第6話

「いや、そんな」


信じられない、とでも言うように皇子は首を振った。


「……お前、が?帝国の至宝だと?……あのスルタンの、愛妾だと?」


まるで恐ろしい化け物が目の前に形作られていくのを見ているかのように、皇子の顔は次第に歪み、薄い唇からは呻くように呟きが落ちる。

ケイは小さく口角を上げて、まるで秘密を告げるように囁いた。


「ええ。広間にて御手を離されるまで、私の身はこの帝国の主のものでございました。けれど今は、皇子様のモノにございます。なんなりと、ご用命下さいませ」


太陽の下には不似合いなほど、ねっとりと色を含ませた声に、皇子は不愉快そうに眉を顰めた。


「馬鹿馬鹿しい。お前、男だろう」


理解できないとばかりに美しい顔を歪めて、皇子は吐き棄てる。


「はい、ご覧の通り。乳房を持たぬ男にございます。紛らわしい格好で失礼申し上げました」


口元は片手で隠しながらも、愉快そうに細めた目元で、ケイが面白がっていることは丸わかりだ。


「……なぜ、男が愛妾をしている。無意味ではないか」

「意味、とは、また異な事を」


いっそ憎々しげな皇子の表情すらも、人の目を奪うほどの魅力に満ちていて、ケイはときめきのままに舌舐めずりでもしたい気分だった。


「帝国では男が男を愛でることも、女が男を愛でることも、女が女を愛でることも、珍しいことではございません。皇国では、男が女を愛でるのみなので?それは……なんとも人生を、損していらっしゃる」

「なぜ、子もなせぬのに、俺が男を抱かねばならん」


心底忌々しそうに直截的な言葉を吐き捨てた皇子に、ケイはふわりと花が綻ぶように笑ってみせた。


「お美しく、高潔な皇子様。簡単な話です。私にあなた様のひと時をお与え下さいませ。そうすれば」


一つ小さく呼吸をして、ケイは蕩けた瞳に煽情的な熱を灯して囁く。


「あなた様が知りもせぬ快楽を、わたくしは捧げてみせましょう」

「っ、要らんわ!」


語気荒く言い放つ皇子様は、ガンッとテーブル叩きつけた。

慌てて近寄ってこようとする周囲を片手で押さえて、皇子は燃えるような瞳で睨みつけた。


「哀れな娘がスルタンに捨てられたものかと同情していたら……馬鹿馬鹿しい。お前と帝国の価値観は、俺には向かん。黙って口を閉じていろ、この穢らわしい者め」


押し殺した声で告げる皇子に、ケイは冷え冷えとした笑みを返した。


「おや……スルタンに媚びるため、奴隷を差し出した御国に、私の勤めを貶めることが出来るのでしょうか」

「彼らは奴隷ではない!」


皇子の言葉を嘲笑するようなケイの言葉に皇子は腹立たしそうに言った。


「あれは、スルタンの、要望だ。この度の各国との謁見は、献上品に、条件があった。色々と綺麗事で飾って遠回しには言っても……要は美しい人間を、と言う話だ」


怒りのままに髪をかきあげる皇子は、まるでスルタンに向けられなかった怒りをぶつけるかのように、ケイを睨みつけた。


「我が国の民を、スルタンの欲望のための、奴隷になどさせるものか」


強い目で言う皇子は、まさしく上に立つ者なのだろう。

言い切る声の強さに、ケイの腰にぞわぞわとした興奮が宿る。


「彼らは正式な、留学生だ。戯れに誇りを踏み躙り、命を奪うことは許されない。そんなことがあれば我が国は正式に抗議するし、各国への評判は地に落ちるだろう。そんな不要の不評を買うほど、今代のスルタンは愚かではあるまい」


「左様でございますか。それは、随分なお優しさで」


茶化すように目を細めて笑うケイに、皇子は舌打ちせんばかりに苛立ちを表し、眉間に深い皺を刻んだ。


「スルタンが、こんな低俗な欲望を露わにして、属国に醜い要求をするようなことがなければ」


一瞬、地へ視線を落として呻くように呟くと、皇子は怒りに任せたようにキッと顔を上げ、ケイを敢えて挑発するごとく嘲弄の笑みを浮かべた。


「はっ!おおかた、お前に飽きたのだろうがな」

「っ」


明らかに自分を傷つける意図を持って放たれた言葉に、ケイは不覚にも一瞬怖気付いた。


『理想』だったはずのケイの『終焉』を勘づいたスルタンが、新たな『お気に入り』を探し始めているのには、気づいていた。


だから、ケイは自分から捨てたのだ。

あの国と、あの地位と、あの男を。


ケイが人生の半分近くを捧げ、その奉仕への対価のごとく、戯れにケイの命を守り続けた、あの帝王を。


情がないわけではない。

ケイの能力を、存在を、価値を、欠片なりとも認めてくれたのは、あの男だけであったから。

彼の利益となるほどに役立つ人間として、彼にとって好ましい存在として、ケイはあの後宮でおそらくは過分なほどの存在価値を与えられていた。

例えそれが、一時的な評価であったとしても。


その日々を全く惜しんでいない訳ではない。

たとえ自分から捨てたのだとしても。


僅かに唇を噛むケイの感傷には気づくことなく、皇子ははっきりと告げた。


「女と契ることすら疎ましいのに。……何も成せぬのに、男のお前と契るなど、決してありえぬ。


俺に二度と、そのようなおぞましい誘いをかけるな」

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