第23話
『そろそろ目は覚めたか』
『いえ、まだ……』
沈んだ調子で話しているにもかかわらず、なぜかケイトには耳に心地良い声が、遠くで聞こえた。
あぁ、レナードと、アンだ。
そう気づき、薄ぼんやりとした意識の中で、ケイトはふわりと笑んだ。
いつの間にか慣れ親しんでしまったらしい二人の声に、意識がゆるやかに覚醒してゆく。
「……れな、ど、さまと、あん?」
「っ、ケイト様!」
「おぉ、起きたか」
掠れた声で名を呼べば、嬉しそうに弾んだアンの声と、安堵したようなレナードの声がケイトの耳に飛び込んできた。
「目覚めたか」
「ああ、宜しゅうございました」
ぱたぱたと駆け寄るアンの靴音と、早足で歩み寄るレナードの靴音が頭に響く。
なんとなく視界が滲み、やけに音ばかりが耳について、ケイトは一度ぎゅっと目を瞑った。
再び目を開くと、心配そうな顔の二人が覗き込んでいた。
「アン、医師を」
「ええ、呼んで参ります」
心なしか浮き立った声で答えると、パタパタとアンの軽い足音が遠ざかって行った。
「気分はどうだ。丸一日、目を覚まさなかったから、心配したぞ」
「まるいちにち?」
思いもかけぬ言葉に、ケイトは目を見開いた。
それだけ寝ていれば頭も体も違和感が出てくるだろうと、節々の怠さの理由を納得した。
「このまま目覚めぬかと思ったぞ。まったく、……寿命が縮んだ」
深いため息とともに呟かれた率直な言葉に、ケイトは少し戸惑いながらも、レナードに視線を返した。
「ご心配を、おかけして、申し訳、」
「いや、謝る必要はない。バートンがやり過ぎたのが悪い」
カラカラの喉から途切れ途切れに言葉を絞り出せば、レナードは生真面目な顔で首を振った。
そして少しの間口籠もり、ため息とともに呟いた。
「悪かったな。お前が帝国の間者でないかと、疑っていたらしい」
「はぁ」
それはおそらく、至極当然の発想だろうとケイトは思った。
むしろ、これまでケイトの周りにそういった人間がいなかったことが、不思議であったほどだ。
「俺も面白がって、剣合わせを勧めるべきではなかった。……短慮だった。あいつらがそんなつもりだとは思わなかったんだ」
武人は剣で語るから、剣を交わせば距離が縮まると思った、と言い訳をするように口にするレナードに、ケイトは苦笑した。
確かにそれは状況から考えれば、少しずれた、楽観的すぎる思考だったかもしれない。
けれど、レナードだけが悪かったわけでは、決してないのだ。
「いえ、私も断らなかったのですから、自分の責任です。それにその疑いは、皇国の方としてはあって然るべきもの。お気に病まれることではございません」
ケイトが気にするなと笑っても、レナードはどこか辛そうな顔で眉を顰める。
「いや……あいつらは、少し俺を心配しすぎるところがあるんだ。無茶をして、怪我をさせて、すまなかった」
「大事なかったのですから、気になさらないで下さいませ、と申しております」
あまりにも素直に繰り返される謝罪に、ケイトは苦笑を浮かべてゆるく首を振る。
「しかし……実際、目が覚めなかった。危うく、大事だろう」
「まぁ仮に、私が目覚めぬとしても、誰も困りませんし、問題はありませんよ。レナード様は誰にも謝る必要ございません」
和ませるつもりで軽く口にすれば、レナードはぎょっとしたような顔をして、真剣な目でケイトを睨んだ。
「っ、あるだろう!」
「ありませんよ、……まったく」
戯れのはずの言葉に、レナードは本気で反論した。
今回の状況にも、ケイトの発言にも、レナードの方がケイトよりよほど傷ついたかのような顔をしている。
レナードのあまりの落ち込みように、むしろおかしくなって、ケイトは思わずくすくすと笑ってしまった。
「王族が、簡単に謝ってはなりませんよ、レナード様。いつもいつも、私などに貴方は謝りすぎかと」
はぁ、と柔らかいため息をついて、ケイトはベッドに手を付いて、体を起こした。
レナードは自然に手を差し出し、ケイトが体を起こすことを助けながら、不愉快そうに眉を寄せる。
「馬鹿なことを。悪かったと思った時は、自分が誰でも、相手が誰でも、……謝るべきだろう」
人の立場によらず、なすべき正道は一つだろうと、いっそ憤りすら見せるレナードの真っ当な道徳と正義感に、ケイトは思わず吹き出した。
「ふふ、レナード様のそのまっすぐさは何よりの美点とも思いますが……時と場合によっては、急所ともなりえますよ。どうか老獪な者たちに、言質を取られ、弱味を握られることなどないよう、ご注意なされませ」
くすくすと笑いながら、ケイトは目を細めてレナードを見た。
きょとんと瞬いているレナードは、少年のような澄んだ目をしている。
「俺は、奸計に嵌るほど愚かではないつもりだが……」
些か憮然とはしながらも怒ることはなく、どこか戸惑ったような顔をしているレナードに、ケイトは肩をすくめた。
「ええ、もちろん。そのような意味ではございません」
そもそもケイトは、一国の皇子へ諫言する立場ではない。
敵国とも言える異国から下げ渡された、ただの奴隷に過ぎないのだから。
それにもかかわらず、機嫌を損ねるでもなく真面目な顔で聞いているレナードに、ケイトはどこか泣きそうな笑みを浮かべた。
「ただ、私は……」
ゆるりと瞳を伏せて、ケイトはひとつ息を吸い込む。
自分の立場には過ぎた進言だと理解しながら、まるで限りなく神に近いままの穢れない幼子を見るような気持ちで、北の国の未来を統べる気高い皇子の顔を見つめた。
「どうかその美しい御心が、穢れた者のために傷つくことのないように、と願うだけでございます」
「……何が言いたいのか分からん」
ケイトの曖昧な言葉に眉を寄せて、不貞腐れたように呟くレナードに、ケイトは柔らかく息をついて笑みを深めた。
「分からなくてもよろしいのですよ。きっと貴方の御側近の方たちが、しっかりと見極めて下さいます。私のことを疑い、試したように。その行為は、正しいのです」
「正しい?」
「はい。とても大切な、必要なことでございます」
剣の向こうから、自分へ向けられた殺気と疑いの目をケイトは思い出す。
真摯に己の主を愛し、主の敵となりうる相手を憎んでいた。
あれは、真に主を決め、敬愛を捧げ、忠誠を誓った者の目だ。
裏切ることのない者の目だろうと思った。
ケイトがこれまで捧げてきた偽りの愛や忠誠とは明らかに異なるものだった。
自分を刺し貫く激しい負の眼差しは、当然ケイトにとって不快ではあったが、このあまりにも綺麗な皇子を守るためには、必要なものだろうと思われた。
レナードは、国を導き守るためには、あまりにもまっすぐ過ぎるから。
レナードに何と話したのか分からないが、あの男は、いや、あの二人は、きっとケイトを信用はしないだろう。
だが、それで良いのだ。
自分以外の存在を丸ごと信じるなど、レナードの立場では、決してしてはならないことなのだから。
「貴方は下の者の言葉を聞くことの出来るお方。そのままのレナード様でいらっしゃれば、きっと道を間違うことはありません。耳を傾けることさえ忘れなければ、御心のままにお進み下さい。優しさと正しさだけではならぬ道を行かねばならぬ時は、きっと周りが教えてくれます」
かすかに首を傾けて難しい顔をしながら、レナードはケイトの言葉に考え込んでいた。
その真面目さを尊く感じながら、ケイトはふわりと目を伏せる。
音もなく掛布を握りしめている、自分の白い手を見つめた。
冷たく燃えていた、バートンの言葉が耳の奥に蘇る。
『あの方を穢されぬよう』
薄い胼胝すらない、傷も汚れもない滑らかな肌の手は、けれど、決して美しくはない。
あらゆる醜いものを掴み、握り、奪い、捨て去った手だ。
美しいものに触れることは、躊躇われるほどに。
この世の何よりも固く美しい金剛石が、決して壊れることのないように、きっとレナードも美しい生き方のままで、崩れることなく生きてゆくのだろう。
そう信じながらも、ケイトはレナードが、この澄んだ瞳のまま未来を進んで行けることを願わずにはいられなかった。
そして、自分の身がこの美しい皇子の穢れとならないことを、ただ哀しいほどに、祈った。
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