第17話
「で、殿下のおなりでございます!」
「え?」
いささか慌てた様子で早足で私室へやって来た侍女に、ケイトは首を傾げた。
「アン、聞いていましたか?」
「いえ」
皇国の地図を広げて、アンから地理の講義を受けていたケイトは、訝しく眉を顰めた。
「突然に、どうされたのでしょうね」
「お気になさらずとも、そう大したことではございませんでしょう」
多少の不安が顔に出てしまっていたからか、アンは安心させるように微笑んだ。
「殿下は素直で真っ直ぐなお方です。何事か腹が立っての怒りのご訪問でしたら、侍女がここへ来るより先に走り込んでいらっしゃることでしょうから」
自国の皇子がいかに単純であるかを知り尽くしているかのようなアンの逆説的な信頼に、ケイトはつい吹き出した。
「ふふっ、そうですね」
「元気にしているようだな」
「お心遣い頂きありがとう存じます。お陰様で、何一つ不自由なく」
にっこりと笑うケイトは簡素な普段着のまま、ヴェールを被ってはいない。
遮るもののない真珠のごとき柔肌も、夜を溶かして凝らせたような黒い瞳も、紅花のような小さな唇も、結い上げられた黒髪から少し解れた後れ毛も、全てを晒している。
飾り立てないからこそのゆとりと、隙ゆえに滲み出る色気。
そんなものを、普通の人間ならば感じ取ったであろう。
けれど皇子は、相変わらずケイトの容姿にはさしたる興味がないようで、あっさりと言葉を続けた。
「暇か?少し相談があってな」
「……ご相談、ですか?」
「あぁ」
ケイトが勧める前に平然と目の前のソファに座った皇子は、なんの思惑もなさそうな顔で口を開いた。
「今度、叔父上……公爵のところにお伺いするのだが、その際の手土産が問題でな」
「はぁ」
思いもよらぬ小さな問題に、ケイトはつい間の抜けた声を返してしまった。
「公爵夫人が大の帝国好きで、たいていいつもは帝国製の装飾品やら果物やら焼き菓子やらを持っていくのだが、『今回は普段より期待しているから』と念を押されてな……。しかし考えても何がも喜ばれるのか分からんから、帝国の人間に聞こうかと思ってな」
真剣に話す皇子を見ながら呆気にとられているケイトの横では、アンがおかしな顔をしている。
ピクピクと小刻みに震える唇の端から、アンが笑いをこらえていることは明白だった。
なんだ、その子供のような相談は。
「……ええっと、公爵夫人は、帝国がお好きなのですね?」
「あぁ、あれは行き過ぎた憧れだろうな。馬鹿な話だと思うが、帝国を見て回ることが出来たら死んでもいいらしい。何か珍しい物や、ご婦人に喜ばれそうな帝国らしい品を知らないか?」
眉間に深い皺を刻んでいる皇子は真剣に悩んでいるらしい。
何しろ、思い余って大して親しくなってもいない異国の人間に、相談に来るほどだ。
何事にも大真面目なこの皇子にとっては、大問題なのだろう。
「そう言われましても、私も帝国内を観光したことはございませんし……あぁ、でも、それなら」
大して帝国の名物や名所など知らないケイトは頭を抱えかけたが、ふと思いついて顔を上げた。
「公爵夫人は、絵はお好きですか?」
「好きかどうかは知らんが、帝国の風景画なら何枚も集めている。部屋は絵画だらけだ」
「同じようなものを何枚も」などと呟く皇子は、なんとなく嫌そうな顔をしている。
きっと絵画を集める意味を理解出来ないタイプの人間なのだろう、とケイトは苦笑しながら言葉を続けた。
「人間が描かれているものは、お好きではない?」
「いや?聞いたことはないが、人物画も嫌いではないだろう。廊下には飾ってあったからな」
特に考えもせず答えた皇子に、ケイトは頷いて、部屋の端の机に置いてあったキャンバスを手に取った。
「では、つまらぬものではありますが、こちらは如何でしょうか?」
「へ?……おい!これは、帝国の後宮か?!」
絵を一目見て、驚いたように顔を上げた皇子は、ケイトの顔をまじまじと見た。
色を含まないまっすぐな視線に、なんとも慣れぬ不可解な気分でケイトは皇子からさりげなく視線を外して答えた。
「はい、私の住んでいた宮で、祝い事の際に楽団が参りまして、宴がひらかれたことがございました。朝から晩まで、後宮の者共が皆集まり、たいそう華やかでございました。その時のことを思い出して、最近描いていたのでございます。帝国の後宮というのは、きっと珍しいでしょう?」
「そりゃあそうだろう。絵師が入り込める場所じゃないからな。……お前、うまいな」
心から感嘆するような皇子の言葉に、ケイトはふわりと頰を緩めた。
「お褒めにあずかりまして、光栄でございます」
「色遣いと言い、構図と言い、本職顔負けだ。お前、なかなかやるな」
恥ずかしげもなく褒める皇子は、じっと絵に見入って首をひねっている。
「ふふっ、あちらの後宮では、正妃様方の肖像画を請け負ったり、ご衣装のご相談を受けたこともありましたから。私の審美眼とセンスは、それなりに後宮でも評価されていたのですよ?」
単純な賞賛に、ケイトは思わず笑って、自慢するように口角を持ち上げた。
「ふぅん、凄いな」
まっすぐに人を褒める皇子の目に、ケイトはくすぐったいような喜びを感じた。
それから、皇子はたまに後宮に顔を出すようになった。
そして来ては、一杯お茶を飲むほどの時間だけ、会話をして去っていく。
ただ話すだけで、帝国の内情を探ろうとするわけでもなく、ケイト自身にも何もしようとはしない。
不可解すぎる皇子の行動に、さすがにケイトが疑問を抱いて「何をしにいらっしゃっているのですか?」と尋ねれば、皇子はきょとんとした顔をした。
「何って、話しにだろう。お前はなかなか面白いからな」
「お話、でございますか」
「あぁ、それ以外なんだ?」
本気で首を傾げている様子の皇子に、ケイトはますます混乱して眉を顰めた。
「私を信用されたので?」
「いや、別に信用はしていないが、だからと言って話してはいけないということもないだろう。お前の視点は新鮮だし、なかなか興味深い」
「……は、ぁ」
あっさりと「それだけの話だ」と言って、ティーカップを置くと、皇子は席を立った。
「では、またそのうち来る」
作法に従い部屋の扉から皇子を送り出しても、ケイトはまだ混乱していた。
皇子は、ケイトを、何だと思っているのだろう?
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