泥まみれの宝石〜潔癖皇子に恋した奴隷〜

燈子

第1話 帝国の後宮にて

なんて美しい人間だろう。


それが、彼を見た最初の感想だった。







「我が君、お願いがございます」


夜、スルタンの寝所に呼ばれたケイは、いつものように自分の所有者の欲を心ゆくまで満たした後で、褐色の肌に手を這わせながら耳元に囁いた。


「今朝我が君に謁見していた、あの金の髪を持つ美しい人間を、我が手元に置きとうございます」


普段ならば、夜を明かした後の愛妾の願いには二つ返事で許しを与えるはずのスルタンが、微かに瞠目すると何事かを考えるように顎に手をやった。


「あぁ、それは難しいな」

「難しい?……この世の総てを統べるスルタンである貴方様でも?」


幼い顔で含み笑いながら、訝るように首を傾げる。太い首に額をすりつけてきたケイのまろやかな背を撫で上げ、スルタンは満足げに笑った。


「ふふ、そなたは世辞が上手い。……だが、あやつは隣国の皇子だ。なかなか難しかろう」

「……あぁ」


なるほど、皇子だったのか。

ケイは表情を変えぬまま、目を少しだけ細めた。


ケイは、スルタンの奴隷であり、後宮一の愛妾だった。

後宮に住む愛妾達の子に王位継承権はなく、生まれた子にはただ兵士となり皇家に忠誠を誓う義務だけがある。

だから、子をなせぬ男であっても、子を孕む女であっても、立場は平等であった。

そしてこの灼熱の国に似合わぬ柔らかな肌と漆黒の髪と瞳を持つケイは、長年に渡りスルタンの第一の愛妾であった。

これまで、ケイがスルタンに願って、叶えられない望みはなかった。

ケイは常に、スルタンの権勢を誇示するために誂えた、後宮の妾妃達が煌びやかに座する座席の最高位を位置する場所に座っていた。

異国の使者達が持参する貢物で好みのものがあれば、その場で下賜されるのが常であった。


今朝もそうであった。

そしてその場で見たのだ。

この世のものとも思われぬ、美しい金の髪と、自分に似た闇色の瞳を持つ、美しい男を。

その者が何者であるか、興味を持てばその場で分かっただろう。

異国語の全てが解せずとも、後宮で過去最高の寵愛を誇るケイには、当然のように通訳はついていたのだから。しかし特に興味もなかったゆえに、ケイはスルタンとの会話も、通訳の言葉も聞き流していた。

だからスルタンの話に、ケイは納得の思いだった。


あの高貴な美しさ。

あれはやはり、生まれついて上に立つ者のモノだった。


あぁ。

ますます、欲しい。

なんとしても、手に入れたい。

そして、自分へ熱い愛を捧げさせたい。


久々に感じる凶暴な欲求にとろりと目を細めたケイには気づかず、まるで良いことを思いついたかのようにスルタンは短い笑い声を上げた。


「だが、あやつが気に入ったのならば、贈ってやってもよいぞ?」

「え?」


思いもかけない言葉にどこか物騒な思考を停止させ、きょとんとスルタンの皺の深い目を覗き込めば、鷹揚に微笑まれた。


「あやつの国から、何人も美しく年の少い奴隷を貰ってな。褒美に余からもこの国で最も美しいモノを授けようと言ったところじゃ」

「……ふふっ、それが、僕だと?」

「おお、その通りじゃ。まだ手放すには惜しいが、仕方あるまい。余の好みは十三、十四の瑞々しい肌じゃ。そなたは老けぬし、あまりにも余の理想であったゆえ、かれこれ十年近くこのハレムを任せておったが、そろそろ頃合いじゃろう」


にこにこと表情を好々爺のように綻ばせながら、目は好色な色に濡れている。


「……ええ、そうでございますね」

「そなたの色香をもってすれば、あの妙に禁欲的な隣の皇国でも、栄華を極めることが出来るであろうよ。我が帝国の美と技で、あの澄ました皇子の鼻をあかしてやれ」


はっはっはと豪快に笑うスルタンの老いた肌を愛おしげに撫でながら、ケイは緩い笑みを浮かべた。


「我が君の、お望みのまま」

「ははは。となれば最後の夜じゃ、楽しませてくれ」

「御意に」


意図を持ったスルタンの乾いた指が下半身へと下がっていくのに甘い声を上げながら、ケイは冷静に考えた。


そろそろこの男も死ぬだろう。

シマを移すにはとても自然で、いい頃合いだ。

あの美しい人間を、自分のものにしてしまおう。







ケイは、両親は知らない。

生まれ持った名前もない。

気づいた時には、もう貴族の屋敷に飼われていた。

きっと、酷く幼いうちに、奴隷として売られたのだろう。

物心ついた最初の役目は、幼い少女の玩具だった。

美しい絹で何重にも縛り付けられて着飾られたり、犬のように芸をしたり、首に縄をつけて庭を散歩をしたり。

決して飼い主を傷つけない生き物として、重宝された。

少女が飽きて愛玩動物が不要になると、その父親のモノになった。

様々な手管を教え込まれ、男の体に奉仕することを学んだ。

奴隷の身には過ぎた教養を拷問のように叩き込まれ、旅芸人の楽器弾きや踊り子のような真似まで教え込まれた。

ある程度形になった後は、新しい奴隷に気を取られる主人に放り出されるように、その男の妻のところへ遣られた。

そこでは女を悦ばす術を叩き込まれた。

男よりも余程容赦のない指導に、母親や女に対する幻影は一気に消え失せた。

男に対する幻は、最初から見てはいなかった。


けれど、その時の技術は確実にケイの力となり、今の立場を築く礎となったのだから、むしろ感謝している。

最初の家では、良くしてもらえた、と思う。


考えてみれば当然だった。

彼らは、そのうちケイを「上の者」へ貢ぐ心算だったのだ。

心証の良い贈り物というのは難しい。

この成熟しすぎて腐敗した暑い国で、最も簡単なのは愛玩用の美しい人間だ。

異国人であれば、尚更珍重されて好まれる。


ケイは、黒髪黒目の、異邦人でもあった。

それは、きっと、奴隷に堕ちた人間としては、とても幸運なことだったのだろう。


貢物として用意する人間を、貴族は粗末には扱わない。

貢物は贈った先で気に入られることが第一であるし、気に入られれば望みを聞いてもらえる。

そこで、貢物の口から自分の家の引き立てを願ってもらわねばならないからだ。

反対に「あの男達には酷い目に遭わされました、どうか倒して下さい」などと言われれば、お仕舞いだ。

貢ぐ先は、自分よりも高位の貴族だと、相場は決まっているのだから。


ケイはどんどんと「贈られ」ていった。

新しい場所で新たな技を覚えて、新たな知恵を得て、高貴な者たちの愛玩動物として、さらなる高みへと昇っていった。


そして少しずつ、少しずつ。

ケイは帝国で最高権力を持つ男の元へ、近づいていった。


行き着いた至上の場所は、たいそう居心地が良かった。

スルタンの後宮は、皆平等だ。

皆が、スルタンの奴隷だからだ。

生まれも出自も関係ない。

必要なのは容姿の美しさと、男を悦ばせる手管と、魅惑的な肉体だけだ。

完全な実力主義だった。

ケイは、後宮におさめられてから、ずっと一番のお気に入りであり続けた。

少年から青年へ羽化する途中の危うい美しさが好みだとほざく老いたスルタンの要望に応え続けた。

十二から、十年間。

肉体は多少年を取ろうとも、ほとんど変わることのない瞳とあどけない表情が、スルタンに愛された。

この国の人間に比べて驚くほど老けにくい自分の容姿と、去勢もしていないのに喉仏もなく、帝国の男達に比べれば筋肉もつきにくい自分の肉体に感謝した。

スルタンに愛されるために去勢を行い、感染症で命を散らしていった美しかった人間達の末路を見ていたから、そんなことをしなくても済む、そしてスルタンから勧められなくても済む己に感謝した。


十年、だ。

スルタンのすぐ側に侍り、各地の要人やその妻をもてなし、程よい我儘と程よい欲と程よい愚かさを見せ、暗殺されぬよう必死に生きてきた。


確かにそろそろ、頃合いだろう。

次代のスルタンは女好きだ。

自分の地位は危うくなる。

それならば、安全なうちに、自分もまだ美しいうちに、新しい場所で立場を固めるのが賢い。


「我が君の仰せのままに、寒い北の国へも参りましょう。そして我が国の華やかに雅な我らの文化を、知らしめてみせましょう」


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