第19話

『ケイト様……、お加減はいかがでしょう?粥をお持ちしました』


扉の外から、控えめなアンの声がして、ケイトはゆるゆると顔を上げた。


「粥……」


アンの気遣いを温かく感じながらも、心窩部に重苦しい不快感がこみ上げる。

ケイトはぐっと鳩尾を押さえた。


ケイトの身体はきっと食物を欲している。

けれどケイトは、僅かも口にしたくないのだ。


モノを口にすれば、貪欲な体は栄養を搾りとり、その残滓を管の果てから吐き出そうとする。


けれど、口にしなければ?

そうすれば、『そこ』は綺麗なのか?


あぁ、『そこ』が。

排泄に用いられる穴でなければ、あるいは。


「っ、馬鹿馬鹿しい」


栄養が足りないからか、おかしな思考が脳を占拠し、狂った囁きを零し続ける。

その甘い毒のような声を、頭を振ることで追い払い、ケイトは室外のアンに声をかけた。


「ありがとう、持ってきて貰える?」

『はい……!』


寝台に休んだまま食べられるようアンが沢山のクッションを持って来て、背凭れを作った。

盆の上に乗せられた粥は、優しい香りがした。

ほんの匙一杯分の粥を口を含み、吐き気に気付かない振りで、喉の奥へと水で流し込む。

それだけで、胃の腑が膨れ上がったような気がした。


「……ありがとう」


泣きそうな目で見守るアンに、「後で食べるから置いておいて」と告げて、ケイトはアンを部屋から出した。

寝台の横の小さな机に粥を置く。


カラン

「……あぁ」


硬質な音がして、スプーンが落ちたことに気がついた。

拾おうとして寝台から降りれば、ぐるりと世界が回った。


「っ、あ」


慌てて寝台に片手をつき、眩暈が治まるのを待った。

じわりとしみ出す冷や汗が、ケイトの身体が限界に達していることをまざまざと教えた。


「……はぁ」


視界が揺れぬうちにやっとのことで寝台に這い登る。

布団を被ったケイトは、うつらうつらと瞼を下ろした。

残り少ない力を温存しようかとするように、ケイトの身体は眠りを欲していた。

しかし。


『……待ち……ださ……!』

『呼ん……のは……ちら……だろう』

『……れど、……今は……』


耳が、扉の外の騒めきをとらえた。


押し問答するような声。

アンの足音と、侍女にしては少し重い靴の音。


コンコン



遠慮なく高らかに鳴ったノックの音に、ビクリと体が震えた。

このようなやり方で部屋を訪れる人間を、この国でケイトは一人しか知らなかった。


慌てて寝台に突っ伏し、枕に顔を埋めて耳を塞ぐ。

けれど。


「おい、入るぞ。まったく、居るのなら返事をしろ」


躊躇なく、ドアが開いた。


「何も食べぬと聞く。なんだ、お前のような者でも、ホームシックにはかかるのか」

「……お帰りくださいませ」


窶れやせ細った醜い姿を見られたくなくて、寝台に身を伏せたまま、ケイトは顔を上げずに呟いた。


「なんだ、顔も見たくないか?これまでは、散々誘惑してきたくせに」


どこか困ったように息を吐いた皇子は、けれどどこか呑気な声で尋ねた。


「断食は、私への当てつけか?」

「っな!」


おそらく、皇子の言葉に深い意図はなかったのだろう。

けれどケイトの暗く沈んだ脳には、皇子の言葉は残酷な揶揄を含んで響いた。

栄養不足で思考力も理性も底まで低下していたケイトは、感情の爆発を耐えられなかった。


「貴方の、せいでしょう?!」

「っ、お前」


顔を上げたケイトの、あてつけにしてはあまりにも痩せ細った姿に、皇子は驚愕の表情を浮かべた。

勢いのままに立ち上がれば、再びくらりと視界が揺れてベッドの側へ崩れ落ちる。


「お、おい!大丈夫か?!」


皇子は慌てて、力なく倒れたケイトに駆け寄り、躊躇いなく片膝をついて細い体を抱え起こす。

しかし皇子の手を、ケイトは力の入らない腕で振り払おうとした。


「お忘れですか?あなた様が、仰ったのです。排泄のための、不潔な穴を、使うなど……ゾッとする、と」

「は?」


淀んだ瞳でギッと睨みつければ、皇子は戸惑ったように眉を寄せた。


「ならば、何も食べなければ、私の体から何も排泄されなければ、それならば。あなた様は、私を抱いて下さいますか」

「……なにを、愚かなことを。私は、お前を抱かぬ。だから、そんなこと、気にしなければよい」


困惑しきった皇子に、ケイトが悲鳴のように叫んだ。


「では!私は、何をすれば良いのですか?!」

「え?」


思いもよらないことで詰られたように、皇子の夜のような濃紺の瞳が見開かれる。

その綺麗な顔を睨みつけて、ケイトは酸素を求めて喘ぐかのような声を上げた。


「私は、側室として、ここに贈られたのです!抱いてももらえない、夜伽に使えない人間が、後宮に居てどうするのです?この国では、男は女を愛することが『正しい』のでしょう?ならば、尚更、私に価値はない。それではダメなのです」


惑乱して正気を手放した人間のように叫びながら、ケイトは頭を抱えた。

ケイトは、いまだかつて理性を失ったことなどなかった。

どんな時も、たとえ命の危険に晒されても、常に冷静に判断してきたはずだった。

けれども、飢餓状態の脳はまともな判断を出来なくさせていた。


「おい、落ち着け」


皇子の言葉など、ケイトは全く耳に入らなかった。

ケイトの奥に隠れていた、飾り気のない素の『自分』が、泣きながら表に出てきてしまう。


「だって……それじゃあ僕は、どこにも、居場所が」

「……え?」


呻くようにこぼれ落ちたケイトの気弱な本音に、皇子が瞠目した。

固まった皇子の両腕に、ケイトは縋るようにしがみついた。


「教えて下さい、ここではあなたが僕の主人なのです……!」


身体はカタカタと頼りなく震えている。

悲愴な眼差しで見つめて、絞り出すようにケイトは呻いた。


「ねぇ、皇子様……僕は、ここで、何をすれば良いのです……?!」

「落ち着けと言っている!」


再び髪を振り乱して叫び、半ば恐慌状態に陥ったケイトを皇子は力づくで抱き込み、押さえつける。

簡単に封じられる抵抗に、ケイトが酷く弱っていることを感じて、皇子はため息をついた。


「血が出るから、噛むな」


叫びを抑えるためにケイトが噛み締めていた唇を優しく指で咎め、皇子はため息をついた。


「……はぁ。お前は、思ったより阿呆なのだな」

「…………阿呆? 」


皇子の腕の中で、ケイトの肩がぴくりと跳ねた。


「もうお前は、スルタンの所有物ではないのだ。この国は奴隷制を認めていない。お前はもう、奴隷ではないのに」

「……私は、あなたへの贈答品です。役目を果たさぬモノに、存在意義などありません。私には、他に使い道などないでしょう」


理性を取り戻したのか、一人称を戻したケイトに、皇子は一瞬痛まし気な顔をした。


「…………たしかに、お前には、罪はなかったな」

「え?」


呟く声が聞き取れず、顔を上げて聞き返したケイトに、皇子は気にするなと首を振った。


「いや……悪かったな、お前を否定するようなことばかり言って」

「……え?」


侍女や衛兵からならともかく、同じ視線で謝られることなど、ケイトはこれまでなかった。

ましてや、明らかに上の身分の者から、……自分の主から謝られる、など。


「謝るなど、王者が、気軽に、なさることでは、ありません」

「妙なことを気にするな」


表情を緩めて、鷹揚な仕草で肩をすくめると、困惑のあまり目を白黒させるケイトに、皇子は優しく微笑んだ。


「役目が欲しいなら、剣の相手でもしろ。知らぬのならば教えてやる。そしてその細っこい身体を鍛えろ。……あと、俺の名はレナードだ。皇子様やら、あなた様やら、むず痒い呼び方は止めろ」


視界が揺れ、皇子……レナードの穏やかな顔がゆらりと波打つ。


「何も食べぬから、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えるのだ。とにかく食べろ。そして、もっと筋肉をつけろ。骨と皮ばかりで、今にも折れそうだ」

「でも……」


心配そうに語りかける皇子の真っ直ぐな目から視線を逸らして、暗い表情で躊躇うケイトに皇子は笑った


「馬鹿なことは気にするな。安心しろ、俺はお前を抱かない」

「っ、ぁ」


『抱かない』


その言葉に、何故か深く胸を抉られながらも、ケイトは温かな腕に身を任せ、ゆっくりと瞳を閉じた。


「わかったな?ケイト」


低く響く柔らかな声が、痩せ細った身体を包み込むようだった。


「はい……レナード、様」


堪えようのない感情が溢れるのに任せて、ケイトはとめどない涙を静かに零し続けた。

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