第8話
あともう少しで国境を越えるという頃。
休憩で外に出ていたケイは、突如降ってきた俄雨にうたれた。
ぼんやりと水の糸が幾筋も射し込む天を仰ぎ見れば、鈍色の雲の合間から白い陽光が覗く。
目を細め、光を探しているうちに、体をしっとりと雨が濡らした。
乳白色の肌に、濡れた薄い衣が張り付き、透き通る。
雨に打たれるなんて、何年ぶりだろうかと思いながら突っ立っていたら、傘を手に慌ててやって来た侍女によって馬車の中へと押し込まれた。
心配そうな侍女に、肌触りのよい布で髪や肌を拭われ、心地よさに眼を細める。
「お風邪を召されるといけません」
眉を顰めた侍女は、優しく肌を濡らした水滴を拭き取ると、そのままケイの身を包む布を解いていく。
全て着替えさせるつもりなのだろう。
侍女の手に逆らうことなく、するりと肩から衣を落とす。
肌着のみになったケイに、ほぉ、と侍女の口から感嘆のため息が漏れた。
「真珠のような、肌ですね」
「ふふ、ありがとう」
今となってはほとんど自分付きとなっている侍女のうっとりとした言葉に微笑みを返し、先ほど横目で捉えた情景を満足感とともに反芻した。
皇子は、確かにケイを見ていた。
ケイの方向をチラリと確認し、不自然に眉を顰めていた。
雨に濡れ、服から透き通る肌の艶めかしい質感に目を奪われていたのか、それとも。
ケイに見惚れて欲望を露わにしていた兵士達の視線に、危うさを抱いたのか。
どちらにせよ、構いはしない。
ケイにとっては、自身の躰への皇子の興味を惹けるのならば、とりあえずは成功であったのだから。
***
俄雨の対応に追われる外の様子を眺めながら、ケイは自分を見張るために付いている、自分とそう年の変わらない青年に、するりと視線を投げた。
「外は随分と忙しいようですが、大丈夫でしょうか?」
「え?えぇ、問題ございません。我々は、急な天候の変化には慣れておりますから」
「あぁ、確かに、あの侍女の子も手慣れておりましたね」
先ほどケイの着替えを終わらせた侍女は、自分も濡れてしまったため、着替えてくると言って席を外していた。
気の良さそうな青年が「お気遣いありがとうございます」と返すのに微笑んで、ケイはゆっくりと座席に深く腰掛けた。
「皇国とは、どのような土地なのですか」
ポツリと問えば、青年は少し考えた後で、生真面目に答えを返した。
「帝国のような肥沃な土地ではありませんし、温暖な気候でもございません。けれど、神の住まう峻厳な山々と、精霊の住まう澄んだ深い川に護られ、大変清らかに美しい国です」
「それは、楽しみですね。人はどのような?帝国とは、やはり違うのでしょう?」
小首を傾げて問いを重ねれば、青年は僅かに躊躇った後で頷いた。
「……そう、ですね。人は真面目で、謹厳実直を美徳とし、享楽を嫌います。寒い北国では、真面目に皆で協力をしないと、生きていけないのです」
困ったように眉を寄せながらも青年は、真面目に答える。
可愛らしいことだ、と思いながらも、ケイは敢えて悲しげにため息をついた。
「そうですか……とても正しく、美しいお国でいらっしゃるのですね……。ふふっ、爛れた帝国の宮中に染まった私では、皇国の皆様のお目に叶うことは難しいでしょうね……」
悲哀に染まった表情で、ケイはきゅっと膝の上で手を握りしめる。
ケイの健気な絶望に、青年は慌てたように口を開いた。
「そんな!ケイ様は、大層お美しい方です。誰もがそう申すことでしょう」
「そうでしょうか?皇国は、お美しい方が多くいらっしゃる。それこそ、この度の帝国の留学生の方達も天の遣いもかくやの美しさであったと聞きました」
瞼を下ろし、はらりと落ちた前髪に暗い色の瞳を隠して、ケイは弱々しい悲嘆を零した。
「そんな国に私が参上したところで、恥ずかしいばかりで……あなた方の国では、私は、ただの年老いた、醜いおとこなのでは?」
「そんなこと、決して!」
思いもかけぬ言葉に泡を食ったように否定を言い切った青年は、立ち上がらんばかりの勢いで言葉を繋げた。
「ケイ様、そのようなことは決してありません!あなたは、私がこれまで見た誰よりもお美しいです。我が国でも、きっとあなたよりお綺麗な方はそうおりません」
情熱的に、夢を見るような目で告げて来る青年に、ケイは意図して儚げに、けれど蠱惑的に微笑みかける。
「本当?」
「はい」
陶然とした眼差しを向ける青年を絡め取るように、下からまっすぐに見つめたまま、ゆるりと目を細めた。
「ふふっ、良かった。私にはまだ、僅かなりとも、魅力が残っているのですね」
「ええ!勿論ですとも」
「ふふっ、それなら、……あなたも、私を抱きたい?」
妖艶で儚げだったはずの花の顔に、不意に現れた少年の表情。
悪戯げに輝く漆黒の瞳に、青年は捕らえられて動くことも出来なかった。
「……え?!」
「あれ、違いましたか?」
「あ、あの、いえ、その」
真っ赤になって吃ったように言葉を口の中で騒がせている様子に、ケイは、ふぅ、と小さな吐息を漏らした。
そして、一度下に落とした視線を、ゆるりと持ち上げる。
「じゃあ、まさか……もしかして、抱かれた、い、とか?」
「ひっ」
ふわりと突如として立ち昇った濃密な色香に、色事に慣れぬ青年は息を飲み、硬直してしまった。
「ねぇ、どっち?」
そっと足先を伸ばす。
「私は、どちらでも、構いませんよ」
「っ、あ」
赤く染まった頭の中にある煮立った脳から、青年はすっかり思考を手放したようだった。
目の届かない布の下で、青年の固まった足先に、するりとケイの足趾が触れようとした、その時。
ガチャリ、と突然扉開いた。
「そこまでだ」
突然かかった鋭い声に、青年が弾かれたように立ち上がる。
「っ、皇子殿下!」
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