第9話
「ここはいい、向こうの片付けを手伝ってやってくれ」
ケイを睨みつけたまま、淡々と青年に命じる皇子に、ケイはにこりと笑みを向けた。
「おや、……やはり、気づいておいででしたか。意地の悪いことを」
命辛々にケイから逃げるがごとく飛び出して行った青年へは欠片の興味も見せずに、ケイはクスクスと楽しげに笑った。
「なにが、意地の悪い、だ。……お前、わざとやっていたな。窓から見える角度で、妙に接近して……あからさま過ぎだ」
「ふふっ、さて、どうでしょう?」
舌打ちせんばかりの顔でケイを見ると、皇子は苛立ちをかき消そうとするように髪を乱暴に搔き上げて、大きく息を吐いた。
「我が国の優秀で勤勉な兵士を誘惑して、堕落させようとするな。……この、悪魔め」
「悪魔だなんて、ひどい」
「なにがだ、真面目な若者を誑かして」
どすん、と荒々しくケイの目の前に腰を下ろし、皇子は憎々しげに真っ直ぐケイを射抜いた。
「ふふっ、お口が悪いこと。私は何もしておりませんのに。少しお話をして、そしてあの方が優しい言葉を下さっただけ。手を触れてもおりません。ちょっとしたお喋り……それでも、なりませんか?」
コロコロと面白がるように笑うケイに、皇子が苦々しく吐きすてる。
「あまり揶揄うな。彼らは厳しい規律の中で、欲望を持て余している。襲われても知らんぞ」
「おや、心配して下さる?」
「あぁ、その結果首が胴体と離れることになる、哀れな我が国の兵士をな」
にべもなく言い切った皇子に、ケイはおかしそうに唇と目に弧を描いた。
「ほんとうに、ひどいお方」
「何がだ。ふんっ、それにしても、女のような口調で話す奴だな、お前」
「雅やかな口調は、お気に召しませんか?」
女々しいとでも言うように馬鹿にした目で見下ろされたが、ケイは敢えてきょとんとした表情を作り、柔らかな頬に手を触れた。
ケイがしれっと返せば、皇子は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……我が国は、蛮族の国とでも言いたいか。帝国の奴隷め」
「おや。それは、ただの事実にございますね」
育ちの良い皇子の罵倒する言葉の少なさに可愛らしさすら感じながら、ケイはゆるりと余裕のある笑みを刷いた。
「ええ、仰る通り、わたくしはこの帝国の主の奴隷でございます。けれど、国境を過ぎれば、紛うことなく、あなた様の奴隷となる者でございます。蛮勇の国の覇者にお仕えすることもまた、楽しみにございます」
敢えて野蛮な国と皇子が自らを貶めた言葉を否定せず、そして皇子からの罵倒の言葉をもするりと受け止めて、ケイは優雅に笑ってみせた。
「……俺は、奴隷など要らん。皇国に、奴隷はいない」
複雑そうな顔で否定する皇子を、ケイは口元を優雅に隠して、幼く愚かなことだと小さく嗤った。
スルタンは、ケイを皇国への褒賞として下賜した。
己の意思などなく持ち主が変わる「モノ」が、奴隷でなくて、何なのか。
皇国には、奴隷はいない?
たとえ居なくても、ケイは奴隷だ。
スルタンの所有する奴隷として、スルタンから皇国に贈られたのだから。
そもそも、物心ついてからずっと、ケイは奴隷として生きてきた。
スルタンの後宮に入るより前は、ただひたすらに従順に主に仕えるために存在してきた。
スルタンに見出されるより前は、巷に掃いて捨てるほど溢れかえっているただの奴隷の一人だったのだ。
今更奴隷でなくなったら、むしろ困ってしまう。
奴隷として少しでも優れた地位の者の寵を勝ち取り、良好な環境で生きていく術しか、ケイは知らないのだから。
だから、ケイはこの皇子の心を惹きたいのだ。
主として仕えるに相応しい、この美しい皇子の心を。
「要らぬと仰いましても、事実でございますから。スルタンに手を放されてより、私は皇子殿下のしもべとなる者にございます。そのために、こうして皇子と共に参ったのですから」
言い切った後で、ゆるりと吐息をついた。
そして、瞳を潤ませて、下からまっすぐに皇子の藍色の瞳を見つめた。
「何なりと、お申し付け下さいませ。我が君」
「……はぁ」
しかし、しっとりと濡れた眼差しに欠片も惑わされることはなく、皇子はさも胡乱げにケイを見返した。
「何が、我が君、だ。……お前は、どこまでも胡散臭い男だな」
「ふふっ、おや、そうでございましたか?」
この皇子はどこまでも、ケイをただの奇妙な「男」だ、として扱うらしい。
ケイがどれほど妖艶な誘いをしかけようとも、全く擦りもしないような顔で胡散臭そうに眺めてくる。
しかも、本人の話をを聞くところによると、たとえケイが女でも同じ扱いだったのだろう。
「くくっ」
心底、変わり者だなと、ケイは笑みを押し殺した。
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