、手を引いて立ち上がらせた。


「私がアンを罰する理由はないでしょう。あなたは私のために言ってくれている、それくらいのことは分かります」

「ケイト様……っ、私は、私は、ケイト様だけのために自分の身を捧げることは出来ません。この身はこの国のものであり、この心はこの国を愛しておりますれば。けれど」


泣き出しそうな目でまっすぐにケイトを見つめ、アンは言い募った。


「殿下を敬愛するのに等しいほど、ケイト様をお慕いしております。どうか、ケイト様、殿下の御為ばかりではなく、ご自身のお幸せを、躊躇わずにお求めになって下さいませ。殿下をお想いになる、その御心は美しく存じますが、……その為に、ケイト様が、ご不幸になることは、ないのです」


アンの口から溢れ出る言葉を、ケイトはどこか呆然として聞いていた。


「ケイト様は……幸せになって然るべき、美しいお方なのです。ケイト様の御為でしたら、アンは、この心身を尽くしとうございます」

「アン……」


嘘の感じられない真摯な声と眼差しに、一つ息をつくと、ケイトはゆるゆると頬を緩めた。


「ふふっ、買い被りも、大したものといった気もしますけれど。……気持ちだけ、頂いておきましょう。あぁ、お茶が冷めてしまいました。淹れ直してもらえる?」

「はい」


軽やかな言いつけを、笑みとともに承知して、アンは新しい茶と菓子を準備するために退室した。

その後ろ姿を、ケイトは困ったような顔でぼんやりと見送った。


「ふふっ、くくく」


足音も聞こえなくなると、ケイトはくつくつと小さく笑い出した。


「ふっ、僕が、レナード様の為に、不幸になる?くく、おかしなことを」


一頻り喉を鳴らし、笑いを収めると、ケイトはきゅっと唇を噛んだ。


「……僕は、自分のためにしか生きてこなかった人間だから、……心配する必要など、ないのに」


どこか虚ろな自嘲とともに、ケイトはのろのろとソファに腰掛ける。

光の降り注ぐ窓の外へ視線を移し、あまりの眩しさに顔を顰めて目を伏せた。


「……僕が美しいのは、見た目だけなのに」

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