第7話

女とですら?


思いもよらぬ発言に驚きを隠せず、ケイは僅かに眉を上げた。


この皇子は、本物だ。

本物のくそ真面目の、……お子様らしい。


笑いたくなりながらも、ケイは目を細めて余裕の表情を崩さなかった。

おそらくはここでの対応が今後の立場を決めるのではないかという、直感があった。


「よく知りもせぬ人間と、唇を合わせ、体内で触れ合うなど、ゾッとするわ。おぞましい」


心底嫌そうに顔を歪める皇子に、ケイはゆっくりと口角を上げた。


「おや、随分と綺麗好きな皇子様でいらっしゃる。……皇国の一族は北風を従え戦場を駆り、戦神のごとき勇猛果敢な強者だと伺っておりましたのに。そんなことで、決して美しいとは言えぬ戦場を耐えられるのですか?」


揶揄を隠そうともせぬ口調に、皇子はぎり、と歯軋りをして、隠しもせぬ怒りをケイに叩きつけた。


「贅を凝らした後宮で贅沢三昧のぬるま湯に浸かっている人間が、……本物の戦場も知らぬくせに、減らず口を叩くな!」

「……ふふ」


ケイは、ゆっくりと深く息を吸った。

愚かな子供を見るごとく、自分より背の高い男を見下すように眺める。


ケイは、戦に出たことはない。

けれど、戦場は知らずとも、死との境は知っている。

罰として一週間食事を禁じられ、水分すら口に出来なかったことも。

主人とともに賊に襲われ、囮とされて刃の中を逃げ惑ったことも。

主人の代わりに毒を盛られて三日三晩生死の境を彷徨ったこともある。


たしかに、スルタンの後宮に入ってからは、随分と安全に、何不自由なく暮らしてはいたけれど。

その後宮だとて、夜に紛れた刺客が飛び込んでこない訳ではないのだ。

ただ、スルタンのつけた護衛が退けているだけで。

時折、兵士を突破した者を相手に剣を持つことすらもあった。


自分を守るのは、所詮は自分だけだ。

身を守るために、これまでもケイは幾度も武器を持ってきた。

正式な師についたことなど一度もない。

必要に迫られて得た、我流の武術だ。

正統な剣術など知らず、暗器の使い方ばかりが巧くなった。


そんなこと、この綺麗な皇子様が知るはずもないけれど。


「俺はスルタンのように、お前の言う通りにはならんぞ。媚び誘惑しようなどと、無駄な努力はしないことだ」


嘲笑うように言い放つと、皇子は席を立った。

それを頑是ない子どもの癇癪のようだ、と皮肉に歪めた口角を更に引き上げる。


「おや、お食事は?」


揶揄うようにケイが問えば、皇子は吐き捨てる。


「食う気が失せたわ」

「ふふっ、左様で。私は頂かせていただきますので、失礼します」


食うことに困ったことのない男の台詞に吹き出し、ケイはしれっとフォークとナイフを取った。


「慣れぬ北の食事は、一人でも楽しいものですので、お構いなく」

「……ふんっ」


にっこりと笑ったケイに、精一杯顰め面をして、皇子は荒々しく席を立った。

僅かに騒めく周囲の気配に全く頓着せず、ケイはそのまま優雅に食事を始めるのだった。



***



馬車に揺られながら、外を眺めるばかりの時間が続く。

ケイの態度に完全に機嫌を損ねた皇子は、馬車には乗らず、馬を駆って隊の先頭近くを走っている。

馬のための休憩時に、外の空気が吸いたいと懇願すれば、渋々ながら許されたことに、ケイはまた笑った。


やはりあの皇子様は、とても優しくて、甘くて、真っ当らしい。


馬車を降り、離れることを許されたのは、ほんの十数歩の距離までであった。

馬たちが水を飲む小さな泉を眺めながら、ケイは振り向くことなく、自分を見張る兵士にぽつりと問いかけた、


「あなた方のお国では、男を愛でる者はおらぬのですか?」

「へっ?」


心細げなつぶやきに、少し動揺したように兵士が口籠る。


「あ、えぇと」

「……あぁ、すみません。わたしと口をきくことは、許されておりませんか」

「いえ!そんなことは!」


自嘲するように目を伏せれば、慌てたように否定する若い男に、ケイは微かに振り返り、少しだけ口角を上げて不恰好な笑みを作った。


「けれど……あなた方の皇子様は、私のことを、どうやらとてもお厭いのようです」

「えっ、と」


言葉を探して視線を彷徨わせる兵士に、ケイは前を向き直り、諦めたように投げやりに呟いた。


「良いのです、わかっておりますから。……年老いた見苦しい男に言い寄られても、悍ましいばかりでしょう」


「老いたなど!ケイ様は、まだ十代半ばと言っても通りましょう。我が国ではまだ成人を迎えぬ者と変わらぬご容姿でいらっしゃる!

それに我が国でも、美しい少年を愛でる趣味は高貴な方々の中では一般的でございますし、むしろ高尚なものとされておりますよ!」


必死に言い募る男の真摯さに、微かに喜ぶように俯いて、ケイは感謝を述べた。


「ふふっ、お優しい方、慰めをありがとうございます。けれど……でしたら、なぜ、皇子殿下は……」


消え入るように悲しげに囁き、そっと唇を噛んで睫毛を震わせれば、一歩ケイに近づいて、兵士は小さく息を飲む。

ケイが泣いてしまう、とでも思ったのか、必死な顔で思案し、言葉を絞り出した。


「我が国の皇子は、大層高潔で誇り高く、その……少し潔癖なお方なのです。普通の、男ならば、誰でもケイ様に、目を奪われることでしょう」


言いにくそうに答える兵士は、きっと皇子を尊敬しているのだろう。

純粋な好意と憧れと真摯さを瞳に宿し、けれど目の前にするケイの色香に惑わずにはいられないのか、若い欲望がちらついている。

目を伏せて恥じ入るようにケイがほのかに微笑むと、ぶわりと兵士の瞳に篭る熱が温度を増す。


ケイにとっては、他愛のない相手であった。

落とす必要すら、感じられぬほどに。


そもそも、兵士達をいくら籠絡しても無意味なのだ。

国の中枢を押さえておかなければ、この国に贈答品として贈られたはずのケイに、未来はない。

下っ端には、用はないのだ。

けれど、あの皇子様相手には、そんな者でも使い道がないわけではない。

ケイには、哀れな若い男を、無意味に泥に引きずり落とすつもりはなかった。


ただ、少しだけ使わせて頂こう、と、思った。

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