第2話
鏡を見て、ケイはニコリと微笑んだ。
「今日も、綺麗に出来た」
真っ黒な艶のある髪を緩く編み、ひとつに垂らす。
ケイは、複雑な編み上げは好まなかった。
きつく結えば頭痛がするし、あまり手を加えない方が少年好きのスルタンの意に沿ったからだ。
素のままに近い姿で、美しい身体を伸びやかに動かして、ケイはいつも緩やかに日々を生きていた。
帝国生まれの男ほどではなかったが、動けば動いた分だけ筋肉がついてしまうから、なるべく過ぎた運動は避けて柔らかな肢体を保ってきた。
女に贈られるならともかく、男の元で囲われている限りは、強く性別を感じさせない程度にしなやかでほっそりとしている方が良いだろう。
抱かれたい側の男ならば、そもそもケイを好まない。
くるりと上を向く量の多い睫毛は瞬きのたびに音を立て、くりっとした二重の瞳はまるで幼気な少年のような無邪気さを纏う。
ふっくらとした薔薇色の頬と、紅をさしたように赤くぷるんと潤った唇はまるで十代半ばのような瑞々しさだ。
帝国の人間に比べて一回りは小柄で、幼い顔立ちのケイは、少年を好んで愛でる人間に、とても受けが良かった。
あどけなく瑞々しい容姿と、成熟した閨房の手管。
相反するはずの二つをケイは微笑みながら共存させていた。
若さを好むスルタンも、ケイへの寵愛は十代を終えてもなお深く、また、多くの人間にケイを見せびらかし、そして夜伽におけるケイの具合の良さを自慢していた。
歴代でも図抜けた好色で名を轟かすスルタンの寵を長きに渡って独占してやまないケイは、欲望に塗れた高貴な者たちにとって一度は触れ、手折りたいと願う花だった。
スルタンは、己を満足させる貢物を献上した者たちに、一晩に限り、飾り立てたケイに触れる権利を与えた。
ケイを与えられることは「スルタンを最も喜ばせた」ことと同義であり、最高の栄誉であると同時に、事実最高の褒賞でもあった。
天上の夢とも形容される快楽を求め、スルタンに目の眩むような宝石を捧げてケイとの一夜を願う者は、老若男女を問わなかった。
そして一夜を過ごした男女は、揃ってケイを褒めそやしてスルタンを羨み、かくも極上の妾妃を囲うスルタンの力を讃えた。
それは、多少はスルタンへの媚を含んだ過剰の賛辞であったのかもしれないが、全くの嘘ではなかった。
誰もがケイとの夜を、「これまで経験した中で最良の夜だった」と口にする。
男であろうと女であろうと、ケイは全身全霊をかけて、極上の夜を提供する。
それがケイの存在意義だからだ。
何も持たないケイには、それが出来なくなることは、即ち死を意味する。
なんとしても生きていたいとは思わなくても、わざわざ死にたくはないから、ケイは、命じられるままに夢のような夜をあらゆる者たちに捧げた。
それが、少し変化するだけだ。
帝国から隣の皇国へ、老いてなお欲深いスルタンから若く美しく皇子へ、変わるだけの話。
「ふふ、さぁて、参りますか」
敵情視察と久々の冒険を兼ねて、ケイは、彼らが滞在している離宮の一つに、様子を伺いに行くことにしたのだ。
あの北の国の皇子は、明後日に帰国する。
それに合わせて、ケイは飾り立てられ、送り出される。
「この国で最も美しいもの」として、帝国の威信をかけて。
帝国最高の技術の集う後宮の者たちの手にかかれば、どうしたって美しくはなるだろう。
けれど、相手の好みであるに越したことはないから、皇国の人間の趣味を探るのはとても有意義なことだ。
皇国の人間達が、下賜される自分をどう考え、感じているのかにも興味がある。
それに、これが一番大きいかもしれないが、変わりばえしない毎日に、ケイはそろそろ暇を持て余していたのだ。
スルタンには王宮内ならばどこを歩いても構わないと、何年も前から許可を取っているから構いやしない。
王宮内で見聞きした情報をケイが寝物語に語ることを、スルタンはむしろ喜び、有意義な情報であれば褒美を取らせることすらあった。
皇国側からは唾棄したくなるような行動かもしれないが、武器も何も持たずにうろついていた人間に、暗殺や間諜の疑いをかけるほど、皇国も切羽詰まってはいないだろう。
もしそうなったとしても、明後日、皇国へ贈られるまでは、ケイはスルタンの所有物であり、掌中の珠とも言える存在だ。
スルタンを恐れる彼らに、即座に切って捨てられることは考えにくい。
また、たとえそうなったとしても、その時はその時だ、と思ってもいた。
死にたい訳ではなかったけれど、どうしたって人間は不死ではない。
明日まで生きていられるかだって、分からないのだ。
それならば、安全ばかりを追い求めるよりも、いつ終わるか分からない人生を存分に楽しむことの方がケイにとっては大切だった。
矛盾しているようだが、ケイにとっては刹那的な生の積み重ねが今であり、今後もその考えが変わることは考えられなかった。
「ふふっ、ワクワクする」
ケイは鏡に向けてふわりと流し目を送り、反転した自分に笑みを閃かせた。
さも楽しげに輝く瞳に、ケイは我ながら愉快になる。
飾り立てられた布を剥いだ時、理想の姿をした人間が出てきたら、あの綺麗な顔はどれほどの驚愕で彩られるだろうか。
子供のように無邪気で愉快な計画に、ケイはにこりと笑んだ。
侍従のような濃い色の衣に、薄紫の布をふわりと頭へ巻きつけて 、扉を出る。
「昨日も目元しか出てなかったし、見つかっても僕だと分かりはしないだろうけど、まぁ」
ケイはくすり、と優雅に口角を上げた。
危険は感じなかった。
万が一、皇子に見つかって正体が知れたとしても、そのまま自分に堕とすことが出来るだろうと確信できるほど、ケイは今日も充分に美しかった。
***
後宮に仕える侍従のような姿で離宮の廊下を歩くケイに、意識を向ける者はほとんどいなかった。
時折振り返り、不自然に視線を送ってくる人間もいたが、怪しんでいるというよりは、ケイから匂い立つ清艶な色香を感じ取った者たちだったのだろう。
彼らの目は、欲に濡れていた。
一歩一歩、離宮の中へと足を踏み入れるたびに増していくその視線は、ケイの自信と喜びを強めていった。
身分の高い者ほど強く嗅ぎ取る魅惑の香気は、ケイが持つ唯一にして最大の武器だったからだ。
「ていのいい厄介払いでしょう」
見咎められても言い訳のきく最後の領域。
高貴な者たちが過ごす空間へ踏み入れる一歩手前の庭園を横切っていると、苛立たしそうに吐き棄てる声が聞こえてきた。
「いかに美しいと言えども、年のいった愛妾を下げ渡すとは。我が国を馬鹿にしているとしか思えない!」
「おい、口が過ぎるぞ」
嗜めるような声にも苦みが混じり、不快感は隠し切れていない。
「口が過ぎる?全て本当のことでしょう!あのご高齢のスルタン様の愛妾を何十年もしてきたと聞きます。そんな老婆を与えられるとは、皇子がお気の毒過ぎる」
「いい加減にしろ!帝国内で、スルタンへの不満を口にするなど、刎頚となっても文句は言えんぞ」
押し殺した声での叱責に、ようやく若い声の憤りが静まる。
深いため息の後に、諦念混じりの落ち着いた男の声が、どこか言い聞かすような響きで聞こえてくる。
「仕方ないことだ……我らの皇国は、帝国とは比べるべくもない小国だ。二つの国の格の差を考えれば、どのような者であっても、皇子の第一の側妃として迎えねばなるまい。まだ一人の妃も持たぬうちから、我らの美しく気高いお方は……あぁ、確かに……なんとも、おいたわしい事だがな」
悲しげに呟いて去っていく足音は、おそらく皇子の元へ戻って行ったのだろう。
「ふ、くく」
随分と低い評価に、ケイは必死に笑いを堪えた。ケイが後宮に侍っていたのは十年ほどだが、確かに、愛妾として上がるのには薹が立った年齢かもしれない。
けれど、自分で言うのはおかしいかもしれないが、帝国で生きた伝説のように扱われる妾妃を下げ渡されるのだ。
申し訳ないが、年齢ばかりは我慢して頂きたい。
「あー、スルタン様も、嫌われてるねぇ」
会話を聞くと、帝国のスルタンが散々楽しみ尽くした後の愛妾を下げ渡されることは、彼らの自尊心をいたく傷つけたらしい。
だが、スルタンには全く悪気はないし、その発想は仕方ないことでもあるだろう。
実際、王と家臣ほどに、二国の地位は離れているのだから。
愛妾を下げ渡すのは、彼にとっては何の意図もなく、ただの「褒美」なのだ。
「まぁ、仕方ないね」
期待が低ければ低いほど、初めて自分と見えた時の驚きは増すだろう。
自分にとってはきっと悪くない条件だ、と思った。
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