第16話
ケイトは、第一の側妃として、後宮に迎えられた。
側室の中でも妃と呼ばれる「正式な側室」であり、場合によっては公式の場に伴われることもある立場だ。
序列は正妃に次ぐ二位であり、もし正妃に男児が生まれなかった場合、まず第一の側妃の産んだ男児が候補となる。
序列は家柄でほぼ決まり、本人の器量はあまり関係がない。
後継争いを避けるために決められた仕組みであると聞く。
今回は帝国のスルタンより直々に下賜されたとのことで、スルタンの不興を買わぬためにも、第一位とされたようだった。
そのため、どこの馬の骨とも知れぬ帝国の人間の血が皇家に混じることを嘆いた者も多かったと噂に聞き、ケイトは失笑した。
序列がどれほど高いところで、ケイトが子をなすことは、ありえない。
馬鹿馬鹿しい話だと思った。
与えられた後宮の一室で、暇潰しに絵を描きながら、ケイトは、侍女に教えられた皇国の常識を思い出した。
「皇国では、皇族と呼ぶのは現皇帝陛下と、その直系の方々のみです。現陛下が即位されたと同時に、前陛下のお子であられた皇弟殿下は臣籍に下られ、公爵を名乗っていらっしゃいます」
皇家の系譜を用いながら説明してくれたのは、帝国からずっとケイトに付き従ってくれている娘だった。
名をアンと言い、驚くべきことに伯爵家の娘だった。
アンはなぜかケイトに惚れ込み、皇国へ戻った後もケイトの側付きを続け、見事に侍女に徹している。
皇国について学びたいというケイトの望みを汲んで教育係を買って出てくれたアンは、皇国の皇家について、とても分かりやすく教えた。
アンの有能さを、その時に初めてケイトは実感したのだった。
「また、皇族に関しましては血を絶やさぬために、基本的には一夫多妻を認めております。しかし正式な妻は一人だけとされており、その妻をないがしろにすることは許されておりません。
ちなみに貴族階級につきましては、正妻のみを許し、そのほかは第二婦人など「妻」ではなく、愛人や妾とされます。その者たちの生んだ子には家督を継ぐ権利はなく、正妻に子がなかった場合は正妻に引き取られ、養子とされます」
淡々と話し続けるアンの言葉をケイトは特に感慨もなく聞いていた。
帝国では地位と名誉と財産のある人間は、何人もの妻を持ち、何人もの愛人や奴隷を飼うのが一般的であったから、随分と慎ましく清らかなことだ、と思った程度であった。
「皇帝陛下もたいそうな愛妻家でいらっしゃいますが、皇妃様は殿下の出産の際にたいそうお苦しみになり、お子が生しにくいお身体になられました。そのため、皇位継承権を持つ男児が皇子殿下御一人ではまずかろうと、側室を何名か後宮へ入れられました。皇子殿下に何かのことがあれば、殿下の弟君が皇妃様のもとに引き取られて皇子となることもありましょうが、幸い殿下はご健康にご成人され、あのようにご立派になられました。今となってはそのようなことを口さがなく申す者もおりません」
誇らしげな言葉には皇子に対する尊敬と愛情が存分に込められていた。
端々に感じる皇子への皆の思い入れに、ケイトは少し呆れてしまうほどだった。
「陛下はご側室の御方たちのことも大切にはされておりますが、正式の場へは決して伴わず、皇妃様のみを側に置かれます」
今のケイトには、これは正妃への気遣いではなく、皇国全体の習いであったのだと分かる。
帝国で聞けば、随分とお優しい王だと思っただけであろうが。
「今、殿下にご側室はいらっしゃいませんので、ケイト様が唯一のお妃様でございます。また第一の側妃でいらっしゃいますから、たとえ他の側室様方がお入りになりましても、正妃様がいらっしゃるまでは、後宮での振る舞いをお気に病まれることはありません」
微笑むアンの目は、ただただケイトを安心させようとしたものであった。
ケイトはそれをどこか現実味のない思いで、ぼんやりと見ていた。
「皇国は比較的保守的で、少し新しいものが入ることを嫌います。これまで男の方が正式の側妃とされたことはございませんので、外向きには女性のように振る舞われた方が何かと便が良いかと存じます。謁見の際は、誠にご賢明なご判断でございました」
ケイトを賞賛するアンの声は優しく、欠片もケイトを傷つける意図はなかった。
そのはずなのに軋んだ胸は、何であったのだろうか。
「第一の側妃様ではいらっしゃいますが、女性ではございませんし、異国のお方でいらっしゃいますので、正式の宴へのご参加も、おそらくは不要でございましょう」
当然のように告げられる未来は、ケイトがこの先この皇国で、後宮で、自分の居場所を作ることの難しさを示しているように思われてならない。
「色々と、帝国とはかなり違いますので、戸惑われることも多いかもしれません。けれど、おそらく帝国の後宮ほど厳しい規律はございませんので、手続きさえ踏めば皇宮や城の外へお出かけになることも可能です」
いつでも後宮から出られるのだと、そう告げて、アンは穏やかに笑った。
「どうかお心安く、お暮し頂けましたらと思いますわ」
「そうですか。……ありがとう、優しいことですね」
ケイトは、笑みを強張らせないようにするので、精一杯だった。
ケイトはずっと、「飼われるもの」だった。
ケイトは、暇潰しに「中」でやんちゃをしたいとは思っても、外へ出たいなんて思ったことはなかった。
外の世界へ出たが最後、そのまま家の門は閉じられるかもしれないから。
外が中よりも良いなんてことはあり得ない。
だって、中に居れば食事は取れるし、今より悪い環境へ売り飛ばされることはない。
閨房内の戯れで手酷く扱われたどころで死にはしないし、きちんと手当てや薬も与えられる。
中に居さえすれば、充分な庇護のもとで暮らせるのだ。
外に出てしまったら、偶然の事故に見せかけて殺されることだって、ありうるのだ。
ケイトは、囲い込んで欲しかった。
独占されたいし、利用されたい。
利用価値があると、捨てるには惜しいと、失くすのは損だと、思われたいのだ。
それが、生きていくために必要だったから。
この後宮で居る場所を得るためには、皇子にケイトの価値を認めて貰わなくてはならない。
だからケイトは、皇子と夜を過ごさなければならないのに。
後宮に入ってから三日、皇子は一度たりとも、ケイトの部屋に足を運んではこなかった。
国を離れていた間に溜まった雑務を片付けているのだろう、そのうち顔を出すと自信満々なアンに保証されたが、ケイトには希望は薄いように思われた。
しかし皇子が後宮を訪れない以上、後宮から出られないケイトには皇子と顔を合わせる手段すらない。
この場所で生きていく権利を手に入れるための第一歩は途轍もなく困難に思われて、ケイトはため息を隠せなかった。
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