第20話 後宮の庭にて
キンッ
……ゴトッ
「ハッ」
「っく」
剣を叩き落とされて体勢を崩したケイトの喉元へ、目にもとまらぬ速度でレナードが切っ先を突きつける。
両者微動だにせず見つめ合い、一瞬の後、ふわりとレナードが笑んだ。
「ここまで、とするか」
「はい」
ケイトは剣を拾い、鞘に納めながら、ここ数日のことを思い返した。
「お前、なかなか筋がいいな」
初めて剣合わせをした時、レナードは驚いたように目を見開いた。
「病み上がりとも、剣を持つことが初めてとも、思えないぞ」
「まぁ、もともと病んでいた訳ではございませんし」
一週間かけて胃の腑を慣らし、心配性のアンの許可を待って昨日床上げしたばかりではあったが、ケイトはただ食事を摂っていなかっただけだ。
「十分食べておりますから、もう元通りにございます」
「ほぉ?まぁ、確かに顔色も、声色も、全然違うな」
「……あまり、揶揄わないで下さいませ。私は少々おかしかったのです」
片目を眇めて揶揄うようなレナードに、ケイトは頬を染めた。
何もかもに悲観的でおかしな考えに取り憑かれていた少し前の自分が居た堪れない。
「ははっ、まぁ元気になったなら良い」
「はい、……ご心配、おかけしました」
楽しげに声を上げて笑うレナードから目を逸らし、口籠りながらもケイトは素直に謝意を述べた。
柔らかい布で汗を拭い、息を吐く。
「それにしても、体力がないわけではないのだな?薄い体だと思ったが、それなりに筋肉はあるらしい」
「いえ、そろそろ限界でございます、私は持久力がありませんから。それに、おそらく明日は節々が痛むでしょうね」
半刻ほど打ち合っても大して息を乱さぬケイトに、レナードは愉快そうに首を傾げた。
感心したようなレナードの言葉にケイトは苦笑して、事実に少しの謙遜を込めて、肩を竦めた。
「剣の扱いに随分と手慣れているようだが、本当に初めてなのか?」
「えぇ、っと」
手慣れた仕草で剣を片付けるケイトを見て、レナードが興味深そうに首を傾げた。
疑うというよりは、ただ感嘆するような問いかけに、ケイトは一瞬言葉に迷った。
「剣自体を習ったことはございませんが、……踊りやら、護身術やら、剣舞やら。色々と、仕込まれましたので」
暗殺の危険もそれなりにありましたから、とはとても言えず、ケイトは少し言い淀んだ後でそう説明した。
「ほぉ、剣舞か。そうか、さすが帝国の貴族は違うな」
「……はい。あとは騎士様方を見て、応用しております」
「それは凄い」
無邪気に賞賛するレナードの顔を見ていられず、ケイトは額の汗を拭う振りで視線を逸らした。
これまでケイトを所有していた者達は、より良い家へケイトを贈るために、付加価値をつけようとして、様々な技能を叩き込んだ。
だから、口にしたことは全てが嘘ではない。
ケイトは心の中で、どこか言い訳がましく考えた。
「芸は身を助けると言う。お前の腕前を見ると、なかなか厳しい教えだったのだろうが、身になっているところを見ると、良き主人でもあったのだな」
「……はい、そうでございますね」
レナードはおそらく、奴隷として売買されていたケイトの過去が、悲愴で残虐なだけではなかったことを、喜んだのだろう。
それが分かったから、ケイトは曖昧に微笑んだ。
剣舞も、踊りも、別にケイト自身のために叩き込まれた訳ではない。
ケイトの、献上品としての価値を高めるためになされたものだ。
覚えが悪ければ、見える傷や残る傷は付けられずとも、激しく残忍な罰を与えられた。
良い思い出など一つもない。
ましてやケイトは、自らを守るために、必要に迫られて剣を振るい、暗器の扱いを身につけてきたのだ。
『ケイトの未来を案じた優しい主人』に、教えられたのではない。
仕える主人に囮にされて幾つもの残忍な剣先から逃げ惑ったことも、容赦ない凶刃に死を覚悟したこともある。
毒味を命じられてまんまと倒れて生死の境を彷徨ったことも、賓客へのもてなしとして供され死んでも構わないとばかりに手酷く犯されたこともある。
しかしどの時も、ケイトは冷静だったし、絶望もしなかった。
それが当たり前だと、思っていた。
だって、ケイトは『奴隷』で、彼らはケイトの所有者である『主人』だから、
ケイトにとって主人とは、自分を所有し、『命じる者』だ。
それが例え不本意であれ、命懸けであれ、拒む権利はケイトにはない。
彼らは『主人』以外の何者でもなく、そこに『良い』や『悪い』など、考えたこともなかった。
けれど、そんな事は、口には出さなかった。
「はい、……良い主人で、ございました」
「そうか」
完璧な角度で口角を上げて微笑めば、皇子は嬉しそうに頷く。
ケイトの過去が辛いものばかりでなくて良かったと、安心しているように。
その笑みを見ていると、ケイトは体がふわりと軽くなるような気がした。
「レナード様は、本当に変わっていらっしゃる」
「お前、馬鹿にしているだろう?」
「ふふっ、まさか」
どこかいじけたような仕草でレナードは鞘に納めた剣をくるりと手の中で回す。
まるで幼子のような仕草で不満げに眉を寄せたレナードに、ケイトは吹き出して、心の底からの笑みを浮かべた。
「……とてもお優しいと、思っただけでございます」
ケイトは目を細めて、レナードの綺麗に整った横顔を見つめた。
レナードの放つ気配は清冽に澄み切っていて、そして彼を取り巻く空気も軽やかに煌めいている。
まるで彼を包むことを、自然までも喜んでいるようだった。
かつての日々を口にすれば、この優しい皇子様が悲しむのだろうと、なんとなく分かったから。
ケイトは、過去を口にしないことに決めた。
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