第24話 閑話 星空の下にて

「……眠れない」


はぁ、と一つ息をついて、ケイトは寝台で身を起こした。

散々眠った後だからだろう。

全く眠気を感じなかった。


目覚めた後、医師に太鼓判をもらったケイトは、普通通りに夕食を食べたが、しかしアンに押し込まれるように寝台へ舞い戻った。

ケイトからすれば、大した怪我だとは思えないが、アンにとっては一大事だったようだ。

後頭部に多少瘤が出来ているくらいなのに、まるで重病人のような扱いだ。


純粋な心配の眼差しに多少むず痒い思いをしつつも、ケイトは素直に従った。

温かな想いを向けられることが、素直に嬉しかったからだ。

なんとなく、照れ臭くさえ感じた。

これまで、経験したことのない感情だった。


「なんか、なぁ」


扉の隙間から細く伸びる光に、ケイトはぼんやりと目を向けた。


最近、感情が無駄によく動き、そして、感情に振り回されそうになる自分を、ケイトは持て余していた。

他者に、環境に、自分の内面が影響を受けるなど、ケイトにとってはあり得ないことだった。


おそらく、これまでは、どうでもよかったからなのだろう。

他人はおろか、自分さえも、ケイトにとっては、究極的にはどうでもよいものだったのだ。

けれど。


「絶対、あの人のせいだ……」


レナードに会ってから、どうもケイトは調子が狂っている。


レナードは、ケイトがこれまで出会ったことのない人種だ。

レナードと交流するようになってからケイトは、他人を客観的にだけではなく、主観的に見るようになった。

そして、計算の伴わない『感情』を、我知らず動かしてしまうようになった。


それは、良い傾向にも、悪い兆候にも、思われた。


「……まぁ、いいか」


ケイトは自分の変化に戸惑いながらも、面白いとも思っていた。

死なないために生きる、暇つぶしばかりのつまらない日々が変わっていく。

それはとても愉快でわくわくすることだった。


「ふふ」


ふわりと息を吐くように笑って、ケイトは掛布をとり、床へ足を下した。

ギシッと小さく寝台が鳴る。

部屋の外で控える者に気が付かれないように、そっと立ち上がった。

裸足のまま床を滑るように歩けば、絹の寝間着がしゅるりと時折微かに音を立てる。


「あぁ、綺麗」


窓に近寄れば、煌々と白銀の月が夜の庭を照らしていた。

半円に少しだけ足りぬ月は、優雅な余裕を浮かべてゆったりと空に浮かぶ。

庭に茂る木々や、咲き誇る花々は、月光を浴びてますます美しく輝く。


音もなく窓を開き、ケイトはテラスへ出る。

はらりと纏っていた上衣を落とし、薄い肌着越しに、透明な光を全身に受けた。

まるで浄化されるような気分で、ケイトはしばらく陶然と立ち尽くしていた。


カサッ


小さく草を踏む音がして、ケイトはふっと視線を庭の隅へ投げた。


「おや、珍しい」


にっこりと、ゆとりのある微笑を浮かべ、ケイトは首を傾げた。


「夜においでになるのは、初めてではございませんか?レナード様」

「……うるさい。お前はなんで起きているんだ。寝ていろ」


しかめ面で茂みの陰から現れたレナードに、ケイトはくすくすと笑って目を細めた。


「昼に眠りすぎて、寝られないのです。よろしければ、話し相手になっていただけませんか?」

「……まぁ、いいが」


不承不承といったように頷く様子は、悪戯が見つかってバツの悪い子供のようで、ケイトは声を潜めながらも、肩を震わせて笑ってしまった。




テラスで話してこんでいては扉の外の者に見つかって叱られるだろうと、ケイトはレナードを中へ誘った。

しかし、レナードは気の進まぬ顔で首を振る。


「いや、それはまずい。外で話そう」

「……室内だと、まずいのですか?」


首を傾げたケイトに、レナードは苦虫を嚙み潰したような顔で溜息をついた。


「夜に後宮に来るなど、バレたらなんと言われるかわからん」

「……なるほど」


何のための後宮だ、と思いながらも、ケイトは大真面目なレナードの気に障らないように、真面目な顔で頷いた。


「それは、いけませんね」

「だろう?……よし」


真顔で思案していたレナードは、突然何か思いついたように悪戯げに目を瞬かせた。


「とりあえず、お前は降りてこい」

「え?」


テラスから庭へ降りるには数段の階段を降りなければならない。

しかし、階段は控えの間の窓の前にある。

見つかってしまうのでは、と躊躇うケイトに、レナードは楽しそうな表情で、ひょいと手を差し出した。


「ほら、お前なら、このくらい飛べるだろ?」

「……なるほど」


小さく吹き出して、ケイトはテラスを囲う低い手すりに片手を掛けた。

レナードが差し出した手を取り、ひょいっと手すりを飛び越える。


「よっ、と」

「ありがとう、ございます」


軽やかに飛び越したケイトの体をレナードはふわりと受け止め、そして音もなく地面へ降ろした。

一瞬間近に感じた体温と息遣いに、ケイトはほんの少し動揺して息をのんだが、すぐにゆったりと笑みを浮かべた。

至近距離で笑い合い、そっと離れる。


そしてケイトは、レナードの手引きで庭の奥へと足を進めた。

夜に後宮を訪れるよりも、夜に庭で語らう方が、よほど誤解を受けそうなものだが、と思いながら。




「ここにするか」


庭の奥、隠れ家のような四阿にたどり着き、レナードは軽やかにケイトを振り向いた。


「ここは、俺の気に入りの場所なんだ。回復祝いに、お前にも教えてやる」

「それはそれは、嬉しゅうございますが……」


得意げな表情を浮かべるレナードに、ケイトは苦笑を返した。


「ここは、かなり奥になってしまいますが、警備は大丈夫なのですか?」

「構わんだろう。そこらの警備の兵士より、俺の方が強い。それに多分、お前もそれなりに強いのだろう?」

「……え?」


平然とレナードの口から飛び出した言葉に、ケイトは言葉を失った。


ケイトには、正統の剣以外に『使える』ものがあると、気づかれたのだろうか。

レナードは、ケイトが闇を棲家とする者達と同じ『手』を持つ人間だと、知ってしまったのだろうか。


そう考えると、ケイトは何故か世界が遠のくような気がした。


「……どういう意味でございましょう」


カラカラの口から、必死に問いを絞り出した。

ドクン、ドクンと嫌な音で心臓が鳴っている。


「ん?あ、いや……」


強張ったケイトの表情に、何かを察したのか、レナードは困ったように笑った。


「嫌みではなく、褒めているつもりなんだが……、バートンとあれだけやりあえるんだ。お前は決して弱くはないぞ」

「……あ。そういう」


思わぬあっさりとした返答に、ケイトは急に恥ずかしさがこみ上げた。

気をまわし、考え過ぎてしまったようだった。

そのせいで、不要な動揺を晒してしまった。

ケイトにとっては、ひどく自分らしくない失敗だった。


「失礼いたしました。お許し下さいませ」


赤くなった顔を隠すために、ケイトは殊更優雅に謝罪の礼をした。

別に気にしていない、と笑って、レナードは自然にケイトへ座ることを勧めた。

大人が二人は座れる距離を空けて、ケイトはレナードの隣に腰を下ろす。


「調子はどうだ?」

「おかげさまで、特に吐き気もなく、問題ございません。少し、たんこぶが出来た程度でございます」

「瘤、か」


ケイトが冗談めかして軽く話し、後頭部へ手をやると、レナードは難しい顔で唸った。

そしてすっと手を伸ばし、ケイトの頭に触れた。


「痛いだろう」

「ぁ、い、え。それほどでも」


急に動悸がし始めた心臓に、ケイトは焦って身をよじる。


「触られると、少し、痛みます」

「あ、すまない」

「いえ」


月の青い光が、自分の頬の赤味を相殺してくれることを祈りながら、ケイトはそっと顔を俯けて呟く。


「お気になさいませんように。……どうか、バートン様にも、そうお伝えくださいませ」

「そういう訳にはいかん。明日、謝りに行かせる」

「……は?」


力強く言い切ったレナードの言葉に、ケイトは数呼吸分、固まった。


「何と、仰いましたか」

「だから、明日、きちんとあいつを謝りに行かせる。あと、エリックもな。俺は朝から視察だから行けないが、ちゃんと言い聞かせておく」


確認により、さらに悪化した事態に、ケイトは眩暈を覚えた。

あの二人が、二人だけでケイトを訪ねてくるなど、面倒なことになる気配しかしない。

出来れば御免こうむりたい、とケイトは切実に思った。


「私は気にしておりませんから、どうか、そのようなことはなさらないで下さいませ。騎士様と剣の勝負をして、負けたからと言って謝罪をされていては、私も立場がございません」


必死に言い募るも、レナードは頑固に首を縦に振らなかった。


「正々堂々と騎士として試合をするのならば、勝ち負けに口を出すのは無粋の極みだ。しかし、今回は、あいつは明らかにお前を甚振って追い込む目的だっただろう。実力差のある相手にすべきことではない。あいつは、お前に謝するべきだ」

「……なるほ、ど」


意見を変える気は更々なさそうなレナードに、ケイトはひとまず逃げに出ることにした。


「それならば、せめて、明日はおやめください。私も疲れておりますゆえ、もう少し、後日に」

「ん?まぁ、それもそうか」

「ええ。あぁ、そう言えば、昔聞いた話なのですが、月に兎が住むという話をご存知ですか?」

「兎?」

「えぇ、東方の地域の伝説らしいのですが……」


ほとぼりが冷めたら忘れてくれないかと願いながら、ケイトは月夜の下で交わすレナードとの他愛もない会話を楽しんだのだった。

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