第18話

皇子は、相変わらず日中に、休憩がてらケイトの部屋にやって来た。


初めは誰かの差し金かとも思って警戒したケイトだったが、皇子が毎回討論のお題を持ってやって来るため、裏には特に意図もないのかもしれないと、やがて認識を改めた。


皇子は本当に、ただ会話をしに来ているだけなのだ、と。


「お前はやはり鋭いし、面白いな。スルタンが掌中の珠と秘していただけある」

「それはそれは、身にあまるお言葉でございますね」


ケイトが帝国の後宮で夜を司る大輪の華と呼ばれていたことを知りながら、皇子は全く意に介していなかった。

ケイトが時折送る秋波を気にもとめず、ただ会話を楽しみ、そしてケイトの知識と機知を素直に賞賛するのだ。


お茶を飲みながら嬉々として意見を求めてくる皇子に、本当におかしな男だ、とケイトは苦笑した。


確かにスルタンも、ケイトの打てば響くような回転の速さや対応の柔軟さ、そして的確な状況判断能力を高く評価していた。

だからこそ、ケイトに王宮内を自由に歩く許可を与えたのだ。

ケイトが、我が身を危うくしかねないような危険を冒さぬことを、あらゆる愚かな誘惑に決して乗らぬことを、理解していたから。


けれど、当然ながら、ケイトを愛でていた最大の理由は、幼さを残した貌の美しさと、秀でた閨房術である。

それがなければきっとスルタンは、ケイトに見向きもしなかった。

その点を、おそらくこの皇子は本当のところでは、理解していないのだろう。

人が人を認めるのは、その人自身の中身なのだ、とでも、思っているのだろうか。


あぁ、まったく。

なんともお幸せな皇子様だこと。


悶々とケイトが頭の中で毒づいているとも知らず、皇子が満足そうにお茶を飲みきってため息をついた。


「それにしても、ここのお茶は旨いな」

「ふふっ、アンが有能なのです」

「それほどでも。……ケイト様がお持ちになった茶器のおかげかもしれません」


如才なくにっこりと笑ったアンに、ケイトは可笑しそうに唇を緩めた。


「おや、帝国の茶器も皇国の茶器も、変わらないでしょうに」


ケイトとアンのやりとりに大して興味を示さず、皇子は最後の一滴まで喉に流し込むと、ゆったりと立ち上がった。


「まぁ、なんでも良いが、旨い。また飲みにくる」

「いつでもどうぞ」


くすくす笑いながら、ケイトも立ち上がり、皇子を見送るために部屋の扉までやってきた。


「本日は、このまま寝所へ?」


別れ際に、ケイトは久々に科を作って、こそりと皇子に囁いた。

先ほどまで交わしていた軽口の延長で、どこか悪戯めいた口調で。


「まさか。国を離れていた間に溜まっている仕事が、まだまだ山ほどある。いつまで経っても減らん」

「……おや。夜も更けて参りますけれど」


自分の寝所へ来ないかと誘ったはずが大真面目に返されて、ケイトはいっそ感心した。


「本当にお堅い方でいらっしゃる」


呆れたと言うように肩をすくめて、ケイトは誘うような妖艶な笑みを浮かべた。


「夜は長いですから、よろしければいつでも御出でくださいませ」

「馬鹿馬鹿しい。寝るときは自分の部屋へ帰る。お前もさっさと寝ろ」


バッサリと切って捨てる皇子のつれなさに、ケイトは愉快になって、つい調子に乗った。


「そんな堅いことを仰らず、一度試してみればよろしいではありませんか。今まで経験したことのないような、めくるめく快楽をお教えして差し上げますのに」


クスクスと笑いながら、戯れじみた口調で閨に誘えば、皇子は真剣に嫌そうに顔を顰めた。


「馬鹿なことを。そもそも……男相手の交合は、排泄のための穴を使うと聞く」

「え?」


思いもかけぬ直接的な言葉に、ケイトは瞬きを忘れた。

しかし、固まってしまったケイトの様子には気づかず、皇子はさもお断りだと言わんばかりの苦々しい表情で、首を振った。


「そんな穢らわしい真似、ぞっとするわ」


あっさりと、何も考えていないような顔で告げられた言葉に、ケイトは固まった。


『穢らわしい』


これまで、記憶に残らないほど、何度も言われたはずの言葉だった。


けれど。


「そ、ぅです、か」

「あぁ、だからソレは諦めろ」


片言で返答をするばかりのケイトとは対照的に、大きく伸びをして首を回しながら部屋を出ていく皇子は、普段と全く同じ様子だ。


「それじゃあな、よく眠れ」


背後で返す言葉を持たないケイトの様子には気づかず、片手をひらひらと振りながら、皇子は開いた扉から出て行った。


振り返りもせずに去っていく姿を、ただ見送りながら、ケイトは身体中から力が抜けるような気がしていた。




その翌日から。

ケイトは、食事が摂れなくなった。




「……ご馳走様」

「ケイト様、もうよろしいので?」


心配そうに尋ねてくれるアンに、ケイトは疲れた笑みを返した。


「うん、ありがとう。申し訳ないけど、下げてもらっていい?」

「ケイト様……」


どこか懇願するように、アンが悲しげな眼差しを向ける。

そちらに目を向けることが出来ず、ケイトはじっと器に載せられた食べ残しを見つめた。

ほとんど口を付けられぬままに廃棄されるそれは、平民であれば一生口にすることの叶わない、豪華な食事だ。

帝国の美食に慣れたケイトでも、十分な喜びを感じるほどに。


しかし。


「……食べられそうに、ないから。下げて?」


不恰好な笑みを向けて再度頼めば、アンは渋々と食器を片付ける。

明らかに悄然としているアンの背を見て、ケイトは情けない思いに駆られた。


「ごめんなさい、ちょっと怠いから、休ませて」

「はい……」


ばたり、と寝室の扉を閉めると、全身を酷い倦怠感が支配する。

張り詰めていた気が緩み、その場に倒れ込みそうだった。

渾身の力で一歩ずつ足を引きずるようにして、必死の思いで寝台に辿り着く。


「ぼく、どうなっちゃったんだろ……」


子供のような、言葉が溢れた。


固形物が、食べられなくなった。

水と、ジュースと、飴玉ばかり。

果物ならばと思ったが、それも飲み込めず吐き出してしまう。

無理に口にして水で流し込めば、嘔吐して水まで吐き出してしまったから、諦めた。


こうして自分は、緩やかに死んでいくのかもしれない。

それも、悪くないかもしれないけれど。


「っ、ふふ。なにを、自棄になってるんだか」


随分と荒んだ思考に、笑いがこみ上げる。


どうやら皇子の言葉が、相当きいているらしい。


そう自覚して、情けなさに涙が滲んだ。

手の甲で乱暴に目を拭う。


気づいてしまったのだ。

自分が、あの綺麗な皇子に強いていたのは、『排泄のための穴で交わる』などという『不潔な真似』だと。


皇子に罵る意図はなかったのかもしれないが、ケイトには強い非難と軽蔑のように思われた。


ケイトがこれまで「愛」だと振る舞い、快楽を捧げるために用いてきた武器は、口から入れたものの、残り滓が排泄される場所だ。


そう認識してしまってから、ケイトは、食べることへすらも嫌悪だけを感じるようになってしまった。


口から自分を貫く管が全て、おぞましく感じる。


口から入ったものを消化し、それが外へと出ていく場所が、ケイトがこれまで男を受け入れてきたところだった。

そこは、男たちへめくるめく快楽を捧げるための場所だった。


けれど。


そこは、確かに、とても汚れた場所だった。

いくら綺麗に洗っても、そこは排泄孔でしかないのだと、思い知った。


単に清潔かどうかではないのだ。

排泄物を出すための穴を使用して交わる、その行為が、その不自然な行為自体が。

きっと、皇子には、穢らわしいのだ。


「っ、ぅう……ぅ」


子どもが泣き声を殺すような呻き声が、枕の隙間から寝室の闇に落ちる。

瞼の間から溢れて枕に染み入る水滴が、布越しにじわじわと頬を濡らした。


皇子の言葉は、これまでのケイトを、その身を愛されるために存在してきたはずのケイトのプライドを、粉々に打ち砕いた。

存在からの、全否定だ。


だって、じゃあ、どうすれば良いのだ。

その手段が使えないのならば、男相手にどうやって奉仕すれば良い?

どうやって喜ばせれば良い?

どうやって、価値を認めさせれば良い?


どれだけ考えても、ケイトには、分からなかった。


どうすればいいのかも、どうして苦しいのかも分からず。

ただ、瞳から意味もなく流れる水分を、ひたすら枕に染み込ませていた。


どうすればいいと言うのだ?


行くべき道に惑い座り込んだ幼子の地団駄のように、ケイトはひたすら同じ疑問を繰り返す。

声に出せない悲鳴が、胸の内に木霊した。


この体以外、自分には何もない。

何もないのに。


それを、否定されたら、自分は。

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